第十二話
「見て、あれがポルカラードの三面滝よ。川が三股になって流れてるでしょう? 白い水しぶきが崖の先端を残して包むから、まるで雲に浮かぶ浮遊大陸みたいだって昔話題になったのよ」
ミニーは見下ろす懐かしい風景を見て、年甲斐もなくはしゃいでいた。
「狭いんだから暴れないでくれ……」
リットは地上を見下ろすことなく空平線を見つめ、早くユニコに到着しないかとうんざりしていた。
ポッポ火山から立ちのぼる紫煙や、風に消えるキャラメル・サドンアートの砂絵を発見したなど、ミニーは地上にあるものを発見するたびに、テンションを上げてリットに報告するのだ。
景色に興味がないリットは、全てに適当な答えで返していた。
「リット……ヴィクターはもっと世界を愛してたわよ」
ミニーはリットの反応がつまらないと、唇を尖らせて不満をあらわにした。
「親父と同じ女でも愛せってのか?」
ミニーは「あら」と両頬を押さえて、わざとらしく照れてみせた。「なんなら試してみる?」
「あのなぁ……黙っててくれって言ってんだ。はしゃぐ天使はマックスの時に十分味わった」
「腹違いの息子同士の恋愛ってのも乙なものね」
「わーったよ……なんだ? 滝がどうしたってんだよ」
「まったく……まだまだ甘いわね……。女の言葉一つに、三つ言葉を返せるくらいの男にならないと」
ミニーはもっとしっかりしなさいとリットの背中を強く叩いた。
リットがマックスを連れ出した時とはまるで逆だ。あの時は人生経験の浅いマックスに、リットが先輩風を吹かせていた。
しかし、今はミニーに翻弄される立場になってしまった。
「虹が綺麗だとでも言えばいいか?」
「虹? あら……本当綺麗ね」ミニーは虹の飛沫によって作られた虹を見下ろした。「でも、もっと驚いたらどう? 上から見た虹は円形だったのか!? って」
大げさなミニーの口調に、リットは「それオレのマネか?」と呆れた。
「ヴィクターのマネよ。あの人ってば、なんでも大げさだから」
「違いないな」
リットはそのとおりだと笑った。それは愛想笑いではない、心からの笑みだった。
その表情に気を良くしたミニーは続きを話し始めた。
「実際私は驚いたわ。虹が橋になってるだなんて、地上からでなきゃ見えないもの。他にも……そうねぇ……川もそうだし、山も驚いたわ。空からだと、山の峰しか見えないから」
ミニーは少女のように見える無垢な笑みを浮かべていた。
その目に見ているのは今ではなく過去だ。
ヴィクターと出会い、浮遊大陸を飛び出し、情熱に燃え上がり、夢を胸に抱くことを覚えた日々を過ごし、空を見上げることを覚えた頃。ミニーは地上で生きることの意味を覚え、空で生きることの意味を忘れてしまった。
浮遊大陸での日々が全て思い出と変わると、価値観も変わってしまう。
それが今、地上を見下ろすことにより、だんだん感覚が戻ってきたのだ。
といっても、今は答えを知ってしまっている。森を緑に染める木々の下の生活。宝石のように輝く川に寄り添う生活。
いつかの少女だった自分を背中越しにして、改めて地上を見下ろす。郷愁と新鮮さが混じり合う不思議な気持ち。
この気持ちは、ヴィクターに手を取られたあの日と同じだった。
ミニーはうっとりした表情をして目を閉じているので、なにを考えているのかリットにはまるわかりだった。
自分を過去のヴィクターに重ね合わせて寄り添ってくるが、うるさくされるよりましだとそのままにして、ランプを進行方向に向けた。
風が拭き抜けていき体を冷やすが、ミニーと触れ合っている場所は火が灯ったように熱くなっていた。
しばらく無言の時間が流れていたのだが、ユニコが見えてくるとミニーが声を上げた。
「あれ? あれに突っ込むの?」
真っ黒な雷雲に向けて雲を走らせるリットに、ミニーは不安でしかなかった。
「……正直に言う。安全は保証できねぇ。下からの入り方を聞くのを忘れたからな」
「男っていつもそうよね。入る場所は知ってるけど、そこから先はいつまで経っても知らないまま。ヴィクターは違ったけど」
「そりゃ良かったな。でも、安心しろ。声を上げさせるくらいは出来る」
リットはランプの火を強めた。そうすることで風のスピードが上がるのに気付いたのだ。
秋の木の葉を散らすほどの風が吹くと、リットが乗っている小さな雲島はユニコの最下層へ向けてスピードを上げた。
冗談ではなく、安全かどうかリットにはわからなかった。ゆっくり雲に乗っているほうが雷に当たる確率が高いので、雲を急がせただけだ。
雷雲に突っ込むのかと思うほどの勢いにミニーは悲鳴を上げるが、それは嘆きの悲鳴か興奮の悲鳴かはわからなかった。
無事、ユニコの最下層へ雲島を寄せることが出来ると、リットの背中に顔を埋めて抱きついていたミニーは。そのままの格好でねっとりとした熱い吐息をリットの背中に浴びせるように吐いた。
「もう……強引なところはそっくりね……」
「あのなぁ……いちいち親父と比べるなよ」
リットは先にユニコに上陸すると、ミニーに向かって手を伸ばした。
「比べてほしくなかったら男を上げることね。そうねぇ……例えば……手を取るんじゃなくて、抱きかかえて上陸するとか」
ミニーはリットの手を掴むことなく、期待するような眼差しを向けた。
「ミニー……アンタは飛べるだろうよ」
「もう殆ど飾りみたいなものよ。まぁ、でもこれも久しぶりよね」
ミニーは翼を大きく広げると、数回羽ばたいてあっという間にリットの隣へ並んだ。
「ずいぶん便利な飾りだな」
「欲しければどう?」
「どうしろってんだよ……」
「子供が生まれれば、翼を持ってるかもしれないわよ」
ミニーは自分の胸に人差し指を向けると、その指を今度はリットの胸へ押し当てた。そして、混じりけなしの完全なからかいの笑みを浮かべた。
「よくマックスがあんな風に育ったな」
リットはミニーとはまるで違う、真面目一徹なマックスを思い出して苦笑いを浮かべた。今ではかなりましになったが、出会った頃は少しの無精も許さないような男だった。
「愛よ。たくさんの母親、それよりも多い兄弟。一人の男。様々な愛を受けて育った結果ね。真面目だけど可愛いでしょう?」ミニーは笑みを浮かべると、リットの鼻をちょこんとつついた。「-―そして、真面目が緩和されたのは、もう一人の男の愛情のせいね」
「礼なら酒の一杯でも奢ってくれ」
「おかげじゃなくて、せいって言ったでしょう。絶賛親離れ中よ。寂しいったらありゃしないわ。逆にリットが奢りなさい」
ミニーはリットの腕に抱きつくと、芳醇なお酒の香りがする方向へ引っ張っていった。
「言っておくけどよ。一応、やることをやりに戻ってきたんだぞ」
リットは石の入ったコップを傾けながら言った。
「誰に言い訳してるの?」
「そうだな……例えば……士気を高めるために飲みに来たのに、嫌がらせをしてくるインプとかだな。なんだこの石は? 店員にムカついた時に投げりゃいいのか?」
リットは目の前にいる人間の子供ほどの大きさのインプの男を睨んだ。首から胸元にかけてヒゲのようにもっさり伸びる真っ白な毛が特徴的だった。
「最高級の石なんだけどなぁ……気に入らないなら。こっちの石はどう?」
インプは岩石から削り取ったばかりのような鋭く尖っている石を取り出した。
「いいな。酔った拍子でぶっ刺すのにちょうどいい形をしてる」
「ちょっと……お連れさん態度が悪いよ」
インプは困ってミニーに助けを求めたが、ミニーもお酒に口をつけずにいた。
「私もどうかと思うわよ。せめてキレイに洗ってある石なら、オシャレって言葉にこじつけられるけど……」
「これはこういう酒なんだよ。石の雑味を味わうもの。せっかく客だから奮発したってのに台無しだ」
インプはぷりぷり怒るが、ユニコに客が来ることは珍しいので、リット達から離れずにいた。こういうやりとりすら何十年ぶりだったのだ。
「だとよ。試してみるか?」
リットがミニーに向けてコップを傾けると、ミーは小さく乾杯の音を響かせた。
冷たく液体が喉を落ちていき、尾を引くように体を熱くさせる。すぐに酔いは回り、胃に花が咲いたような多幸感に満たされた。
吐き出す息は土の香りに、わずかに森の空気が混ざったようなものだった。それに酒本来の柑橘系のような酸味が加わり、まるで大地の一部を飲んでいるかのような味わいだった。
「あら、いいじゃない。地上にもない、浮遊大陸にもない味」
ウッディーな味わいと言えば、木樽で熟成されるウイスキーが有名だが、このお酒はどのウイスキーとも違う味わいだった。
かといって、お茶のような深みのある香りでもない。
「石の記憶を飲んでるようでしょう」
二人が満更でもない表情を浮かべながら、お酒をちびちび飲むのを見たインプが得意げに言った。
「石の記憶だぁ?」
リットは意味がわからないと、バカにした視線を送った。
「石は土に包まれ、その土は植物を育てる。植物を育てる太陽を感じ風を感じ、心は幸せに満たされる。これはお酒なの」
胡散臭い言葉を並べ立てられ、リットは「待てよ……」とコップを置いた。「まさか……魔力の入った酒じゃないだろうな……」
「ただの石だよ? 奮発したっていうのは、浮遊大陸で石が取れるのは貴重だから。まったくなにもわかっちゃいないんだから……」
良さの分からない二人にはもったいないものを出したと、インプはため息を落とした。
「わからねぇと言えば……どうすんだ?」
リットは酒を一口飲むとミニーを見た。
「そうねぇ……ベッドに押し倒されるには、もう一杯は必要ね。そこからは言葉でどれだけ酔わせられるかよ」
酒が回り頬を赤く染めたミニーが、艶っぽい吐息を混じらせて言った。
「何杯奢れば本音を出すか知らねぇから、単刀直入に言うぞ。『メディウム』のじいさんのところに連れて行ってやろうか?」
「あらやだ……そういえば……リットは顔見知りになったのよねぇ」
ミニーは露骨に顔を歪めた。
「触れられたくない話題だろうけどよ。これから先、モヤモヤ気を使うのも嫌だからな」
「別にいいわ。頭の固い父親と、それに抗った娘っていうよくある話よ」
「その反抗娘ってのは、せっかく浮遊大陸に来たってのに、わざわざ無視して帰るような娘なのか? それなら、オレの時も放っておくのが礼儀だったと思うけどな」
リットはディアナで共同生活をしていた頃のことを引き合いに出して、わざと意地の悪い聞き方をした。
「リットって結構おせっかいよね」
「その言葉そっくりそのまま返すぞ。まぁ、無理にとは言わねぇけどな」
リットはコップの酒を一気に飲み干して次を頼んだが、おかわり分に石はなくなっていた。
だが、胸に残された多幸感はまだ残っている。
それはミニーも同じで、気持ちの良い酔いに任せて、ぽつぽつと昔のことを話し始めた。
エロス家というのは元々上層天使だった。
上層天使というのは一括りではなく、管理する浮遊大陸ごとにいくつも分かれて存在している。人間で言う王と似たような存在だ。
だが、税を取るわけではない。天使を管理し、神への信仰を深めさせるための存在だ。
ミニーも浮遊大陸に縛られることを疑問を持たずに育った。
他の天使に比べて不真面目だったが、それは浮遊大陸の中での話だ。雲の下に広がる景色に、なんの疑問も抱かない無垢な天使であることには変わりなかった。
そこへ風よりも自由な男がやってきた。それがヴィクターだ。彼の言動のどれもが非常識であり、刺激的なものだった。
いつしか彼を生んだ地上に興味を持ち始め、それが父親のメディウムとの確執になってしまったのだ。
そしてそれが原因で、ミニーは浮遊大陸を飛び出すことになった。
「お父様は浮遊大陸を愛しているから説得は無理だったわ。リットも会ったならわかるでしょう?」
ミニーは同意を求めるが、リットは興味のない親の恋愛話が続いたせいで良い気分で酔ったまま眠ってしまっていた。
「上層天使とは空に縛られているものだ」
そう言ったのは、いつの間にか飲みの場に参加していたアルデだった。
黒い翼のおかげでリットの話に出ていた堕天使だと、お酒が入っていてもミニーはすぐに理解出来た。
「地上も縛られているわ。遠すぎて鎖が見えなかっただけ。本当の意味で鎖を無視出来るのは、数えられる程度よ」
ミニーは眠るリットの顔をいじくり回しながら言うが、リットが起きることはなかった。
「鎖は重要だ。大事なのはその縛り方。オジサンも色々試してみた」
「私もよ。縛るのも……縛られるのも意外と悪くないわ。そうね……あれは雨の強い夜の出来事だったわね……。隙間風が嬌声を上げる馬小屋ことよ」
ミニーは思い出にピントを合わせようと目を細めると、ヴィクターとの惚気話を始めた。
最初は相槌を打っていたがアルデだったが、いつかしかリットと同じように飽きて寝てしまっていた。
なので、いつの間にか父親との思い出にすり替わったミニーの話を、誰も覚えていることはなかった。