第一話
硬く重い鉄の扉が降ろされる音が、なにもない石畳の空間に響いた。その音は無機質で冷たく、罪の重たさを表しているかのようだった。
リットは冷たい床に腰を下ろすと、今しがた閉められたばかりの格子扉の向こうに目をやった。
威風堂々と広げられた純白の翼。それは天使のものだ。だが、目の前にいるのは白銀の鎧に身を包んだヴァルキリー。
天使族の中でも、より位の高い種族だ。
そのヴァルキリーは槍の柄を床に軽く叩きつけて、自分に注意を向けさせた。
「刑罰が決まるまで、おとなしくしていろ。くれぐれも変な気は起こすんじゃないぞ」
高圧的な態度のまま去っていくヴァルキリーのお尻をしばらく眺めていたリットは、カツンカツンという鉄の足音が聞こえなくなるとすぐに壁を叩いた。
「おい『アルデ』。いるんだろう? これからどうすりゃいい?」
リットの問いかけに答える者はいない。代わりにのんきなイビキが豚の鳴き声のように響いた。
何度か壁を叩いて呼び続けたのだが、反応があったのはヴァルキリーだ。
「うるさいぞ!」とリットに注意しにくると、槍の先を牢に向けて脅してから離れていった。
「そうだぞ……静かにしてくれ……。おじさん眠れないだろう……」
気だるそうな声が隣の牢から聞こえてくると、リットはようやく起きたかとため息を落とした。
「んなこと言ってる場合か。オレが好きで牢屋にぶち込まれたと思ってるんだったら、オマエの悪行をバラした恩赦を使って置いて帰るぞ」
「はて……おじさんはなぜ……ここへ戻ってきたのか……。さては謀ったな?」
アルデは白髪交じりのもみあげを撫でながら、どうして自分はここにいるのかと考え始めた。まったく覚えがないのだ。
「悪ふざけのために浮遊大陸の『上層』になんか来ると思うか?」
「天使族以外は上層には来られないはずだぞ? おかしいな……」
「だから、捕まることで侵入したんじゃねぇか。そうじゃなけりゃ、人間のオレも――堕天使のアルデもここには来られねぇよ。計画を忘れたのか?」
リットに言われると、アルデは影のような真っ黒な翼を揺らして考え込んだ。
「あぁ……忘れた」
「あのなぁ……――」
リットとアルデが出会ったのは昔の話ではない。つい最近のことだ。
ある晴れた日。それも晴れ過ぎて、陽光がナイフのように地面に突き刺す暑い日だった。
雲が風に流され、影に一瞬浸された時だ。
リットの家の庭で大きな落下音が響いたのだ。庭の妖精達は騒ぎ立て、どうにかにかしろと窓を叩いてノーラに助けを求めた。
「まったく……居眠り鳥でも落ちてきたんスかねェ」
ノーラは庭に出ると空を見上げた。鳥の群れはなく、浮いてるといえば大きな入道雲くらいのものだった。
その入道雲からゆっくり視線を下に落としていくと、木が緑の葉を散らしてざわめいているのが見えた。
そして、根本にはボロボロの大きな翼が、まるで突き刺さるように地面から伸びていた。
ノーラが近付くと「ここは……」と言いながら、のそっと体を起こした。それは痩せ細った天使だった。
「あらら……堕天使じゃないっすかァ。堕ちるって、空から落ちることを言うんスかァ?」
ノーラは珍しいものを見たと目を丸くした。
堕天使というのはあまり存在しないものだ。というのも、ダークエルフ同様に種族名ではなく通称だからだ。
つまり、わざわざ区別して呼ばれる理由があるということだ。
だが、そんなものは浮遊大陸の事情であり、信仰深くもなく地上で暮らしているノーラにとっては関係のないこと。
とりあえず家に上げて事情を聞くことにしたのだが、困ったことに堕天使は何も話さなかった。
警戒しているわけでも、疲労や空腹で喋れないわけでもない。説明が面倒くさいと、埃の積もった床に寝転んだ。自分のため息を肴に、勝手にリットの酒を飲み始めると、眠ってしまったのだ。
ノーラの力で動かすことも出来ず、放っておいても問題ないだろうと店番に戻り、客ではなく世間話をしにきたパン屋のイミル婆さんと話し込むと、すっかり堕天使のことなど忘れてしまった。
夕方になり、店のドアがノックされたのでノーラが開けに行くと、大荷物を抱えたリットがため息と一緒に荷物を落とすように置いた。
「無駄遣いっスかァ?」
「苦労して持ってきたのに、開口一番がそれかよ……」
リットは町にやってきた行商人から買った素材をいくつかノーラに渡して、運ぶのを手伝うように言った。
「やっぱり無駄遣いじゃないっスか」
「ランプ屋だぞ。ランプやオイルの材料を買うのが無駄遣いになるかよ」
「なら、この燃料をランプに入れてみても文句は言わないっスね」
ノーラはガラス瓶の先を持つと、左右にゆっくり揺らした。
「おい、それがなにかわかってんのか」
「なにって、お酒でしょう?」
「ただの酒じゃねぇ。海底都市の……オ……オ……。なんとかって街の酒」
「そんな名前も覚えてないようなとこのお酒を買ったんスか? それも海底のお酒を陸で? 偽物だと思いますよ」
「極上の『グラス・クラブ』を使った瓶だぞ。地上には出回んねぇよ」
「だから偽物だと思うって言ってるんスよ。だいたい旦那が私に教えたんスよ。グラス・クラブってのは、巨大な陸ガニだって」
「甲羅が柔らかい幼体のうちは海底で暮らしてんだよ。その脱皮した殻を作って作られるのが、深海ガラスだ。見ろよ、カニ脚の形をしてるだろう?」
リットはノーラから酒瓶を奪い返すと、細長い不思議な形をした瓶を強調するように持った。
「でも、それ。リゼーネの国印が入ってません? なんかの記念品じゃないっスかァ?」
リットは恐る恐る瓶底を確かめると、ノーラの言う通りリゼーネの国印が入っていた。
「クソ! 騙された! なんのために、質の悪い材料買ったと思ってんだ!」
「ですよねー。確かに見慣れない細い形の瓶ですけど、カニの脚には見えないっスもん」
「在庫品を押し付けられた……」
行商人が馬車で町を出て行くのまで見送ったリットは、今更追いかけても遅いと泣く泣く諦めた。
「普段は旦那が騙す側なんスけどねェ。まぁ、粗悪といっても使えないわけじゃないんスから、気を取り直してくださいなァ」
「もうやる気が起きねぇよ……」
リットは瓶の蓋を開けて、中がただのウイスキーであることを確認すると盛大なため息を落とした。
店に荷物を置いておいてもしょうがないので、とりあえず奥の住居スペースまで運ぶことにしたのだが、店のカウンター裏のドアを開けて数歩歩いたところで、なにかに躓いて転んでしまった。
「ノーラ……ドア付近にものを置くなって言っただろう。じゃねぇと、酔っ払ったオレが安全に帰ってこられねぇじゃねぇか」
リットは何に躓いたのかと床を見ると、眠る堕天使の男がよだれを床にこぼして寝ていた。
「あー……そういえばすっかり忘れてましたよ。旦那、コレは堕天使ってやつです」
ノーラはつま先で堕天使のお腹をつついて、生きているのを確認しながら言った。
「海底の話をしてたのに、なんで空の厄介者がうちのいるんだよ……。元いたところに返してこい」
「拾ってきたわけじゃありませんよ。空から落ちてきたんっスよ」
「あのなぁ……空から天使が落ちてきたら、今頃地上波は有翼種族で埋まって、オレらが空に避難してる」
「嘘じゃないっスよォ。なんなら、落ちてきた証拠でも見ます?」
ノーラが庭を見るように言うので、リットは裏戸を開けて庭へ出た。
騒ぎ出す妖精達を無視して木の根元まで行くと、雑草が潰れており、木の枝も折られていた。
リットはため息を一つ挟んでから家へと戻ると、堕天使の肩を組んで立たせた。
「元いた場所に返してくる」
「元いた場所って……まさか浮遊大陸まで行くんスかァ?」
「カーターの酒場だ。押し付けてくるついでに、酒を飲んでくる。晩飯はいらねぇみたいだしな」
リットはノーラの口元についているパンくずを見て言った。イミル婆さんが世間話をしに来る時は決まってこうだ。パンとお茶を持参。店へ来た旅人にお説教付きだ。
当然すぐ旅人は立ち去り、ノーラは一日中イミル婆さんの話に付き合って、パンを食べているというわけだ。今更夜にお腹が減ることもない。
「旦那がお酒なら、私は妖精達とティーパーティと洒落込みますかね」
「まだ飲むのかよ」
「その言葉。そっくりそのまま返しますぜェ」
「ん……」と堕天使が目覚めたのは、喧嘩を始めた酔っ払いが奇声を発したからだ。
「やっと目覚めたか……一生起きねぇかと思った」
もう既に一杯飲んでいるリットは、上機嫌に堕天使の背中を叩いた。
「ここは?」
「チンケな酒場だ」
リットが言うと、酒場の主人のカーターが眉をひそめた。
「チンケで悪かったな。チンケな客はぴったりでいいだろう」
「地上か……。オレも堕ちるとこまで堕ちたか……」
表情を曇らせた堕天使は、鉛玉を吐き出すような重い溜息を落とした。
「おいおい、大丈夫か? ここに来る前にずいぶん酔ってたみたいだし、もう飲むのはやめておけ」
カーターは酒を飲むのを止めようとしたが、堕天使は急にケロとした顔で目の前にある酒を飲み干した。
「堕ちたなら、無理に這い上がる必要もない。どうせ羽根切りをされて飛べないからな」
「一体なにをしたんだ? 堕天使ってのは、罪人の証みたいなもんだろう?」
リットは酒の肴にしてやるから話せと急かした。
「なにもしなかったんだ。一日中酒を飲んで囚人と話していた。酔っ払って寝ている間に、囚人は脱走だ。そしたらまさか……今度は自分が囚人だ」
「まさかってほど驚くことか?」
カーターは自分のせいだろうと冷たい視線を浴びせるが、堕天使はまったく動じなかった。
「でも、こうしてまた酒が飲める。おじさん、それだけで幸せだね」
「まぁ、それは良いことだ。せっかく牢から出たんだ。祝い酒だ。これは店からの奢りだ」
カーターはとっておきの酒を一杯ついでやると、堕天使の隣にいるリットが睨むようにそのコップを見た。
「オレにはねぇのか?」
「なんかしたか?」
「オレが世界でなんて呼ばれてるのか知らねぇのか?」
「ここではろくでなしだ。いいか? 彼はしっかり罪を償って出てきたんだぞ。優しさに飢えてるんだ。受け入れてやるのが酒場ってもんだろう」
「偽善者め。後悔するぞ、高え酒なんか出しやがって」
「なんとでも言え」
カーターは気持ちの良い笑みを浮かべて、飲んでくれと堕天使に酒を勧めた。
「こんなに優しくしてもらえるだなんて……脱獄した甲斐がある」
堕天使がコップを持って唇につけようとした時、カーターは素早くコップを奪い取った。
「今なんて言った?」
「わからん。適当に合わせただけだからな」
堕天使は酔いつぶれた隣客が残した飲み残しに手を付けると、やる気のない吐息をもらした。
「脱獄したって言わなかったか?」
「言ったかどうかは覚えてないが、おじさんが脱獄したのは確かだ。堕天使の隠れ家で神の悪口を肴に密造酒を飲んでいた。最高だったぞ。一日中寝て、酒を飲むだけ。……なんでだ。なんでおじさんはそんな楽園を捨てて、こんな酒場にいるんだ……」
堕天使は心底不思議そうに、酒の水面に反射する自分の顔を見つめていた。
「リット……なんて奴を連れてきてくれたんだ!」
カーターが脱獄した凶悪な奴を連れてくるなと怒鳴った。
すると、堕天使が急に「アルデだ」と名乗った。
「は?」
「アルデだ。おじさんの名前を聞いただろう?」
「聞いてない」
「そうか……酒がない……」
アルデは足を引きずるようにのたのた歩くと、すっかり出来上がった酔っ払い達に酒をたかりにいった。
アルデのふらふらと揺れる背中の翼を見ながら、リットは「こりゃあ……とんだ拾いもんだな」と呟いた。
「なにがだよ……うちの酒場にとんでもねぇもの連れてきやがって」
「浮遊大陸の天使がこんなところまで来ねぇよ」
「リットの弟がいるだろう」
「ありゃ、ディアナの王子だぞ。浮遊大陸とは関係ねぇよ。マックスなら口を出してきても丸め込める。先に言っておくぞ。あれはオレが拾ったお宝だ。渡さねぇぞ」
リットは酒の持った手でアルデを指した。
「なにを言ってんだ。犯罪者を匿うつもりか?」
「聞いてなかったのか? 堕天使の密造酒だぞ。海底都市の酒なんて目じゃねぇよ」
「ははーん……さては行商人にぼられたな」
カーターはリットが買ったのと同じ酒瓶を目の前に置いた。
「中身はなんだった?」
「安酒だよ……。こっちも言っておくけど――しばらくツケはなしだぞ! わかったな!」
カーターは酒場の全員に聞こえるような大声で言うと、周りから次々と非難の声が上がった。
「オレは問題ねぇよ。密造酒に舌鼓だ」
リットのは余裕の表情で酒を一口飲むと、カーターは呆れたと大げさに肩をすくめた。
「獣人の酒の時と変わってないな……」
「なら、今回も手に入れられるってわけだ」
リットは乾杯とコップを掲げた。