97.苦労と努力
「エ、エミリーちゃん……なんで私だけこんなに絞られてるのかな……」
連休明けから個人的に猛特訓を受けているアリスは、見るからにげっそりしている。
「しゅ、宿題もね、気絶しそうなくらい出されるの。もう毎晩夢に出てくるくらい。私何かしたかな? 気付いてないとこでルイ殿下怒らせた? いやいつも怒らせてる自覚はあるけどさ」
アリスは私の肩をがっしりと掴んでにじり寄ってきた。目がイッちゃってて怖い。
「多分期待されてるんだよ」
「いや、そういうんじゃないって! もう目が鬼だもん! 宿題全部出来ずに持ってくと悪魔みたいな目して睨んでくるんだよ!」
あと三ヵ月。少しでもアリスが治癒出来る病気を増やしたいんだろうなと思う。
「一人でも多くの人を助けるために学んで欲しいんだと思うよ」
「も、もう、私怖い。早くも挫折しそう。あー、レオに会いたい。ちょっと薔薇園行ってくるね!」
「あ! アリス! 自分に光魔法使ったらいいよ!」
「あ、そうだった!」
相変わらず思いつくと即行動のアリスは、薔薇園に向かって金色の光の粒子を浴びながら走り出し、あっという間にいなくなってしまった。
私は今日の昼休みは珍しく中庭に一人でいる。
塁君はローランドと共に、研修旅行中の自由行動日について、学年主任の元へ交渉に行っている。一般クラスのアリスが特別クラスの塁君達と魔法省の白い塔に行けるよう、今から根回ししているのだ。
あちらに着いたらきっと、『聖女に来て欲しい』と内密に申し入れがあるだろう。だけどそれから手を回すと、何もかも後手になる。だってうちの学園の研修旅行はあまりに融通が利かないのだ。
しかも聖女だからとか、医学院の生徒だからとか、『誰かを治療しに行くのでは』なんて教師陣にも気取られないよう上手く言いくるめなければいけない。ベスティアリ王国が公表していない以上、オーレリア王女の件は最重要機密事項として扱う予定だからだ。でもそのあたりはローランドが何とでも上手く言ってくれそうな気がする。
「エミリー、待たせた」
「ううん、上手くいった?」
「ああ、ローランドが口八丁手八丁であっという間に説得してくれた」
「さすがローランド……」
攻略対象者の中でもずば抜けた頭脳を持つローランド。あの理路整然とした語り口に勝てる教師はいない。
「アリスがさっきまで厳しすぎるって嘆いてたよ」
「少しくらい遺伝子について理解して欲しいんだが……ゴールは遥か彼方だ」
私も遺伝子については全然分からないからアリスの苦労が目に浮かぶ。
「シリウス自体がクローンって言ってたけど、それって大変なことなんだよね?」
「ああ、ネオがどれだけ努力したか分からないな」
「元々角の生えた馬がいて、その子のクローンがシリウス?」
「そういうことだ」
塁君は私にも分かりやすくクローンについて説明してくれた。
「まず未受精成熟卵子を取り出し、遺伝情報である核と極体を除去する。そこにクローンを作りたい個体の体細胞の核を移植した後、微弱な電流を流すことで移植された核と卵子を細胞融合させる。更に電流を流して活性化させることで、全ての遺伝子を目覚めさせる。培養を続け胚盤胞期胚まで発生させたところで、代理母の子宮に胚移植をして生まれてくるのがクローンだ」
うん、分かりやすいようでところどころ分からなかった。
「核移植する体細胞も細胞分裂周期のG₀期という静止期に調整したり、卵子もM期という細胞分裂期にしておかなくてはいけない。この細胞分裂周期の調整がとても重要なんだ。核移植後は電気刺激でDNA合成の準備期間であるG₁期にもっていく。核移植後の電気融合で流す電流の条件もボルト、ミリ秒単位で様々だ。それらが全て上手くいっても、正常個体の体細胞でさえ成功する率は極めて低い。シリウスは奇形があるからなお苦労したと思う」
もう全然分かるところが無いくらいだけど、シリウスが生まれるまでネオ君が大変だったことは分かった。
「この世界には研究施設や機材も器具も無いよね? どうやったのかな」
「王女と二人で塔の中に研究施設を作ったんだろうな。器具や培養液は俺と同じように魔法で作り出したのかもしれない。素材の組成が分子レベルで分かっていれば作り出せるから。俺もいつもそうして薬剤を作っている。実際の手技や調整は、機材の代わりに魔法で緻密に計算してるんだろう。相当な集中力と努力がいると思う」
ひえぇ……塁君と同じ学校だったっていうんだから、きっとネオ君だって相当な秀才なんだよね。そんな凄い人が、王女様のためだけに努力したのかと思うと何だか感動を覚える。忠誠心なのか愛なのか、両方なのか。
「それだけ凄いことが出来ても王女様のご病気は治せないんだね」
「診せてもらわないと何とも言えないが、ネオは前世でも人間より動物への興味が強かったようだからな。動物にかけては専門家並みの知識を持っているが、人間相手だとまだ医学生だった筈だから自信が無いのかもしれない。特に相手は王族であり女性だから色々と気が引けるんだろう」
確かにネオ君が描いたウサギの絵は驚くほどリアルだった。目の前にウサギがいるわけでもないのに、顔と体のバランス、筋肉の付き方や骨格、耳の長さや目の大きさ、何もかもが正確に見えた。
「中一で同じクラスだった時、あいつのノートの端っこにペガサスの絵が描いてあったんだ。あまりに上手くて声をかけたら、『来栖君はこの生き物についてどう思う』って聞かれてな。夢を壊すかと思ったが正直に『本来翼いうのは前肢で、体重の15から25%量の胸筋が無いと飛べへん。馬の体重が500㎏やとしたら、翼だけで125㎏弱の筋肉が必要やし、体が重過ぎんねん。四本の脚を持って背中から翼が生えとる時点で骨格的にも不可能やと思う』と答えた」
「容赦ないね」
「だけどネオは瞳を輝かせて『じゃあ天使の翼も不可能なの?』と聞いてきた」
さすがネオ君。夢を壊されたとかよりも、知識の探求に胸が躍るタイプなんだね。
「だからまた正直に『人間の肩甲骨から翼が伸びとっても、人間の肩関節は自由に動く分、翼の根元が安定せぇへん。左右の肩関節の位置が常に一定なんが、飛ぶときにめっちゃ大事なことやねん。鳥の肩関節はV字型の叉骨が烏口骨と関節して胸骨とがっちり繋がっとるけど、人間は左右の肩甲骨が動いてまうから安定して飛ばれへんし、飛んでる間は絶対腕動かされへんいうことや。竪琴パランポロン弾いたり弓矢パシューなんかしたら即墜落やで』って言ったら、周りは爆笑していたがネオだけは瞳を輝かせたままだった」
わ、私はちょっとショックを受ける側だった……。墜落した天使と壊れた竪琴を想像してしまって辛い。
「それからネオは、よく一人で動物の骨格標本の図鑑や解剖学の図鑑を読んでいた。生物研究部に入ってからは魚類の観察もしていたから、人間以外に関しては俺よりも余程詳しいと思う」
「そんなに詳しいネオ君でも馬から角を生やすってのは難しいんだね」
「羊、ヤギ、牛の有角を司る遺伝子は解明されていて、既に無角の個体を生ませるのに利用されているが、それを馬の遺伝子に組み入れるのは難しい。種の壁も免疫の壁もあるし、そもそも染色体数も違う。馬は64本、羊は54、ヤギは60、牛も60だ。ちなみにニホンジカは68」
素人の私は遺伝子組み換えっていうのをすれば何でも出来ちゃうのかと思っていたけど、そんなことはないみたいだ。
「遺伝子工学では作り出せなくても、この世界でなら作り出せる方法がある」
この世界でなら――?
塁君のその言葉に魔法関係かと思ったけれど、いくら私が考えてもその方法は思いつかなかった。




