54.ジュリアン①
大神殿に神官として出仕してもうすぐ二週間。ルイ殿下の言った通り、標的の女は俺を知っている素振りを見せる。
指示通りの人物を演じて傅く俺に、頬を染めつつ満足そうに見つめてくる。
俺が自分を聖女だと信じて崇拝していると思い込んでいるが、俺にとって神よりも神殿よりも絶対的存在なのはルイ殿下唯一人。お前になど微塵も興味は無い。
俺が六歳の頃、まだ四歳のルイ殿下が突然俺の家を訪問した。
『お前ジュリアンだろ。俺はルイ。この村でもうすぐ命に係わるペストという病が流行するかもしれない。原因になるネズミとかリスとかのげっ歯類とノミは今駆除してきたところだ。だから多分大丈夫だと思うけど、万が一のために薬を作ったからやる。紙に症状一覧とどの薬をどれくらい使えばいいかまとめてきたから、よく見て正しく使えよ。今回ペストが流行らなくても、今後この表にある病気になった時に使うといい。効くから』
そう言って見たことのない針がついた器具と透明な液体の一式、そしてやはり見たことのない白い小さなものを渡してきた。細い筒のような針がついた不思議なものは、その液体を吸い上げて体に刺して流し入れるらしく、幼かった俺にはあまりに恐ろしい使用方法で絶句した。
自分より小さい知らない子供が渡してきたものを信用出来るわけもなく、礼も言えずに固まっているとその子は言った。
『今は俺の言うことが分からないと思うけど、もし周りで腋の下や太ももの付け根、首の周りに瘤みたいな腫れや痛みが出る人間が出始めたら、絶対患者の体に触れないように気をつけろ。鼻と口を布で覆って患者の飛沫も吸い込むな。そのうちの一割位は皮膚が壊死して黒い痣だらけになるが、原因は悪魔とか瘴気とか、そんなものじゃないからな。血を抜くとか馬鹿なことしそうな奴がいても言うことを聞くな。この薬で治るから』
その子は恐ろしい病の話を無表情で淀みなく話し続け、俺は何が何だか分からないままとにかく話を聞いていた。
色々説明し終えると『忘れるなよ。じゃあな』と言ってさっさと何処かへ行ってしまった。あまりのことで呆気にとられたまま小さな背中を目で追っていると、その子は見たこともない立派な四頭立ての真っ白な馬車に乗り込んだ。
『あ、あれは……?』
『ジュリアン、今のは第二王子のルイ殿下じゃないか!?』
ちょうど仕事から帰ってきた兄が目を見開いた。
『い、今の子が、第二王子? 確かにルイと名乗ってたけど……』
『第二王子が外遊先に行く途中で、何故かうちの村の近くを通ると道を整備していただろう? お通りになるのは明日だと聞いていたんだが……。しかも何故我が家へ? ジュリアン、お話ししたのか?』
『う、うん。これを渡されたんだけど』
『何だろうな、これ……』
『病の時に使うって仰ってた』
『病? どういうことだ?』
『全然分からないけど、もうすぐこの村で命に係わる病が流行るかもしれないからって』
『えぇっ?』
『でも原因になるネズミとかノミは今駆除してきたから多分大丈夫って。念のためだって』
俺と兄は顔を見合わせてから、ただじっと王家の馬車が走り去るのを二人で見続けていた。
実際村の周りの森ではネズミもリスも一切見なくなり、その後言われていた病に罹る者もなく、平和な日常が過ぎていくばかり。いつしか『ただの王子の気まぐれだったのではないか』と引き出しに保管していた薬のことも忘れかけていた。
しかし、数ヵ月後に行商人から聞いたのだ。遠い東の国で腋の下や太ももの付け根、首の周りに瘤みたいな腫れや痛みが出て、体が黒い痣だらけになって大勢の人間が死んでいったことを。その国では瘴気のせいだ、水のせいだ、悪い血のせいだと様々な治療が行われたが、病が終息することはなく膨大な数の死がもたらされたことを。悪い血を抜こうと瘤や体を切りつけ、大量の血を失い死んでいった者達がいることを。
俺は体中から一気に体温が引くのを感じた。
数年後、兄がしつこい咳に悩まされていたある日、血の混じった咳をした。食欲もなく体重も減り、いつも疲れていて家族全員が心配していた。村でも同じ症状で死んでいった者達がいて同じ肺病なのではないかと。
『あのルイ殿下がくれた紙に、肺病の症状が書いてあった気がする』
俺は引き出しから紙を取り出した。そこにはまさに兄の症状がそのまま書かれていた。肺病に効く薬は白い小さなものではなく、針のついた器具と透明な液体の方だった。よりによって恐ろしい方。
謎の液体を体に入れるなんて、もしかしたら兄を死なせてしまうかもしれない。兄本人に意向を聞くと、日に日に衰弱していく自分自身に静かに訪れる死と、薬による死とを天秤にかけ、ルイ殿下に希望を託した。
兄の同意を得てその薬を体に流し入れた。
『よく見て正しく使えよ』
小さなルイ殿下に言われた通り、間違えないよう細心の注意を払って。
書いてある通りの量と回数を兄に使い数ヵ月、兄はすっかり元通りの日常を過ごすようになり、余った分は同じ肺病で苦しむ村人に使った。紙に書かれていた通り、器具はその都度煮沸してから使った。汚い棘が刺さっただけで膿んで死ぬ場合もあるのに、このような器具を刺しても誰も膿むことは無かった。患者達は全員が治癒し、奇跡の薬に患者の家族達は涙を流し俺に感謝した。俺の手柄ではないというのに。俺はルイ殿下の仰ったことも、異国の病の話も、今回使った薬の話も、何もかもを村人皆に教えた。
幼く英邁な王子。愛想は悪く、行事等にもあまり出席しないため我儘で可愛げがない等という噂も聞いていたが、愛想よりも何よりも、こんな片田舎の平民を案じて、恐ろしいほど良く効く不思議な薬を持って現れた。この村の近くの街道を通ったことも何もかも、村に起こる出来事を知っていて助けるために現れたとしか思えない。この村の領主でさえも、どんな貴族でさえもそんな事をしてくれる者はいないだろう。それなのにこの国の王子がそれをして下さった。命を救ってもらった恩は末代を超えても忘れない。村総出でルイ殿下への忠誠を誓った。
その後耳の痛みで苦しむ妹に白い小さなものを飲ませた。それも紙に書いてあったからだ。八歳までの子供には使うなと書かれていたが、理由が歯の変色だというから、歯より痛みを助けたくて八歳の妹に飲ませた。効果はすぐに現れて、歯が変色する前に妹は良くなった。
いつかこの御恩をお返ししたい。そう思っていた十歳の頃、穏やかそうな年配の男が俺を訪ねてきた。忘れもしない、王家の諜報員と俺が初めて接触した瞬間だった。




