205.取り戻した幸せ
「サラ自身の記憶はどうなってる」
塁君の質問に、サラは戸惑いながらも記憶を追って答えていった。
「わ、私の記憶も、今急激に変わっていくところです。光はあの頃しばらく実家に戻っていて、ヴィーナスとは接触しなかったことになっています。私は夜勤明けにネットニュースで佐藤ヴィーナスが母親を殺したという小さな記事を見つけました。以前光が言っていたお祖父さんの愛人さんの娘だと気付いて、驚いてすぐに光に電話しました。光は『咲良のおかげ』と笑っていて、当時の私は訳が分からず『はぁ?』なんて返事をしましたが、本当に私のことだったんですね」
小さく震えるサラをもう一度私は抱き締めた。今の話からすると、佐藤光さんはBウイルスに感染しなかったんだ。サラは幼馴染を救えたんだ。
私の腕の中のサラはポロポロと涙を零し、嗚咽を漏らさぬよう口を押さえながら床に頽れた。
「俺はサラにこの魔法の話をするか検討している間、この可能性も当然考えた。サラ程周りに気を遣い、他者の命を大切に思う人間が、過去の自分の生死を優先するあまりにジーンの存在を危険に晒す筈はない。この世界の未来の医療発展をないがしろにする筈がないと。であれば、この魔法を使いたいと言い出した時、本当に自分が死んだ後の家族や知人に会いに行くか、自分の死ぬ前の時間軸でもその人間だけを救えてこの世界に影響の無い手段を講じるだろうと。そして現実は後者だった訳だ」
塁君が満足げに語るその前で、サラは泣き崩れながら、途切れ途切れで言葉を紡ぐ。
「で、ですがっ。ぅぅっ、わ、私は、ヴィーナとマルスが、生まれてこないという、過去を、この世界を、変えてしまう罪を、お、犯しました。このことで、お二人のお子様に、な、何か、起こったら、うぅぅ、わ、私は、自分を許せません」
またわぁっと泣きだすサラを、私は力の限り抱き締めた。光さんを救いたかっただけで、まさかあの二人が転生してこない世界なんて考えもしなかったのだろう。
「そう自分を責めるな。もしもう一度佐藤光の夢に行き、『感染したふりをしとけ』と言ったとする。予定通り感染させたと満足した二人が自死し、前回同様この世界に転生してきていたら、やはり数百名の国民は死亡することになるんだ。聖女でも死人を生き返らせることは出来ない。奴らが生まれてこないことだけが被害者を出さない唯一の手段だった。今の状況は俺にとっては上出来だ」
「わ、私は、佐藤ヴィーナスに狙われているから気を付けるよう光に言いました。それだけだとただの夢とあしらわれる可能性があったので、当時の光も知らない真実を伝えて信じてもらおうと、母親殺しの件を口にしました。恐らくそれで光が通報し、ヴィーナは逮捕され、双子で自死する計画は頓挫したのでしょう……。この世界に生まれてくる筈の人間が、二人も生まれてこないという大きな変化を起こしてしまうなんて、そこまで頭が回らず、ただただ光にウイルス感染を避けてもらうことだけを重視してしまいました……うっ、ぐすっ」
いくら言っても自分を責めて涙を流すサラを、部屋にいる全員が慰めたい思いで見守っていた。
サラが正義感が強いのも、義理堅いのも知っている。光さんとジーン君を天秤にかけた訳じゃないってちゃんと分かってる。私達が結果オーライだと思っても、真面目なサラだけはその過程を問題視していた。
「ジーンに関する俺の記憶は何一つ変わっていないから安心して欲しい。ただ前世の父に会いに行った理由が変わっただけだ。マルスを止めるナノマシンを作るためではなく、国の危機管理の一環としてバイオテロを想定した俺が、対策としてナノマシンを作るために会いに行ったことになっている。その目的で前回と同じ頃にジーンを呼び出し、件の魔法陣について聞いている。ネオと研究室に籠ったあの期間は無いことになったが、もっと余裕のあるスケジュールでエボラのワクチンも治療薬も作って研究室に保管してある筈だ。なぁネオ、そうだよな?」
顎に人差し指をあてたネオ君が、ブツブツ言いながら頷いた。
「そうですね。あの数週間の地獄の泊まり込みは無かったことになり、常識的なスケジュールで製剤作製した記憶に置き換わりました。出来た製剤は研究室に全て保管してありますね。ナノマシンも、ヴィロファージも。マルスの魔力に反応する一手間だけは省いてますけど。あれだけの力作ですから、作ったことさえ無かったことにならなくて本当に良かったです」
「確かにな」
その後皆の記憶をすり合わせたところ、ベスティアリ王国への王都民の避難は無かったことになっていて、私とグレイスや婚約者の令嬢達は、夏休みだからという理由でベスティアリに滞在したことになっていた。だから毎日のように晩餐会や音楽会があった事実も変わらないし、私とベスティアリ王妃様が親しくさせていただいたのも変わらないままだ。
第二王子生誕に関しては一切改竄も無く、記憶通りの素晴らしい一日のままだった。
しばらくしてヴィンセントがクリスティアン殿下と共に現れて、何処までの範囲の人の記憶が変わったのかの報告をしてくれた。
結果としては『ジーン君の魔法の存在を知っている人達』だけが記憶が書き換わったことに気付き、今現在も戸惑っている最中だそう。
その他の人達は、たとえコリンズ村やギルモア領に派遣された魔術師団員であっても、ジーン君の魔法を知らなければ、『何の事件も起こってませんよね? 何のことです?』と記憶が変わったことに気付いてさえいなかったという。
一方ジーン君の魔法はあらゆる可能性を秘めた取り扱い注意案件なため、私達の身近な人間以外だと、国王陛下と上層部の人間にしか存在を明かしていないらしい。
勿論それだって魔法陣自体は塁君だけが知っていて、詳しい術式は秘匿している。それでもその存在を知っている人間は、たとえ術式を知らなくても今回の変化に気付いたってことだ。
これって何処かでこの術式を手に入れた人が悪さをしても、必ずバレるってことだから、案外全方位で便利な魔法かもしれない。
「ローランドのところにあったヴィーナとマルスの膨大な報告書は消えて無くなっていたよ。ローランドは記憶が置き換わる可能性を考えて、記憶があるうちにと今執務室で事の次第をまとめている。だけどもう数十分経ったけれど、僕の中の以前の記憶が消える気配は無いんだ。改竄されたものと両方が共存している状態だ」
クリスティアン殿下の言う通り、私の中にも両方の記憶が混在している。マルスとヴィーナっていう生徒はいないと思うのに、その存在が私の中からは消えていかない。不思議な感覚だけど、ちゃんとどっちの記憶が真実なのかは分かる。
「兄さん、少し外していいか? ギルモア領で出会ったエボラ出血熱の唯一の生存者の元に行ってみる。その後はダンとウォルトの村にも」
「分かった。僕達は城へ戻るから、視察が終わったら執務室に来て報告してくれるかい」
「了解」
塁君は私とサラの手を両手に取った。サラは突然第二王子に手を握られて、驚きすぎて尻もちをついている。
「な、ななな!??」
「今からサラが為したものを見せてやる」
立ち上がる間もなく塁君が転移した先は、見覚えのあるギルモア領の穀倉地帯だった。結婚式の翌日に二人で訪問した場所。あのコリンズ村出身の出稼ぎ労働者の男性が、久々に里帰りすると嬉しそうに笑っていたあの場所だ。
人々は麦踏みを終えて、帰り支度をしているところだった。
「少しいいか?」
あの男性を見つけた塁君はすぐに声をかけ、私達を見た男性は驚きながらも慌てて跪いて頭を下げた。
「だ、第二王子殿下に、ご挨拶申し上げます!」
「以前故郷のコリンズ村に帰ると言っていたがどうだった?」
「こ、故郷で、ございますか……?? え、えぇと、いつも通り、皆元気で、妻も子も、私の帰りを喜んで好物を作ってくれました。年老いた両親も、ま、まだまだ元気で、安心して戻ってきたのですが……ど、どうしてですか???」
意図するところが分からない男性は、頭の上に『?』だらけの顔で困惑している。
塁君は満面の笑顔で『よぉし!』と男性の腕をバンバン叩くと、男性はますます『????』となっていた。男性の返事を聞いた私も、嬉しくて言葉が詰まって上手く表現出来ず、とりあえず笑顔全開で腕をポンポン叩いておいた。
「今から少しだけコリンズ村を訪問する。お前も一緒に行くか?」
「い、今からでございますか? 一週間以上かかる道のりですよ?」
「転移魔法で一瞬だ。帰りもここまで一瞬で送り届けてやるから心配するな。いくぞ」
「えぇぇええ!!?」
男性の悲鳴が終わるより先に私達はコリンズ村に居た。
私は来るのは初めてになるけれど、深い森に囲まれた秘境のような場所。以前の話では生存者は一人も無く、全員が血を流して亡くなっていたという。
だけど今私達の目の前には、小さな家の前で遊ぶ幼い子供達や、それを近くで見守る老人達。母親の手伝いをする少し大きな子供達。女性達は出来た晩御飯をお裾分けに行ったり、家畜の世話をしていたり、水汲みをしたりと忙しそうだ。圧倒的に女性が多いこの村は、働き手は皆出稼ぎに行くのだろう。
私達に気付いた村人達の中から『父ちゃん?』と駆けてくる村人が数名。
「お前達……! お、王子様が、魔法で連れてきて下さって……元気か? 何か困ってないか?」
「へ? 王子様!?」
「俺が第二王子のルイだ。皆息災にしているか?」
「わ、わわっ! お、王子様に、ご挨拶……」
「いい、いい。元気であればそれでいい」
たくさんの人が集まってきたのを見て、塁君が男性に『一時間後にまた迎えに来る。家族と共に過ごすといい』と言い残し、すぐに次の場所に転移した。
潮風が少し寒く、海鳥が頭の上を飛んで行く。
「ここは何処?」
「レイトン島だ。狂犬病が発生した場所でもある」
そこにもコリンズ村と同じように、家族で支え合い笑い合う人々の日常の幸せがあった。
「あそこにいるのが最初に狂犬病を発症した島民だ」
そう言って塁君はスタスタ近付いて行ってその男性に声をかけた。
「ここに犬はいるか」
「え? いやここは島なんで、船で連れて来るか流されてこない限り、家畜以外に飼育されてる動物はいませんね。野犬もこの島にはいませんよ」
『誰?』って顔をした男性が質問に答えると、塁君はすかさず『ペットのような動物は?』と追加で質問する。
「子供らは家畜の赤ん坊が生まれると可愛がってはいますが……」
「ペットも犬もいないんだな」
「ええ、そういうのは」
「突然悪かったな。俺はライガの知り合いだ。赤ん坊と妻を大事にな」
「あ、妻の故郷の医者の……! 妻の母親から時々聞いてます。ライちゃんって子の父親の方に出産のとき世話になったみたいで」
「そうか。あそこは父も息子も優秀だからな。何かあったら頼るといい。とは言っても何も無いのが一番だ。皆体を大事にな」
「ええ、あなたも」
塁君の正体を知らないその男性は、身なりから貴族だとは思ったようで敬語を使ってはいたものの、まさか王族だとは思わずニッコリいい笑顔で塁君に微笑んだ。




