193.心が動く時
ジッと女の目を見つめ、初めてその名前を呼ぶと、女もそれに反応して返事をした。
「初めて私の名前呼んだね。知ってたんだ」
だが何かがおかしい。何だ?
捕まりそうになって人生を諦めたとか、達観したとか、そういう類のものではない。転移後俺だけで図書館へ向かった時だって、女から先に行くよう言ってきた。それで怒っているとは思えない。
女を見つめ続けて俺は気付いた。違うのは瞳だ。
初めて会った時、すぐにその瞳に宿った俺への熱。ヴィーナの隣にいても、女が用意した料理を食べていても、部屋から出るよう命じる時でさえ、女の瞳には夢見心地な熱が確かに宿っていた。それが消えている。
俺が初めて『ベサニー』とその名を呼べば、頬を赤らめうっとりと俺を見てくる筈だった。なのに想像とは違う、何の特別な感情も無い瞳。
「勿論知ってるさ。さぁ早く」
違和感を感じながらも、今この局面を打開するには女の力が必要不可欠で、理由など考えている暇は無い。
確かに俺は今回第二王子に負けたかもしれない。だが今回は、だ。このまま捕まれば負けのままだ。何とかこの場を逃げ切れば次回がある。その時は第二王子がいない場所で実行する。直接対決なんかしなくていい。俺はこれからもウイルスを創って、あいつの手の届かないところで解き放つ。もう二度と先を読まれたりするものか。
とにかく話はここを脱出してからだ。
女魔術師。俺の頭の中を読んで、正確に俺の要望に応えろ。一緒に逃げてやってもいい。お前との生活は苦にならないからな。
俺は頭の中で念じ続けた。
『転移魔法でも何でもいい。俺を連れて王都から脱出しろ。騎士団も魔術師団も手の届かない場所へ俺を連れて行け』
早く。早く読め。読んで早く応えろ。
「マルス。こんなに魔術師団の団員が大勢居て、団長も坊ちゃまもいらっしゃるのに、私の魔法程度じゃ逃げられないよ」
あろうことか女は敢えて口に出さずに頭の中を読めと言ったのに、ペラペラと内容を口に出して話し始めた。
「お、おい! 口に出すな!」
「それにね、もうマルスの言うことは聞かない。私は好きな人の願いだけを叶えるから」
「な、何だと?」
ほんの数十分前までは俺をうっとりと見つめ、俺の全てを受け入れ、俺の望み通りの働きをする役に立つ女だった。
それなのに、この数十分で何があった? 俺の運命を握る存在なのに、ヴィーナより余程信頼出来ると思い始めていたのに、何故急に変わったんだ!?
「私が好きなのはこの人。この人に騎士団本部まで連れて行ってもらうの」
そう言って女は横に立つ背の高い黒髪の男の手をギュッと握った。その男を見つめる女の瞳には夢見心地な熱がこもっている。
「いっぱいマルスの願い叶えたでしょ? だから今度はこの人の願いを叶えたい」
「!?」
女が空いている方の手を俺に向けた途端、土の中から伸びてきた植物の蔓がグルグルと俺の脚に巻きついていった。抜け出せないほどの強い締め付けに本気度が窺える。
これは土魔法の一種だった筈だ。植物を成長させるだけじゃなく、自在に形を変えるのは難易度が高い筈。手を抜いていた俺には出来ない魔法だ。くそっ、たかが蔓なのに少しも解けない。
「お前……っ!」
「だって、この人も王子様達も、皆マルスよりずっとかっこいいんだもん。十年ぶりに王都のかっこいい人達を見たらドキドキする」
「……!?」
こんな辛辣なことを言う女だったか!? 初対面からずっと俺には従順だったのに、その黒髪の男の方がいいと言うのか!? 確かに男の俺から見てもそいつは長身で美形だが、その男とは会ったばかりじゃないのか!?
「それにね、この人の頭の中はとっても優しくて、私に胸を張れって思ってくれてる。私のこと好きになってはくれなさそうだけど、別にいい。私役に立ちたい。この人はマルスを捕まえたいって思ってるから私そうするね」
「ま、待て!! 待ってくれ!!」
「待たない」
そうしてさらにグルグルと蔓が何重にも俺に巻きつき始めた。もう自力で外すことは不可能な程に。俺はかなり高い位置で宙吊りにされたまま、歩く蔓植物に連行される羽目になった。
「ベサニー! 頼む!」
逆さ吊りにされながら、一縷の望みをかけて女に懇願するも、返ってくるのは黒髪の男の話ばかり。
「あ、この人が一発殴れって思ってる。散々利用してきて捨てた奴に容赦はいらないって。私が好きでやってたんだけど、この人がそうしろって思ってるからそうするね」
「や、やめ……」
俺のことなどどうでもいいと言うように、女は逆さ吊りの俺の腹に目掛けて魔法を放った。
「ぅぐぅっ……!!」
腹に重い重い一発。俺は吊られたまま嘔吐した。
頼む、やめてくれ。やめてくれ。助けてくれ。
少しでも俺のことを好きだったなら情けをかけてくれ。転移しろとまでは言わない。蔓を外してその辺に放ってくれないか。そうしたら自力で逃げるから。
ベサニー。ベサニー。俺と過ごした時間はあんなに俺を慕ってくれたじゃないか。これが最後でいいから、少しだけ逃げる手助けをしてくれないか。
お前が許してくれるなら一緒に逃げよう。逃げた先で結婚したっていい。俺にとってはお前が今までで一番尽くしてくれた女だ。
俺もお前の望む幸せを叶えられるよう努力するから――――
「俺はゼインだ。取り調べと処分が完了してからになるが、俺の部下になるか?」
「なります! 嬉しい! 私役に立ちたい!」
「俺の女にはしない。そこは期待するなよ。あくまで上司と部下だ」
「構いません。私が好きでいるだけです。その間は全力でお役に立ってみせます」
――――女は俺の頭の中になど、もはや微塵も興味が無いようだった。
頬を染めて黒髪の男の手をジッと見つめ、その後顔を上げて男の顔をチラッと見ると、すぐに俯いて更に頬の赤色を濃くしている。
もう女の心に俺はいないのだ。
必死に頭の中で助けを乞うても、考えを読んでくれることは二度と無い。前世からチヤホヤされることに慣れ切っていた俺は、女の気持ちに胡坐をかいて、大事にしてやろうなど思ってもいなかった。どんなに適当に扱っても全て許してくれたから。ただただ利用して、いらなくなれば捨てればいいと。それさえも女は全て読んでいた筈なのに、許して協力してくれたから、俺は自分が愛されていることに自惚れていた。
こんな俺の異常性も狂気も悪意も、何もかも分かったうえで受け入れてくれた初めての人だったのに。
双子のヴィーナスでさえ、異質な物のように俺を見ていたのに。
母にさえ、自分の本質など見せたことは無かったのに。
母を失った時も、俺は悼むでもなく、面倒なことになったと逃避した。
ヴィーナが先に捕まったと分かった時でも、あの黒衣の男に騙されたという悔しさと、自分のウイルスでヴィーナを殺せなかったことへの悔しさだけがこの身を満たした。
なのに。
ベサニーがもう俺を見ていないと分かった今、どうしようもなく心が疲弊している。逃亡出来る最後の頼みの綱がベサニーだからだと思いたいが、そうじゃない。ウイルスも何もかも失って、逃げるのはもはや無理だとしても、『マルス』と手を伸ばす姿を期待していた。
俺も前世からずっとこんな風に女達を捨ててきた。俺の方がよほど質が悪い。適当に利用して、俺に夢中になられても、面倒だったらすぐに捨てて次に来た女と付き合った。それの繰り返し。
自分が捨てられるのはこんな気分なのか。
前世でネトゲの恋人に揶揄われたと怒ったヴィーナスも、こんな気分になったのか。
惨めで、恥ずかしくて、寂しくて、胸が張り裂けそうに痛い。
ウイルス以外でフラットだった感情が動いたことにやっと気付いた俺は、何もかもが遅過ぎたことに絶望したまま魔塔に収監された。




