192.地獄
私はベスティアリ王城の一室で、映像を見る前にネオ君からナノマシンについて教えてもらった。
ナノサイズの高分子化合物の中に薬剤が封入されていたり、生体内の働きを人為的に補助するナノサイズの物質がナノマシンなんだって。
癌の周囲は血管が未熟で、血管壁の隙間が大きいらしい。それを利用して、『癌には取り込まれるけど普通の血管壁には取り込まれないサイズ』にナノマシンを作製すると、癌だけに直接抗癌剤を届けることが出来るのだと言う。それだと従来の抗癌剤より副作用も少なく、確実に癌に届くから効果が高いんだって。
脳のお薬も血液脳関門っていうのを突破できず、今までは0.1%しか届かなかったみたいなんだけど、脳の唯一の栄養であるグルコースや脳まで届くウイルスの仕組みを利用して、両方に構造を似せることで血液脳関門を通り抜けられるナノマシンも出来たんだって。それを使うと今までの60倍も認知症のお薬を脳に届けられると聞いて、私は先端医療って凄いって驚いてばかりいた。
狙った場所に届いたナノマシンは、光や超音波、pHに反応して薬剤を放出するみたい。賢過ぎる。
そういう風に『必要な薬を、必要な時に、適切な場所に届けること』をドラッグデリバリーシステム・DDSって言うんだとか。
もう私は近未来の話かと思う程SFみを感じてしまって、そんなことを塁君とネオ君はずっとやっていたのかと、今さらながら尊敬を突き抜けて訳が分からない感情になってしまった。
でもネオ君が何もかもハートリー記念研究所があったおかげだって言ってくれて、私も少しは役に立てたのかなって嬉しくもなったんだ。
そんなくすぐったい気持ちで映像を見始めて、最初は皆とベサニーさんの乙女ゲーム展開にキャーキャーときめいていたんだけど、途中からそんな気持ちは何処かへ吹き飛んでしまった。
塁君が死んでしまう映像を見てしまったから。
幻影だと分かっていても、それは私にはあまりにも衝撃的な光景だった。
「はっ、はぁっ、はぁっ」
「エミリー、深呼吸して。大丈夫、全て幻だよ」
アウレリオ様がすぐに私の目を右手で覆い、左手で肩を擦って安心させてくれたけど、瞼の裏に焼き付いてしまったあの光景。
塁君も、クリスティアン殿下も、ローランドも、ヴィンセントも、ブラッドも、ジュリアンも、ゼインも、ベサニーさんも、騎士団も魔術師団も、皆が苦しみもがき、皮膚がぼろぼろになっていく様。
その場に倒れ、必死に息をしようとしても吸うことも吐くことも出来ず、段々手も足も動かなくなっていく様。
そしてゆっくりと瞼を閉じて、完全に動きを停止したあの瞬間。
そしてそれを見下ろし笑うマルス。
そのあまりの悪意と狂気を目の当たりにした私は、散々『幻影魔法だと分かってるから大丈夫!』と思っていたのに、全然大丈夫じゃなかったと叩きのめされた。本当に全然大丈夫なんかじゃない。胸が苦しい。辛い。涙が次から次に溢れてきて止められない。
「えみりさん。ほら、もう幻影魔法は解けましたよ。皆ちゃんと無事です。見て下さい」
ネオ君の言葉に促され、ゆっくりアウレリオ様が手を外し、私が恐る恐る映像に視線を戻すと、其処にはちゃんといつもの自信満々な塁君の姿があった。
クリスティアン殿下も、ローランドも、ヴィンセントも、ブラッドも、ジュリアンも、ゼインも、ベサニーさんも、騎士団も魔術師団も、皆さっきのまま其処に立っていた。いてくれた。
でも、これも幻影だったらって怖くて体の震えが止まらない。
「エミリー、辛かったら部屋に戻ってもいいんだよ」
「い、いえ。見なくちゃいけないと思うんです。転生者としても、塁君のパートナーとしても」
「本当に大丈夫?」
大丈夫かと言われれば、さっきより少しましなくらいで決して大丈夫ではない。目の前の映像よりも、脳みそが優先するのはさっきの恐ろしい映像。あの光景が繰り返し繰り返し私の頭の中でリピート再生している。
「大丈夫……塁君は大丈夫。皆、大丈夫……」
自分に言い聞かせるために、何度も何度も大丈夫だと呟いてみる。ただ考えるだけよりも、口に出し、その言葉を耳で聞き、聞いたその『大丈夫』という言葉を脳に届ける方がいい気がしたから。
「よしよしエミリー。愛する者が死にゆく姿を見るのは人生で一番辛いことかもしれないね」
アウレリオ様がそう言った瞬間、ネオ君はオーレリア様が末期癌で眠っていた姿を思い出したらしく、目に涙を浮かべて頷いた。
「僕は分かります。それが自分の死以上の苦痛と悲しみをもたらすこと」
二人が『大丈夫、大丈夫』と私の言葉に合わせながら呟き、私の背中を優しく擦る。凍えてしまいそうな心臓に、その手の平の温かさがじんわり伝わってくる。
「さぁ、えみりさん。もうマルスのレトロウイルスは放たれています。だけど誰一人異変が起きていないでしょう? それは全てルイ殿下の創ったナノマシンと新種のウイルスのおかげです」
塁君が創ったナノマシン。
マルスの魔力に引き寄せられて、まず四重構造の一番外側に封入されたお薬が放出されるらしい。それがウイルスが人間の細胞の中に入るのを邪魔するお薬なのだと聞いた。その次に細胞の中で外側から二番目の層に封入されたお薬が放出されて、ウイルスのRNAをDNAにしないようにするんだって。その次はウイルスの遺伝子が感染者の遺伝子に組み込まれるのを防ぐお薬で、一番最後が新しいレトロウイルスが出来上がったとしても、成熟出来ずに新しい細胞に感染出来ない欠陥ウイルスにするお薬が入っているんだとか。
そんなにたくさん入ってて30nmだって言うんだから、小さすぎてもうよく分からない。
そして塁君が創った新種のウイルス。
それはマルスのレトロウイルスだけに感染する小さな小さな10nmのウイルスなのだと聞いた。どんな作用かは難しくてちょっと分からなかったんだけど、とにかくマルスのレトロウイルスの中に入っていって、自分が増えるためにレトロウイルスの成分を利用し尽くして破壊して、全部破壊したら自分も消えるってことは分かった。
「ルイ殿下らしい、敵には容赦ない攻撃的なウイルスですよね」
ネオ君はまた崇拝するような瞳で映像の中の塁君を見つめていた。
映像ではマルスは己の負けを認識したようで、膝をついて項垂れている。そして『ヴィーナは何処だ』と呟いた。
ヴィーナは既に魔塔に収監されている。今どんな状況なのか私は知らないけれど、マルスも間違いなく今から魔塔へ行くのだろう。
「これで終わりですよね?」
「そうだね。多大な犠牲が出たけれど、これ以上の被害者はもう出ないだろう」
アウレリオ様の言葉に少し落ち着きを取り戻した私は、コリンズ村出身のあの出稼ぎ労働者の男性を思い出した。結婚式の次の日、私と塁君に久々の帰省を嬉しそうに話していたあの人を。
村人全員がエボラ出血熱で亡くなって、あの人は一人ぼっちになってしまった。家族のために遠く離れて暮らしていたことが、結果的にあの人だけが助かる結果になってしまった。村に着いて見た光景はどれほどの地獄だっただろう。目から鼻から出血したまま動かない大切な家族。どれほど絶望しただろう。
私がさっき見た幻影の比ではない。名前を呼んでも、手を握っても、自分を二度と見ない、光を映さない家族の瞳。その辛さの何百分の一かもしれないけれど、大事な人を失う光景を目にした私は、あの人を救えない自分の無力さに打ちひしがれる。きっとそれは転移して直接見てきた塁君も、ヴィンセントも、私以上に感じているであろうことで。
「そういえばエミリーの商会の女の子は落ち着いたの?」
「サラですね。あれ以来顔を見れていないんです。ロビンも心配しています」
「サラさんって攻略対象者が勢ぞろいしていても普通でしたよね。ゲームの知識で近付こうとか、巻き込まれないように距離を取ろうとかも無いというか、シナリオとこれだけ違っていても顔にも出さずに見守ってるというか」
確かに名前から転生者の可能性も考えたことはあった。ヴィーナとマルスよりよっぽど日本人に馴染みのある名前だったから。でもサラの振る舞いで『違うんだろうな』って思ってたんだ。だけどサラも、大事な人が死の淵を彷徨うという地獄に苦しんだ一人だった。ヴィーナのせいで。
いったいどれだけの人を苦しめれば気が済むのか。まだ足りないって言ったって、もうあの二人は手も足も出せない。魔塔に収監されるのだから。
「避難先は名簿で分かるよ。城への招待状でも送ろうか?」
「お城は貴族しかいないのでサラも気後れすると思うんです。滞在先を教えていただけたら私から会いに行ってみます」
「分かった。すぐに準備するよ」
アウレリオ様が侍従長を呼ぶとすぐに名簿を持ってきてくれて、私はサラの滞在しているホテルに向かうために部屋を出ようと立ち上がった。その時だった。
映像の中でマルスがベサニーさんに声をかけたのだ。見捨てて自分だけ図書館へ向かったくせに、今さら何を言うの?
『ベサニー。俺の頭の中を読め』
地面に膝をついて項垂れていたマルスが、顔を上げてベサニーさんを真っ直ぐ見つめてそう言った。




