191.第二王子
通りに居た人間達がピクリとも動かなくなると、建物と建物の間から僅かに見える奥の通りでも、行き交う人間達が次々と倒れていくのが分かる。遠目にも悶え苦しみ呻いているのが伝わってくる。
建物の中に居る人間達までもが倒れていくのが窓から見える。死んでいく様を直接見れないのは残念だが、中で食器や物が床に落下する音、家具や人が倒れる物音が騒がしく聞こえてくる。
そしてまた訪れる静寂――――
命の灯が次々と消えていくこの瞬間全てを心に刻み込もう。
人間の出す音が一切存在しない世界。
俺はそれを今初めて経験している。俺は戦いの神ではなく、冥府の神か創造神といったところだな。
目の前に拡がる光景はまさに死屍累々。
恍惚とした痺れが背骨を駆け上がってきて俺の体を支配する。こんな激情を感じたのは前世でも今世でも初めてだ。何をしてもフラットだった感情が、ウイルスでだけ揺さぶられた。そして今がその最高潮だ。
『この瞬間のために生きてきた』
俺はそう確信した。
目の前に転がるヴィーナの亡骸を見下ろすと、今までの様々な記憶が蘇る。お前は常に厄介な存在だったが、転生の件に関してだけは唯一感謝している。今世でウイルスをひとつずつ創っていく作業は最高だった。努力して得た知識が何一つ無駄にならない世界。前世ではこんなことは不可能だった。
「ヴィーナス。お前の被験者ぶりは見応えがあったよ」
皮膚が崩れ落ちたヴィーナの死に顔を見て、俺は心の底からの満足感を得た。
「ふふっ……やっと解放された。俺は完全に自由だ……。はははっ!」
「随分ご機嫌だな」
…………?
周囲数百メートルの人間は確かに全員死んだ筈なのに、今聞こえたのは人の声。
俺に、言ったのか…………?
信じられない気持ちで振り返ると、あの生意気そうな顔をした第二王子がすぐ後ろに立っていた。
「なっ……!?」
おかしい、死んだ筈だ。アポトーシスでぼろぼろになって死ぬところを俺は見た。見届けた。確かに死んだ筈なのに――――
「さぁ、夢から覚める時間だ」
第二王子がパチンと指を鳴らすと、俺の見ていた光景は掻き消えた。まるで一番上のウィンドウが強制的に閉じられたかのように。
そして代わりに目に入ってきた光景は、俺がウイルスの容器を開く直前までと同じ光景。騎士団が俺を囲み、魔術師団が整列し、二人の王子、眼鏡の男、ベサニーという女。そして目の前で俺を睨むヴィーナ。
「えっ?」
全員が生きている。生きたまま俺を見ている。
何が起こった? 白昼夢だったのか? 混乱する俺の頭に、『ならばもう一度繰り返せばいいだけだ!』という指令が下る。
そうだ、未来視だったのかもしれない。今から容器を開封して、今見た光景が現実になるんだ。気が昂り過ぎて魔力が影響したのかもしれない。よし、もう一度だ。
なのに左手に魔力を込めても何も起こらない。
容器は? レトロウイルスはどうした? 俺は思わず左手を開くと、容器は確かに反応して既に開いている。それならばレトロウイルスは拡散され、そこら中に浮遊して漂っている筈だ。何故誰も死なない?
何故、何故だ。おかしい。乾燥にも、湿度にも、失活しないように作ったんだ。何度も点検して、アポトーシス関連遺伝子を組み込んだんだ。
アポトーシスの誘導に関わるイニシエーターカスパーゼ、CASP2、8、9、10。アポトーシスの実行そのものに関わるエフェクターカスパーゼ、CASP3、6、7。アポトーシスを促進させるBH3-onlyタンパク質関連遺伝子。どれも間違いなく入れたんだ!
俺のウイルスは完璧だった筈だ!!!
「王都には抗レトロウイルス薬である逆転写酵素阻害剤と、侵入阻害剤を封入したナノマシンを既に拡散してある」
「!?」
俺は耳を疑った。俺はまだ夢でも見ているのか? 目の前の男は今何と言った?
『ナノマシン』
ナ、ナノマシンだと?
お前は医学院の講師じゃなかったのか? 転生者で元医師だとしても、ナノマシンは工学系の分野の筈だ。いくらお前が優秀でも畑違いだろう?
「お前の魔力にだけ反応し、お前の魔力を帯びたレトロウイルスに引き寄せられ働きだす。確実に感染者の細胞に薬剤を届ける究極のドラッグデリバリーシステムだ」
俺の魔力? まさか今までばら撒いてきたウイルスも俺が創ったとバレているのか? 100nmに満たないウイルスが帯びている魔力なんて微量にも程がある。それを既に分離されたうえ俺固有の魔力を検知され、対抗策として応用までされているということか?
俺が愕然としていると第二王子は平然と言葉を続けた。
「まだ感染前の浮遊ウイルスは、俺が創ったウイルスを感染させて破壊した」
な、何て言った?
ウイルスにウイルスを感染? 感染させて破壊した?
――――それは聞き覚えのある作用。
「…………ヴィロファージ」
「そうだ、直系10nmで作ってある。お前のレトロウイルスは100nmくらいか? お前の魔力に引き寄せられ、レトロウイルスのエンベロープに結合しウイルス内部に侵入する。ウイルス核酸を送達し、お前が創った逆転写酵素、インテグレーゼなどのウイルス酵素群を利用してウイルス核酸に遺伝情報を組み込んでいく。本来ウイルスには無いタンパク質合成に必要なリボソーム等はこっちで用意した。お前のレトロウイルスの中で、俺のウイルスが合成され増殖していくんだ。合成に必要なカプシドも、酵素同様お前のレトロウイルスのものをそのまま利用して創り出される。そして利用され尽くし、食い尽くされて破壊される。俺のウイルスはお前の創ったレトロウイルスにしか感染しないから、最後のウイルス粒子を破壊した後に自然消滅する」
ウイルスに寄生するウイルス・ヴィロファージ。発見されているのはまだ五種類程度。それもミミウイルスやカフェテリア・レンベルゲンシスウイルスなどの巨大ウイルスの中で、独立したビリオンとして発見されたものだ。まだまだ判明していないことばかりの分野。
今こいつが言った作用などしない。こいつが言ったのはヴィロファージとレトロウイルスの合わせ技だ。
俺は既に塩基配列まで判明している既存のウイルスにしか力を注がなかった。レトロウイルスに組み入れた遺伝配列も既に発表されているものだ。それなのに、こいつは、自分で全く新しいウイルスを創り出した。ナノマシンと共に、この短期間で。
阻止されたのか? 負けたのか?
転生までして、この瞬間のために生きてきたのに。
「さっきお前が見ていた光景は幻影魔法で作り出したものだ」
白昼夢でも未来視でもなかった。あれはこいつらが俺のレトロウイルスがどう作用するかまで予測し、俺が望む光景を作り出して可視化したということか。俺は踊らされていた。完全に正解を出されていたのだから。
体から力が抜けていく。
「そして今お前が見ているこの光景すら幻影だ」
「…………?」
第二王子がまた指を鳴らすと、周りにいた筈の通行人達の数は半分以下に減っていた。よく見ると男しかいない。
そして一番驚いたのは目の前で俺を睨みつけていた筈のヴィーナだった。そこに立っているのは俺よりも背が高くガタイのいい黒衣の男。
「だ、誰だ!?」
「一度会ってるんだがな」
黒衣の男はそう言ってしゅるしゅると姿を変えた。変化の魔法!? 男は小柄で真っ赤な顔をした中年の男に変化した。
「あぁ? お前この間の間男かぁ~?」
「!!」
借家にネズミが出た日の夜中、家を間違い扉を叩いていた酔っ払いが其処に居た。
「お前達を監視していたからヴィーナの立ち居振る舞いもお手の物だ。自分の姉なのに気付かないくらい完璧だっただろう?」
「そんな…………」
じゃあヴィーナは何処に行った? 見る限りこの辺一帯に女はいないから避難しているのか? あいつこそが危険なのに俺だけを危険人物扱いか?
せっかくヴィーナの無残な死を見届けたと思っていたのに、何もかもが幻だった。俺は辛うじて立っていた余力さえも抜けていくのを感じながら、膝から地面に頽れた。
「……ヴィーナは何処だ」
なんとか絞り出した声に返ってきたのは第一王子の声だった。
「今から会わせてあげよう。久々の再会だからね、よくその目で確かめるんだ。君が成したことの結末をね」




