177.双子の決別
朝一番の大学構内。颯爽と歩く定年間際の一人の男。
学生達は敬愛と憧れを込めて男を見つめ、声をかけていいものかと思案している。勇気を出して挨拶をしたのは他学部の学生だ。
「来栖教授! おはようございます!」
「おはようさん」
気軽に挨拶に応じる姿は日頃から有名なものの、いざ声をかけるとなると緊張する学生達。それもその筈。男はノーベル医学生理学賞を受賞した世界に名だたる来栖教授。来栖教授に師事したい若者の医学部出願が殺到し、かつてない受験倍率を記録したのはニュースにも取り上げられた程である。
附属病院を越えまっすぐ医学部に行く筈の来栖教授は、今日は手前で曲がって歩を進める。いつもと違う行先に首を傾げる学生達。何故か自分と同じ方向に曲がった来栖教授に、さっき挨拶した学生がまた声をかけてみた。
「今日は何処か行かはるんですか」
「ちょい勉強しよう思うとんねん」
「勉強ですか」
迷いなく来栖教授が入って行った研究棟は、その学生も今から向かう場所だった。
「あっ、あっ、こ、此処ですか!?」
「せやで」
「わ、わわ、岡田教授呼んできますぅー!!」
『おおきにー』と言う礼の言葉も聞かず、学生は岡田教授なる人物の元へ飛んで行った。壁の掲示物を見ながら来栖教授は奥へ奥へと入って行く。
「来栖先生! お久しぶりです!」
多くのスタッフとさっきの学生を引き連れて嬉しそうにやってきたのは、ある分野の第一人者である岡田教授だった。
「うちで勉強て聞きましたけど、どないしはりました?」
「死んだ息子が夢に出てきて色々訊いてきたんですわ。それが岡田先生に教えてもらわなあかんことなんです」
「あぁ、十年前に亡くなった……塁君でしたか……」
岡田教授は口元に手を当て、泣いてしまいそうになるのを堪えた。
十数年前、岡田教授は高校生だった塁と学食で挨拶を交わしたことがある。来栖教授と共にエビフライカレーを食べていた塁の姿が岡田教授の脳裏に蘇ってきた。
頭脳明晰だと噂で聞いていた通り、塁の賢そうな瞳を今も岡田教授は忘れられずにいる。大阪を離れて東京へ行っている間に事故で亡くなったと知り、しばらく来栖教授に声をかけられなかった時期もある。
『うぅっ、ほんまに勿体ない人材やった……。国家の損失や。来栖教授も悔しいし寂しいやろなぁ……。今も夢で見るんやなぁ……。夢の中の塁君に訊かれたことさえ、ちゃんと現実で調べたるんや。あかん、泣いてまうやろ……!』
岡田教授は情に厚い浪花の男だった。
「岡田先生、忙しいとこ悪いんやけど、論文見さしてもうてええですか」
「勿論です! どうぞどうぞ!」
その日の来栖教授は岡田教授の研究棟で貴重な一日全てを費やした。
◇◇◇
雑貨店での仕事を終え帰宅したヴィーナは、作業中のマルスに素っ気なく声をかけた。
「明日学園欠席しな」
「……?」
突然そう言って風呂場に向かうヴィーナの背中に、マルスは当然理由を訊いた。
「どういうこと? 普段通りに行動しといた方がいいと思うけど」
「明日あんたは理事長室に呼び出されんの。それよりは欠席の方がましでしょ」
「は? なんで俺が?」
「うるさいな! そう聞いただけ! お腹壊したとか適当に言っておくから休みな!」
こういう時のヴィーナは疚しいことを隠している。そんなことマルスはお見通しだ。自分のミスで周りに迷惑をかけたとしても、いつも逆ギレでごまかすのはヴィーナの得意技。マルスにとっては前世から何十回、何百回と目にしてきたことだった。
こんな重要なタイミングにまた何かしでかしたのかと、マルスは余計に苛ついた。理事長室に呼び出されるようなことを学園でした覚えはない。なにせ凡庸に振る舞っているのだから。猫の件で何か訊かれる可能性はあるが、理事長が気にするようなことではない。どう考えても自分の知らないところでヴィーナが何か余計なことをしたのだろうと結論付けた。
『今日はダンとウォルトを連れてハートリー商会に行くと言っていた。第二王子の婚約者から情報を引き出すためだった筈だが、そこで何かミスをしたに違いない。あぁ、本当に邪魔だ』
一刻も早くレトロウイルスを完成させ真っ先にあいつに感染させてやる、とマルスのヘーゼルの瞳が殺意で揺れる。
ヴィーナの入浴中、何をしたのか探るためヴィーナの衣類をチェックした。衣類自体は大した情報源ではない。それより確認したいのはウイルスだ。二人は今までマルスが作ってきた全種類のウイルスを小さな特製容器に入れて持ち歩いていた。
容器には加工を施し、二人どちらかの魔力を籠めると短く細い注射針が出るよう細工してある。何かに混入するにも、生き物に注射するにも便利で、氷魔法でそれぞれのウイルスの至適温度が保たれるようになっている。
外出の際は二人とも常に服の中にそれらを仕込んでいた。今までウイルスを使うのは必ず二人一緒にいる時だったが、単独で使うのは自分がレトロウイルスを放つ時だとマルスは思っていた。しかしそうではなかったことが判明する。
『この一本だけ量が減ってる……?』
容器にはヴィーナの魔力の痕跡が残っていた。自分がいないところで使ったことは勿論だが、それよりも今この大事なタイミングで危険を冒したことに怒りを感じた。あと少しで最終目標に到達するというのに、今この王都で感染症を発生させては邪魔にしかならない。今感染症が発生すれば人々は家に引きこもり、不十分ながらも感染対策を講じるだろう。感染を避けるため王都から移り住む者も出てくるに違いない。マルスが望むアウトブレイクとは大きくかけ離れた規模になってしまう。
『クソッ! そんなショボい結末、看過できるか!』
とはいえ、今ヴィーナを問い詰めても逆ギレを悪化させるだけ。マルスは何も気付いていないふりをして、風呂から出てきたヴィーナに話しかけた。
「ハートリー商会どうだった? 色鉛筆買えた?」
「……断られた。ケチな奴らだわ」
『怒っているようだからウイルスは商会の職員に? まさか王子の婚約者にじゃないだろうな。メインキャラの身近で発生させたらあっという間に感染対策の手を回されるぞ』
「ダンとウォルトは?」
「三日後に帰るからマルスによろしくって」
「あぁそう」
「せっかく私が交渉してるのに、あいつら自分のことなのに遠慮ばっかりするのよね」
「二人ともいつも明るく振る舞ってるけど基本常識人だからな」
「……私が常識ないみたいじゃない」
『ないだろう。何を言ってるんだこいつは』
「二人もヴィーナには感謝して帰るだろう」
「どうかな。ふっ」
『…………今笑ったよな? この流れ、二人は感謝なんかしないと言うより、二人は村に帰れないということじゃないのか? まさかあの二人にウイルスを使ったのか? ポリオで二人を苦しませた俺が言える立場じゃないが、やっと治って王都に来た人間に別のウイルスを使うとは。何かにムカついて突発的にやったということか? だとしたらなんて浅はかなんだ』
このまま此処にいては足を引っ張られると判断し、何もかもを捨てて別の場所でレトロウイルスを完成させるべきだとマルスは決意を固めた。勿論捨てる物にはヴィーナも含まれる。そうじゃなければ最悪何もかもが無駄になるからだ。
「言われた通り明日は欠席して作業に充てるよ」
そう言うと馬鹿なヴィーナは満足そうにマルスを見下ろした。
『お前のその見下した言動ももう今日で最後だ。あぁ、心からせいせいする』
マルスはヴィーナが学園に行っている間に姿を消すことにした。




