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173.佐藤火星(さとうマルス)①

 生まれつき俺は感情の起伏が少ない。


 全く無い訳ではなく『少ない』だ。双子の姉は俺とは対照的に激しい性格で、いつも隣にいなきゃいけない俺は見てるだけで疲れてしまう。


 我儘をきいてやらなきゃ倍騒ぐから、姉の言うことは仕方なく聞くようにしている。子供の頃の姉は自信過剰で傲慢だったのに、小学校高学年で同級生に悪口を言われてからは自信は消えて卑屈さが加わった。


 同級生だけが悪い訳ではない。普段から会話の端々に相手を見下す発言が多い姉が、その時一気に周りから仕返しをされただけだ。面倒なのは、そういう時に周りが俺を材料に使う点。俺自身は何とも思っていなくても他人から褒められる容姿や成績。その比較対象として姉を堕として笑う。


 中学に上がってからも度々そういうことはあったが、俺は特にアクションを起こしはしなかった。面倒なのが半分、助けたいとか罰したいと思う程の感情が伴わないのが半分だ。



 高校では初めて姉と離れて学校生活を送った。あの姉がいなくても俺の感情の起伏は変わらない。よく周りに『いつもテンション同じだね』『感情のアップダウンが無くてマルスといると安心する』などと言われるようになった。それなりに女子とも付き合ったけど、やはり激しく感情が揺さぶられることはなかった。男女のことになると敏感そうな姉を刺激しないよう、彼女達の話は姉には言わずにいた。


 ある日父の秘書から高校に電話が入った。父が倒れて運ばれたらしく、命に係わるわけではないが母が動転しているから来てやってくれないかと。


 俺は両親が俺達に隠していることを知っている。父が亡くなった後に起こるであろう事態も想定済みだ。父のことも俺達のことも、母が本当に大事に思っているのは分かっている。父を失う恐怖とともに、その起こるであろう事態を恐れて動転しているのもあるのだろう。


 俺達を可愛がり充分にいい暮らしをさせてくれる父。家族を愛し豪邸での家事全てを自分でする母。手際が悪くても料理も美味いし、服もいつもアイロンがかかっている。


 それは間違いなく両親の良い面だ。


 だけどもう一方で、父は面倒ごとを嫌うオイシイとこどりのずるい人間で、母もしたたかな人間である。これも紛れもない両親の一面なのだ。


 面倒ごとが苦手で大きなアクションは起こさない割に、いつの間にかそれなりのポジションにいる俺は、両親の悪い部分も確実に受け継いでいて、ずるくてしたたかな人間なのだろう。


 それを自覚してはいるが特に感想は無い。俺はずっとこうだから。父に対して怒りを感じることもないし、母に嫌悪感を持ったりもしない。そこまで感情が動かないのだ。



 そんな俺でもたった一つだけ興味を惹かれてやまない対象がある。ウイルスだ。



 偶然目にしたドキュメンタリーで中東呼吸器症候群の特集をしていた。通称MERSで、自分の名前MARSに似ていて興味が湧いた。番組が終わる頃にはネットで他のウイルスも検索していたくらいに俺の好奇心は刺激されていた。



 姉が『彼氏のふりをしろ』とか『毎日迎えに来い』とか面倒な要求をしてきても、断ると更に面倒だから言うことを聞いた。家に帰ってウイルスの勉強をすれば面倒ごとなんて忘れられる。何があっても没頭できるのがウイルス学だった。


 いつの間にか姉は高校を辞めたらしいが好きにしたらいい。父の看病で忙しい母が姉のために尽くしているのも、結局好きでやっているのだから放っておいた。


 大学受験では塾と母の勧めで最難関医学部を第一志望にしたものの、内心あまり気が進まない。ウイルス学は学べるけれど、卒業まで六年かかるうえにすぐにウイルスの仕事が出来るわけじゃない。本当は理学部に進んでウイルス学を学び、卒業後はウイルス研究所かバイオ企業に就職したい。そう思っているのが結果に表れ、第一志望は不合格だった。周りは当然、合格した私大医学部に進むか、もう一浪して第一志望に再挑戦すると思っている。だけど俺は母の反対を押し切って現役で他大学の理学部に進学した。


 大学在学中に父が亡くなり、姉も両親の事情を知る時が来た。引きこもり生活をして多少は肩身が狭いのか、家で一人泣き崩れる母を責める口調はいつもより幾分ましだった。


 愛する父を亡くしたとはいえ、隠していた秘密ももう無く、看病に明け暮れる生活も終わった母。どこかホッとしたようにさえ見えて、今度は家で姉の心配をしながら過ごしていた。そういう性分なのだろうと思い、俺は二人を放っておいた。俺自身も充実した大学生活で家のことは二の次だったから。


 大学での成績も評判も良かった俺は、念願かなって大手のバイオ企業に就職し、ウイルス関連部門に入ることが出来た。この時の高揚感と達成感は生まれて初めてのもので、両拳を握って『よっしゃ!』と叫びたいほどの激しい感情が全身を支配した。それからの日々はまさに充実の一言。



 そんな中、あの日が来てしまう。



 あの日も遅くまで研究論文を書き、帰宅したのは日付が変わる頃。自分の部屋に行く途中にある母の寝室。深夜なのにドアが全開で違和感を感じた。通り過ぎる時に不意に目にしたのは仰向けに倒れている母。誰だか分からないほど顔面が腫れあがってはいるが、その髪、体躯、服、指輪、全てが母だと物語っている。


 姉の部屋も僅かにドアが開いていた。まさか強盗か? 母だけでなく姉まで?という考えが一瞬過ったものの、それより遥かに高い可能性が俺の頭に浮かび、一瞬で頭を冷えさせる。ドアの隙間から見えたおぞましい光景は、暗闇の中でPCのライトに映し出された姉の狂気に満ちた顔。予測は確信に変わった。


『今から119番通報する』


 そう言った俺に返ってきた言葉は、姉らしいと言えば姉らしい勝手なものだった。


『私が捕まったらもう成人だし実名報道だよ。こんな名前、ネットで炎上確定。そしたらマルスだって名前で家族だって即バレ。せっかく大好きなウイルスの仕事に就けたのに辞めなきゃいけなくなるよ』


 姉の言葉にこれほどの衝撃を受けたのは人生初だった。何もしてない俺が、努力して掴んだ今の環境を捨てることになるのか? そんな理不尽なことがあるか。


 だけど犯人とその家族が晒されるのは珍しいことじゃない。ましてこの名前。名前を気に入ってなかった姉に改名手続きでも提案してやればよかった。面倒だから放っておいたが、こんなことなら手続きも全てやってやればよかった。この姉がいつか問題を起こす可能性くらい考えたら分かったはずなのに。何もかも放っておいた付けが回ってきた。


 姉が捕まったら自分がどうなるのか一瞬で理解した俺は、左手に持っていたスマホをポケットに戻した。



 次の日も、その次の日も、俺は何も無かったように過ごした。ただの現実逃避だと分かっている。姉の所業がバレるのは時間の問題だろう。あの姉だから自分が捕まらないためには必死で隠蔽するだろうが、悪事は必ずバレるものだ。俺が手を貸すつもりもない。関わって今以上に巻き込まれるのはごめんだ。


 今の仕事が出来なくなる絶望を感じながら、いつか来るその日まで少しでも多くウイルスの研究をしたいと俺は仕事に没頭した。あの家に帰りたくはないが、今は行動を変えるべきではない気がして普段通りを継続した。俺が家にいない昼間に姉が何をやっているかは分からない。ネットで何を買おうが、誰と繋がっていようが、どんな郵便物や宅配便を受け取ったかまでは把握しきれない。


『この仕事が出来るのも今日で最後かもしれない』


 毎日そう思いながら働いていたある日のことだ。帰るといつも自室でPCに張り付いている姉がその日に限ってリビングで俺を待っていた。とうとう捕まるのかと察して姉の向かいのソファに腰かけた。やっと『自首する』と言うのかと。


『マルス、私の復讐に手を貸して。あんたにも関係ある事だから』


 まだ何かする気なのかと呆れて聞いていれば、数年もの間オンラインゲーム上で恋人だった相手に復讐したいと言う。


 今までは面倒で言うことを聞いてきたが、流石にもう無理だ。


『カレはパパの孫だった。つまり私達の甥っ子』


 俺は父の葬儀で会った父の本来の家族を思い返した。正妻、息子、娘、息子の妻、青年。そうだ、確かに俺達より少し年上の孫がいた。


『パパの向こうの家族の名前まで知らなかったの! だからカレの身元調べてもらって苗字が一緒で、パパとママみたいに運命だって思ったのに! 本当に血縁で『佐藤』だったなんて酷い! あいつ絶対私だって分かってて裏で馬鹿にして笑ってたんだ!』


 確かにあっちの人間が俺達家族を恨むこともあるだろう。母がいなければ彼らにはもっと金銭的な恩恵があったかもしれないのだから。


『マルスの職場のウイルス何かちょうだいよ! あいつら感染させてやる!』


 もう言うことを聞く気なんて無かったのに、即座に『馬鹿なことを言うな』と断れない自分。断って騒がれるのが面倒だからではなく、その姉の突拍子もない計画に俺はどうしようもなく惹かれてしまった。


 ウイルスを故意に感染させる。俺が選んだウイルスを。


 症例が少ないものならすぐに治療出来ず重篤化するよな。持ち運ぶには至適温度を考慮しなければいけない。飛沫感染や接触感染で感染力が強いものは標的が感染すると周りに撒き散らす。それじゃ無差別テロになって今回は不向きだ。


 いつの間にか俺は頭の中で何のウイルスがいいか算段を立てていた。









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