171.佐藤金星(さとうヴィーナス)①
かつて私が生きていた日本という国では、『佐藤』は最も多い苗字だった。小学校では同じクラスに私達以外の『佐藤』が三人いた時もある。中学の頃、二番目に多い『鈴木』という同級生はよくこう言っていた。
『私もっと珍しい苗字の人と結婚したいな~』
三番目に多い『高橋』もその意見に同意していた。
『分かる分かる。あちこちで同姓の人に会い過ぎ』
『病院はフルネームで呼び出すからまだいいけどさ、郵便局とか銀行の窓口に行くと苗字だけなんだよ。お母さんと一緒に行った時に隣の椅子に座ってた人も『鈴木』でさ、呼ばれたの私達じゃないのに窓口まで走って行っちゃって恥ずかしかったぁ』
こんな会話を聞きながら私が思っていたことは――――
『私は結婚したってこの名前からは解放されないのに』
父は裕福な事業家、母は元ホステスで専業主婦。かなりの年齢差の両親は母の働いていたクラブで出会ったらしい。
結婚した日と私達の生年月日を比べれば、『出来ちゃった結婚』どころか『産んじゃった結婚』だったのは明らかで。
それでも人目を引くほど美人だった母を、父はちゃんと大事にしていた。いや、今考えると何でも言うことを聞いて甘やかすくらい惚れ込んでいたのかもしれない。産後ハイでこんな可笑しなキラキラネームを子供に名付けるのを許すんだから。姉は金星、弟は火星。私達双子は名付けられた瞬間から平凡ではなかった。
保護者の中でひと際若く派手な母は浮いた存在であった。人目を気にせず私とマルスを溺愛する様は異様だっただろう。そのせいで私達双子は悪目立ちしていた。幼稚園入園前には『あの有名な双子』という枕詞が付いていた。しかも名前を知れば『本当に?』と聞き返す程のキラキラネーム。漢字で金星と火星というのもさらに噂の的になった。
美しい母の容姿と賢い父の頭脳を持って生まれた弟。それに比べて地味な父の容姿と勉強が大嫌いな母の頭脳を持って生まれた私。
だけど両親は分け隔てなく私達を可愛がってくれた。美しい母に『ヴィーナス可愛い可愛い私の天使』などと言われて育ったせいで、私は自分のことを相当可愛いと思い込んで成長した。
だけどそんな思い込みが崩されたのは小学校高学年の時だった。
『ヴィーナスって美と愛の女神らしいよ』
『マジでww』
『あんなこけしみたいな顔なのに美の女神て!』
こけしなんて初めて言われて衝撃を受ける私をよそに、クラスの女子達は一斉に爆笑した。
『美しさは全部マルスに持ってかれちゃったね』
『マルスは戦いの神様らしいよ』
『マルスは強そうではないけど頭いいからね』
私と違ってマルスは軍神とかけ離れていても笑われたりしない。私と違ってマルスは男子にも女子にも人気があるからだ。
『双子なのに本当に全然似てないね』
『顔も勉強もマルスの圧倒的勝利だよね』
『一卵性だとそっくりで性別も一緒なんだって。でも二卵性っていうのだと性別も違ったりするし、見た目も一卵性ほどは似てないってママが言ってた。だけどさぁ、普通の姉弟にしても似てなさ過ぎじゃない?』
その日まで自分のことを天使のように可愛いと思い込んでいた私は、カッとなって女子達に掴みかかった。
『あんた達の方がブスのくせに!』
自分より遥かに可愛くないと下に見ていた女子達にまで笑われたのだ。自分のプライドを傷つけた罰を与えたい。私にはそれが出来る権利があると思っていた。そして暴れ倒して当然問題になったけれど、原因は集団で悪質な悪口を言った相手にあると判断され、手を出した私は軽い注意だけで終わった。恐らく地元の名士であった父の名も影響していたのだろう。その日次々とそいつらの親が家に謝罪に来たのだから。私は『勝った』と気分よく眠りについた。
中学に入ってからはますます周りからの揶揄いは陰湿になった。成長し知恵のついた同級生達は『ヴィーナスとマルス』に関する話題を出すようになった。神である『ヴィーナスとマルス』を題材にした絵画は数多くあり、かのサンドロ・ボッティチェッリの代表作の一つでもある。そしてその絵画では十中八九、ヴィーナスとマルスは恋仲であった。
ヴィーナスには火と鍛冶の神ウルカヌスという夫がいる。だからマルスとは不貞の関係。マルスは武勇、理想の青年像というような『男性』の象徴であるから、絵画にするには『女性』の象徴であるヴィーナスの相手として描くのに適していたのだろう。だけど同級生にはそんなことは関係ない訳で。
『不倫相手とか草』
『親はどういう意図であの名前にしたんだろww』
『マルスはまぁいいよ。顔もいいし、ハーフっぽいし』
『そうそう、問題はヴィーナスなw』
『完全名前負けの衝撃』
マルスは聞こえていても私を庇ったりはしなかった。だけど皆に笑い者にされていてもマルスだけが普通に接してきた。親の要望でいつもクラスは一緒だったから、私が完全に孤立することは三年間無かった。他人が聞けばマルスのおかげでと思うかもしれない。でも私からしたらマルスのせいで笑われるのだと思っていた。身近に比較対象がいるせいで、出来のいい双子のマルスがいるせいで、私はこんなにも『負けている』と惨めな気持ちにさせられるのだ。
そんな生活にも高校入学と同時に変化が訪れた。
マルスは県下一の進学校、私は偏差値は低いものの人気のある私立女子高に進学した。人生で初めてマルスと離れたのだ。マルスは地味な学ラン、私はデザイナーが手掛けた高級制服。初めてマルスと比べて自分も見栄えがするような気分になった。
高校では友達を作って楽しく過ごしたい。そう願った私は周りへの態度を改めようと思い、マルスのように振る舞った。媚びるでもなく自然体で、余計なことは言わない。勉強は出来なかったけれど、周りも同じだったから馬鹿にされることは無かった。自分の激しい性格を抑えるよう気を付けて過ごし、グループの一員として楽しく過ごしていたある日、また状況は一変した。
『すごいイケメンが校門にいるんだけど!』
『誰かの彼氏!? どんだけ前世で徳積んだらあんな彼氏出来んの!?』
『あの制服って秀才集団の学校じゃない?』
嫌な予感がした。窓から覗くと校門にいたのは学ラン姿のマルスだった。
だけどこの女子高でかっこいい弟がいるのは羨ましがられるかもしれない。私の中の抑えていた欲が顔を覗かせる。皆の羨望の的になりたい。羨ましいという目で見られたい。勝ちたい。弟だなんて言わなければバレない。
『あ、私のカレだ。じゃあ私今日は先に帰るね』
『えっ、ヴィーナスのかれぴ!?』
『うらやま!』
ああ、気分がいい。私は思わせぶりに微笑んで教室を後にした。
『お迎え? どうしたの?』
校門まで小走りで可愛く走り、マルスの腕にしがみついてみせた。マルスの周りで目をハートにしていた女子達がショックを受けている。ああ、気分がいい。
私にしがみつかれたことなんてないマルスは一瞬驚いた目で私を見たけれど、いつも通り余計なことは言わず腕を組んだまま歩き出した。察しのいい弟だから状況を把握したのだろう。
『父さんが倒れて入院した。ヴィーナスは今日七時間目にテストがあるって聞いたから、俺だけ付き添ってきた。母さんは病院に泊まり込むらしいから家にはしばらく俺達だけ』
『テストなんていいのに。逆にサボれてラッキーだったのに』
『……父さんが入院したのにラッキーとか言うな』
マルスが私を窘めるのは珍しい。だって父はもうお爺ちゃんで、他所の父親より早くこういうことになるだろうって覚悟はしてたし。
私は父のことよりも、明日から皆が私を羨望の目で見てくることばかり考えていた。
『明日も迎えに来てよ。ママいないし何処かでご飯食べて帰ろ』
私だって多少は料理くらい出来るけれど、何とかしてマルスを皆に見せびらかしたい。そんな思惑に気付いているであろうマルスも、何を言っても自分の意見を変えない私をよく知ってるから渋々要望を受け入れた。
『マルスは私の彼氏設定ね』
『なんで』
『いいじゃんそれくらい!』
『…………わかった』
次の日から私はマルスを見せびらかすべく少し遅れて校門へ向かった。その間女子達に話しかけられることもあったらしいけれど、賢いマルスはひとつもボロを出すことはなかった。
だけど終わりは来るもので、その日もマルスが迎えに来るのを楽しみに私は教室の窓から校門を見ていた。父の入院が長引いていることなど気にもせずに。むしろ入院してる間はマルスが迎えに来てくれる。そうすれば皆がマルスの隣にいる私を羨望と嫉妬の目で見てくる。それが私のプライドを心地良くくすぐるのだ。友達に合コンを頼まれてもやんわりと断った。だって本当にマルスの学校の男子と付き合われたら面白くないから。それにマルスの名前がバレたら双子だと気付かれそうだから。敢えてマルスの情報は出さずに創作の惚気話を吹聴し続けた。
『この間さー、面白い話聞いたんだぁ』
クラスの子がわざと大きな声で始めたその話の内容は、その子の従妹が私達と同じ中学校出身だという話だった。




