170.マルスの目的遺伝子
私は今日体験したこと全てを皆に報告した。このメンバーなら、私が提出した材料でどういう作戦を立てるのか、どういう風に最小限の被害で抑えるのか、早く聞きたくて、安心したくて仕方がなかった。
全て聞き終えて最初に口を開いたのはクリスティアン殿下だった。
「ルイ、細胞をぼろぼろにしてやるという発言についてどう思う?」
「マルスじゃなくヴィーナが言ったところに着目してる。恐らくそのままの意味だろうと思う」
そのままの意味?
「遺伝性皮膚疾患ということですか?」
「それじゃあ魚鱗癬とか先天性水疱症とかですかね?」
ローランドとヴィンセントはさすが医学院の講師をしてるだけあって、即座に理解して具体的な病名まで思い浮かんでいるようだ。
だけど私は混乱している。今聞いた病名は遺伝病だよね? 二年前セリーナが作り出した遺伝病の中に魚鱗癬という病気があった筈。でもなんでウイルスで遺伝病になるの? さっき塁君は『未知のゲノムを持つレトロウイルス』って言ったけど、普通のウイルスと何が違うか分からない。
私の表情で分かってないのを察した塁君が、レトロウイルスについて説明してくれた。
「エミリー、レトロウイルスというのはゲノムとしてRNAを持っているウイルスの中でも、逆転写酵素を持つものだ。宿主の細胞に侵入した後、逆転写酵素を使って自分のRNAを鋳型にDNAを合成する。その後インテグラーゼという酵素を使い、そのDNAを宿主のDNAに組み込ませる。この状態をプロウイルスという。こうなると宿主のDNAが複製される際に、同時にウイルス合成に必要なタンパク質も合成されることになる。そうやって次々と完成したウイルスは宿主細胞を破壊して外へ出ていく。そしてまた別の細胞へ侵入する」
「そ、そんなことをウイルスがするの?」
自分が思っていたウイルスのイメージはいわゆるバイ菌とそう変わらなかったのに、とんでもなく難しい流れで増殖すると分かって恐ろしくなってきた。
「人間の遺伝子にウイルスの遺伝子が割り込むってこと?」
「そうだ。それが出来るのがレトロウイルスなんだ。その特性を活かし、ウイルスベクターとして遺伝子治療の主力になっている」
「ウイルスが治療に使えるの?」
「ああ。かつて為す術が無かった遺伝子疾患も、ウイルスベクターに人工的に変異の無い責任遺伝子を挿入し、さっき説明した流れで患者の細胞に目的遺伝子を送達するんだ。そうすることで遺伝子の異常も治療することが出来る」
何それすごい。悪いことばかりじゃないんだ。人に害を与えるウイルスが人を救うものになる。人間の知恵と挑戦はなんて偉大なんだろう。
「じゃあマルスはそのレトロウイルスに皮膚病の遺伝子を入れるの?」
「俺はそうは思わない」
「では何だと予測されているのですか?」
「皮膚疾患ならぼろぼろの対象は皮膚だ。しかしヴィーナは細胞と言っただろ」
そうだ。私は確かに聞いた。
『うっざ……さいぼうぼろぼろにしてやるからな』
ヴィーナは確かにそう言った。
「皮膚だけがぼろぼろだったらヴィーナは細胞とは言わない。肌か皮膚と言うだろう。では体細胞がぼろぼろになる、つまり死んでいくといえば何だと思う?」
塁君の質問に答えたのはアリスだった。
「はい! 細胞死です!」
「その通りだ」
ハッとして顔を上げたのはネオ君だった。
「遺伝子で左右される細胞死……プログラム細胞死の一つ、アポトーシス!」
「そうだ。ネクローシス、オートファジー、エントーシス、アポトーシスのうち、遺伝子にプログラミングされている細胞死がアポトーシスだ。ではアポトーシスで死んでいく細胞は?」
「……再生系の細胞」
「そう、肝臓、皮膚、血球、消化管上皮」
ネオ君だけじゃなく、その場にいた全員の顔色が変わった。今言った部位の細胞が死んでいったら人間がどうなるか想像してしまったから。
「アポトーシス関連遺伝子を組み込み強制発現させるつもりだろう。特にアポトーシスを実行させる蛋白質切断酵素・カスパーゼに関する遺伝子は必ず入れてくるだろう」
「誘導と実行で機能が分かれていますよね」
「ああ。アポトーシスの誘導に関わるイニシエーターカスパーゼ、CASP2、8、9、10。そしてアポトーシスの実行そのものに関わるエフェクターカスパーゼ、CASP3、6、7は間違いなく組み込む筈だ。抗アポトーシスタンパク質であるBcl-2、Bcl-xL、Bcl-w関連遺伝子は変異させ、、アポトーシス促進タンパク質であるBid、Bil、Bad、Bim、Bmf、Puma、Noxa、Hrk、いわゆるBH3-onlyタンパク質関連遺伝子は活性化させてくるに違いない」
皆が神妙な表情をしてる中、アリスが瞳に涙を浮かべて叫んだ。
「もう、うぅ、全然分かりません! うぇ、うぇ〜ん!」
「お前はよく勉強してるしよくやってる」
アリス泣かないで。私も全然分からなかったよ……。いつも通りブラッドを見ると、ブラッドもアリスと私を見てコクリと頷いた。同士よ……!
「ルイ、それに対抗する術はあるのかい?」
「ある」
断言した塁君の言葉を聞いて皆が安堵の息を漏らした。だけどその後に続いた言葉に打ちのめされることになる。
「あるが今の俺には作れる確信が無い」
誰しもが心の何処かに『ルイ殿下なら何とかしてくれる』という甘えがあった。だけど今回という今回は無理なのか。塁君が無理ならどうしたらいいんだろう。まさか王都の民が大勢被害に遭うのだろうか。お母様も、お父様も、リリーも、王族も、陛下も? この国は混乱の渦に飲み込まれてしまうのだろうか。
想像して胸の奥がギュッとなる。息苦しくて、喉を締め付けられるような感覚がどんどん強くなる。ここに居る私の大切な仲間も、皆死んでしまうようなことになるの? 細胞がぼろぼろになって? 嫌だよ!
沈黙の中、アウレリオ様が挙手をした。
「クリスティアン殿下、ベスティアリ王太子として提案があります」
「アウレリオ殿下、どうぞお話下さい」
クリスティアン殿下から促されて話し始めたアウレリオ様は、私達全員を見渡してからはっきりとした口調で宣言した。
「クルス王国は我がベスティアリ王国の同盟国であり、ルイ殿下と聖女様は私の命の恩人でもあります。そして私の妃になるシンの大切な義家族の暮らす国です。この国のためなら、我々ベスティアリ王国はどのような協力も惜しみません」
「それはとても心強いお言葉です」
「提案なのですが、王都の全ての女性と子供をベスティアリに避難させましょう。転移魔法陣は魔術師団本部前の大型魔法陣を使い、魔力は私一人で注力します。ですから魔術師団の負担はありません。避難場所はベスティアリ王国内の全ての宿泊施設を開放しましょう。その期間は他国からの入国を制限し、クルス王国民だけを受け入れます。余裕があれば男性でも高齢者から順に引き受けます」
それは我が国にとっては夢のような有難い提案だった。
「それほどの人数を受け容れるキャパシティがあるのですか」
「だてに観光立国一位を維持しておりません。小国ながらも我がベスティアリ王国が保有している宿泊施設規模は世界一です」
「それを許して下さるなら、我々にとっては何よりも有難いお申し出です。このご恩はいずれ何倍にもしてお返し致します」
深々と礼をしたクリスティアン殿下に、アウレリオ様は穏やかに微笑んだ。
「いえ、これは命を助けていただいた礼です。そして私の母の胎内に宿る次期後継者の礼でもあります。ベスティアリ王国は何重もの意味で未来を救っていただいたのですから」
クリスティアン殿下を始め、ネオ君以外の全員がアウレリオ様に最敬礼をした。勿論私も。
塁君が信念を持って成し遂げてきたことが、こうやって人々を救う道に繋がっていく。小さい頃から、ずっとずっと塁君が助けてきた命が、また誰かを救う光になるんだ。
静まり返った本会議室内で、塁君がコホンと咳払いをしてから言葉を発した。
「王都の男どもも見捨てるつもりはない。ただマルスのウイルスに対抗する手段を確実なものにするために時間が必要なんだ。あいつが完成させるまで、少なく見積もって二週間。それまでに俺の過去と未来の家族に頼まなければいけないことがある」
塁君の過去と未来の家族? ん? どういうこと?
「エミリー、ジーンを俺のとこに呼んで欲しい」
その言葉に私の頭の中が『?』でいっぱいになったのは言うまでもない。




