17.知識は力なり
塁君はトミーの髪の毛を一本抜いてもらって別の部屋に行き、椅子に腰を下ろしてふぅと息を吐いた。
「塁君、大丈夫? そんな難しいこと魔法でするなんて聞いたことないよ」
「炭酸水作った時と一緒や。ものの組成や原理を深く正しく分かっとったら、この世界の魔法使いが出来ひんことまで出来んねん。この世界の魔法は魔法使いが見て知っとることをイメージすることで成り立つんやけど、俺らは前世で習っとるから見えへんことも原子レベルでよう知っとる。それを意識して集中して魔力使うと、この世界では誰もせぇへんことが出来るようになるんや」
私は炭酸水を作った時の塁君を思い出した。この世界では天然の炭酸水も無いし、誰も二酸化炭素を知らない。だから炭酸水なんて存在しない。でも塁君は前世の知識で作り出した。あんな風に正しく理解していれば、この医療の遅れた世界でも出来ることがまだあるんだ。
理屈は頭では分かったけど、実際やるのにどれほどの時間と魔力が必要なのか想像も出来ない。DNAがすごい情報量だってことくらいは文系の私でも知っている。しかもぶっつけ本番なのだ。
「す、すごく集中するよね。私部屋出てようか? 邪魔じゃない?」
「逆にえみりおらんかったら頑張れへん」
「ほ、ほんとに? 遠慮しないでいいからね」
「ほんまや。近くにおって」
「うん、分かった」
そうして塁君は左手の人差し指と親指でトミーの髪の根元を挟み、右手を額に添えて無言になった。
◇◇◇
染色体は人で通常46本や。常染色体が22対で44本、性染色体が2本。常染色体は長いもんから順番に番号が割り振られとって、1番染色体は文字通り1番長い染色体や。
ゴーシェ病は常染色体劣性遺伝。トミーの父親も母親も片方の1番染色体長腕のGBA遺伝子に変異があるゴーシェ病保因者やっちゅうことや。親からその変異のある方の染色体を一本ずつ受け継いで、運悪く二本揃ってもうた時にだけ発症するのが常染色体劣性遺伝。
メープルシロップ尿症かて常染色体劣性遺伝や。ゴーシェ病以上に発生頻度の低い病気やのに同じ領地でそんな患者が二人も出るのは違和感しかあらへん。
何かが起こっとる。
トミーの遺伝子が見れたら何か分かるかもしれへん。この違和感の正体。
集中や。細胞を意識せぇ。
集中すると顕微鏡を強拡大にしたように、頭ん中に細胞がどんどん大きなって見えてくる。イメージせぇ。俺はよう知っとる。細胞も核も、染色体も、塩基も。
よし、見えてきた。
細胞の次は核や。細胞の真ん中にまぁるい核が見える。ええ感じやな。もっと拡大して核の中の染色体、1番染色体を探さなあかん。まず分裂中期にせなあかんな。時間魔法を使てみよか。
染色体が見えてきたけど長いから絡まっとんなぁ。標本とはちゃうわ。こういう時は魔力で丁寧に解いたろ。うん、ええ感じにふわっと拡がったわ。見やすなった。
あぁ、一番長い奴やからすぐ見つかった。よし、どっちが長腕や。1番はセントロメアが真ん中にあるメタセントリックやから短腕も長い。間違えたらあかん。くっそ、バンド染色したらすぐ分かんのに。
染色体はDNAが折り畳まれたもんで、DNAは4種類の塩基、A、G、C、Tから出来とる。AはTと、GはCと水素結合しとって、その配列で遺伝情報が決まる大事な設計図の1ピースや。
そうや、Gバンドの原理はG‐Cの割合の差だった筈や。1番染色体の短腕の端っこはGバンドで明るく抜けるから、G‐Cの含量が多いっちゅうことや。だったら端っこの塩基配列を集中して見ればええねん。
集中、集中。
見えてきたで、二重螺旋。もっと拡大せぇ。電子顕微鏡で見たやろ。あの感覚や。うん、見やすなった。
A‐Tの水素結合は2つやけどG‐Cの水素結合は3つや。水素に集中や。水素結合が1つ多いG‐Cの塩基対は結合が強いから、魔力で強さを見てもええかもしれへん。
分かった。こっちが短腕や。だったらこっち側が長腕やから、GBA遺伝子のある長腕の1q22辺りをよう見んとあかん。セントロメアより少し離れた辺りや。Gバンドでバンドがあった前後の筈や。A‐Tの含量が多いところやな。
あの辺やな。順によう見とけ、おかしなところがあらへんか。
ATACCCCTTCCAGTG……≡≡≡……TCAGAGGCCTGTG
なんやあれ。塩基対が一箇所おかしなっとる。萎んでるゆうか、焼かれてるゆうか、通常の遺伝病で起こる『塩基配列の変異』とかやない。人為的に遺伝子異常にされとる。
ナノレベルで焼かれとるのか。……炎の魔法で。
十中八九あの女や。
……こないなことに使うための知識ちゃうやろが。なんでこんなん出来んねん。
小麦の件は端から疑っとった。おどれの専門分野やもんなぁ。せやけどまさか人間にまで手出すとは思わへんかったわ。
生き物壊すのは簡単や。せやけど治すのはどんだけ難しいか分からへんのか。まさか農家の赤ん坊もされたんか?
あかん。許せる限度超えてんで。
……首洗って待っとけよ。
八取芹那。




