161.最凶ウイルス
「ま、まさか……。狂犬病については習いましたけど、まだ発生報告は世界中で一例もありませんよ?」
「これがその一例目だ」
「う、嘘ですよね……?」
知識としてしか知らない狂犬病。医学院生達も遠い何処かの未開の地の話だと思っていた。
まさかこの王国で発生するなんて。まさか自分達の目の前に感染者が現れるなんて。そんなこと考えた事もなかった。しかしエボラウイルスだってほんの一週間前まではそうだったのだ。
青ざめる医学院生達と対照的に、ルイ王子は冷めきった表情で魔術師団副団長に指示を出した。
「副団長、今すぐレイトン島へ転移して島全体に結界と時間停止の魔法を」
「畏まりました、直ちに向かいます。第二、第三師団! 全員同行せよ! 第一師団は此処に残り、十七歳以下の領民に引き続き時間魔法を行使せよ! 第四師団は終わり次第ルイ殿下の指示に従え!」
副団長は大勢の魔術師団員を引き連れてすぐに転移して行った。
なんとか事態を理解したアリスは、治癒の確立を上げるため頭の中の引き出しを次々と開けていった。
「ルイ殿下、狂犬病ウイルスって弾丸みたいな形してて、感染した動物に咬まれた傷口から感染するんだよね? それで咬まれた傷口から侵入したウイルスが筋肉とかで増殖して、それが脳まで移行して脳炎を起こすんだったよね?」
「そうだ」
『発症したら致死率100%の最凶ウイルス』
医学院で習ってアリスもそれは知っている。医療の発達していた前世でさえ狂犬病を発症した患者の治療法は無かった。だからこそ、光魔法が唯一の治療法なのだと理解している。
つまり、目の前の彼らを助けられるのは自分だけ。
自分の役割を重々承知しているアリスは、必死に知識を引き出してルイ王子に確認した。
「強い不安感と興奮があって、麻痺と痙攣も起きて、それで水を飲もうとしたら喉の筋肉が痙攣してすっごく痛いから水が怖くなるんだよね。冷たい風でも同じで、風も怖がるんだよね。恐水症と恐風症だったっけ?」
「その通りだ」
「もう私にしか治せないんだよね?」
「ああ」
アリスは微かに震える手を握りしめながら尋ねた。
「他に、知っておくべきことはある?」
「お前はよく勉強してるよ」
「この人だけ症状が早く出たのは何でなの?」
「咬傷部が脳組織に近いほど潜伏期間は短い。この者だけ手足ではなく顔を噛まれていたため周りより早く発症したのだろう。だがこのままでは他の者達もあと数日から半月程で発症し確実に死亡する」
その場にいたレイトン島の男達が凍り付く。男達が声を出すより先にアリスは大きな声で言い切った。
「死なせない!」
「ああ。死なせてたまるか」
「私大丈夫? ちゃんと狂犬病のこと理解出来てる?」
不安げなアリスの周りに医学院の同級生達が集まり、背中を擦ったり頭を撫でたり、思い思いに励ました。
「アリスちゃんなら出来るよ!」
「一人だけすごい量の宿題やってるじゃない!」
同級生の言葉に両拳を握ってアリスは自分を奮い立たせた。手の平に触れる指先の冷たさを自覚して、心を落ち着けようと深呼吸を試みる。
「すぅ、はぁ、すぅ、はぁ、大丈夫。出来る。私は出来る」
後ろで見守っていたイーサンが穏やかな声でアリスに話しかけた。
「人を救うという信念を持って一番努力しているのはアリスさんだと思います。だから絶対に大丈夫です」
「イ、イーサン君……!」
前世で決して優秀な学生ではなかった自分が、まさか生まれ変わって医学を学ぶことになるなんてアリスは思ってもいなかった。ここは恋愛をして幸せになるだけの自分のためのゲームの世界だと思っていた。なのに今の自分はゲームとは大きく違う存在で、レオの飴:ルイ王子の鞭=1:9くらいのとにかく努力努力の日々。だけどそんな自分を誇らしく思う。
アリスの心が決まった時、娘婿が倒れていることを知ったエメルが慌てて戻ってきた。
「う、うちの婿がどうしたの? ライちゃん、何があったの」
「エメルおばさん、大丈夫だから」
「で、でも気絶してるじゃないのさ」
エメルの肩に手を置いたアリスは柔らかな聖女の微笑みを見せた。
「すぐに私が治します」
そうして胸の前で手を組み光の魔法を発動させると、金色の光の粒子がレイトン島の男達をキラキラと包み込んだ。その神々しい光景にエメルは思わず『聖女様……』と呟いた。
「腕の痛みが消えました」
「咬まれた傷も完全に消えました!」
意識消失している娘婿の顔も、傷跡ひとつ無く綺麗に回復していた。
「麻酔を停止した。数分で速やかに覚醒するだろう」
数分後、目を覚ました娘婿は今までにないくらいの体調の良さに驚き、ライガに差し出された水をゴクゴクと飲み干した。その光景を見たライガは歓喜して娘婿に抱きついた。
「やったぁ! 水飲めてる! 助かったよ旦那さん!」
エメルは『なんだい、寝てただけかい』と言いながら、自分の水筒も娘婿の横に置いて安心して仕事に戻って行った。
「よくやった」
「はい! 私やりました!」
ルイ王子の労いの言葉と共に医学院生達が次々にアリスにハイタッチをしていった。
島民達は聖女様に治していただいたと感動しながらも、先ほど言われた言葉を忘れられずにいた。
「あの……俺達の島は、家族は……大丈夫なんでしょうか……」
「心配いらない。今から聖女と共に転移して治療する。お前達が治ったように、島にいる全ての人間と動物があらゆる体調不良から解放される」
「あぁ、良かった……」
ワクチン接種に来た領民達全員が仕事や家に戻った後、医学院生達は魔術師団第四師団と共に王都へ戻った。
「アリス、今からレイトン島へ行くが、その後もう一ヵ所寄りたいところがある」
「何処へでも行きますよ!」
「ポリオの後遺症を治癒しに行く」
「ポリオって急性灰白髄炎でしたっけ?」
「そうだ。普通クラス一年のヴィーナとマルスの故郷で十年前にポリオが流行した。後遺症で下肢の麻痺が残った者が三名いる」
「げっ! 出たヴィーナ!」
移動の準備をしながらキャンキャンとヴィーナの愚痴を言うアリスにルイ王子は警告した。
「あの二人は転生者だ」
「そうみたいですね。レオから聞いてます」
「ゼイン一派の報告から考えて、ウイルスを人工合成してるのはマルスの方だろう」
「じ、人工合成????」
「今回のエボラといい狂犬病といい、この国での自然発生は不自然過ぎる。ゲームにはこんなイベントも描写も無かった。シナリオが変わってるということは間違いなく転生者が関わっている。ポリオの件も考慮すると、ヴィーナとマルスが合成してばら撒いている可能性が高い」
予想をはるかに超えた事態にアリスは驚愕した。確かにヴィーナは恐ろしい女だと思っていたが、そういう方向の恐ろしいじゃなかった。しかも若干不憫に思えていたマルスの方が危険人物だったとは。
「そ、そんなの犯罪者じゃない! 早く捕まえて!」
「証拠が無い。見張りを立てているが、今のところ家と学園の往復だけで新たなウイルスを散布する様子も無い。しかし出かけないということは、今まさに新たなウイルスを合成中の可能性がある。留守中に諜報員が家宅捜索したが、ウイルスもラボノートも何も見つけられなかった。ということは学園ではどちらかが持ち歩いている可能性が高い。お前も気を付けろ」
エボラウイルス、狂犬病ウイルスと来て次は何なのかと身の毛がよだつ。気を付けろと言われてもどう気を付けたらいいのか。レオとエミリーに言われた『どんな人間か分からない』『誰にでもつっかかるのは止めろ』という言葉が現実味を帯びてアリスに迫ってきた。




