16.遺伝子疾患
ネルの家に着きドアをノックする。訪問を伝えておいたのになかなか出てこない。どうしたんだろう。
しばらくしてやっとドアが開くと、開けてくれたのは泣きはらした顔をしたネルのご主人だった。
「お、お嬢様。せっかく来て頂いたのに、無駄になってしまいました」
そう言って瞳にみるみる涙が溜まって溢れていく。
「大丈夫ですか? どうなさったのですか?」
ご主人が扉を大きく開けると、部屋の奥でネルが赤ちゃんの亡骸を抱いて声を上げて泣いていた。七人の弟妹も泣きながらおろおろと隣の部屋から顔を出している。
ネルのご両親が私達の元まで来て跪いた。
「エミリーお嬢様。ご婚約おめでとうございます。お隣にいらっしゃるのが第二王子ルイ殿下でございますか? このような所まで私どものために足を運んで頂き、感謝致します。孫のために今日は王都からお二人で来て下さったというのに、夜明け頃に孫は神の庭に旅立ってしまいました。私のような老いぼれが代わってやれるものなら代わりたかったですが……叶わず……」
そう言ってネルのお父様は落涙した。
私はネルの隣へ行ってネルごと赤ちゃんを抱きしめた。かける言葉も見つからず、ただただ抱きしめて一緒に泣いた。
「この匂いは?」
塁君が部屋の匂いに気付きご主人に尋ねた。私も部屋に入った時から感じていた甘い香り。
「こ、これは、うちの子の汗や尿の匂いなんです。生まれた時はしなかったんですが、ここしばらくこの匂いがして、それから具合がどんどん悪くなりました。王子様がいらっしゃるというのに申し訳ございません」
「いやいい。そうではなくてこの匂いに思い当たることがある。ご主人と奥方の家系に今まで同じ症状の者はいなかったか?」
「え、いやおりません」
「そうか」
塁君は胸ポケットから手帳を出してブツブツと何か言いながら書きつけている。
「小麦の穂発芽はこちらの畑だけだったのだな?」
「はいそうです」
「今年の秋に撒く種は無事だった畑の種を使うといい。でないと天候関係なく今後ずっと同じことになる」
「わ、分かりました」
「このような時にすまなかった。心からお悔やみ申し上げる。何か他に少しでも異変を感じたらエミリーにだけ連絡をしてくれ。他の者を仲介せず確実に俺の耳に入るようにしたい」
「承知致しました!」
塁君は風魔法を付与した伝書用紙をご主人に渡し、穂発芽した小麦の種子とネルの赤ちゃんの髪の毛数本を預かってネルの家を後にした。
私達は次にアビーの家に向かうために馬車に乗った。馬車の中でもまだネルと赤ちゃんの姿が脳裏に焼き付いて体が震える。
「えみり、平気か?」
「ううん、平気じゃない。でも原因が分かるなら聞きたい」
塁君は隣の席に移動して私を抱きしめるとネルの赤ちゃんの病名を告げた。
「メープルシロップ尿症や」
聞いたことはある気がするけれど、詳しくは分からない。それは亡くなるほどの重い病気なんだろうか。
「名前だけ聞くと大したことなさそうに思うかもしれへんけど、新生児期に発症すると死亡率も高うて後遺症も残ることが多い難病や」
「治せないの?」
「この世界では難しい。輸液や透析、肝移植、特殊ミルクが治療法やから」
聞いただけで無理だと分かる。この世界の医療技術は現代より何百年と遅れている。
「原因遺伝子はBCKDHA、BCKDHB、DBTっちゅう三つで、三つのうち一つでも変異があったら発症につながんねん。常染色体劣性遺伝の遺伝子疾患で50万人に1人の頻度や」
50万人に1人がネルの赤ちゃんだったと思うとまた涙が出てきた。
アビーの家に到着すると末弟以外の家族全員で出迎えてくれた。アビーは変わらずおっとりとした様子で私達を末弟の部屋に通してくれた。
「トミーです」
「よろしくトミー」
トミーは足を骨折してベッドの上にいた。骨折していない部分も痛いらしく骨折前から歩くのが辛かったという。
「ちょっと腹部を見せてもらってもいいだろうか」
塁君がトミーに聞くとトミーは初めて見る王子に緊張して声も出せず、ただコクコクと頭を縦に振った。トミーの寝巻の上衣をめくるとぽっこりとしたお腹が露わになる。
「あまり食べない子なのにお腹だけ太っていて」
アビーの言葉に塁君が言葉を返した。
「これは太っているのではなく肝臓と脾臓が肥大している」
「かんぞうとひぞう? ですか?」
「ああ、すまない。体の中の作りの名前だ。貧血に血小板減少に骨折、骨痛、それに肝脾腫か。目の動きがおかしくなったり体のけいれんは無いか?」
「な、無いです」
塁君は私にだけ聞こえるように病名を言った。
「ゴーシェ病I型かIII型。皮膚培養検査も遺伝子検査も出来ないから確定診断は出来ない。GBA遺伝子が変異した常染色体劣性遺伝病で欧米では10万人に1人だ」
「じゃあやっぱり治療は出来ないの?」
「グルコセレブロシダーゼの酵素補充療法も骨髄移植も出来ないから無理だ」
「治療しないとどうなるの?」
「確実に悪化する」
「そんな……」
トミーを心配して頭を撫でるアビーを見て胸が痛んだ。
「……エミリー、今日帰りが遅くなっても構わないか? ひょっとしたら今日中に終わらないかもしれないが」
「う、うん。どうして?」
「メープルシロップ尿症は三つも原因遺伝子があってすぐには絞り込めないが、ゴーシェ病の原因遺伝子は1q22という1番染色体長腕上にあるGBA遺伝子だ」
「???」
「魔力で集中してトミーの遺伝子を探っていく。1q22で塩基配列が変異している部位を見つけ出し、可能なら書き換えていく。シークエンスと遺伝子治療を魔法でやってみようと思う。ただし塩基数が数百万あるだろうから、どれだけ時間がかかるか分からない」
想像も出来ない方法でトミーを治そうとしてくれる塁君は、覚悟を決めた表情でトミーを見つめていた。




