159.聖女出動
「聖女殿、本日は其方に大変な依頼をすることになる。聖女と言えども乙女である其方にとって、聞くのも辛い状況が我が国で起こっている。どうか我々に力を貸して欲しい」
アリスはほんの数m先にいるこの大国の国王にそう声をかけられたが、ガチガチに緊張していて上手く声が出なかった。
「は、はぃ……ゎたしに、できぅことで、ぁれ、ば……」
王城に来たことは何度かあるが、国王の執務室に入るのも、ましてや話すことなど初めてのことだった。
国民に敬愛される現国王は、パレードや公的行事で遠目に見る時はいつも威厳があり堂々とした姿だった。ルイ王子とエミリーの結婚式では、微笑みを絶やさず温かな一人の父親であるように見えた。しかし今目の前にいる国王陛下は、眼光鋭く切迫したオーラを醸し出している。
「我が国の南部にあるギルモア領コリンズ村でエボラ出血熱という疫病が発生した」
「っえぇ!!?」
思わず大きな声が出てしまったアリスは慌てて自分の口を両手で塞いだ。
「其方も知っている病気なのだな」
「は、はい」
「それでは話が早い。今からハートリー記念研究所に行ってルイにワクチンを打ってもらう。詳しい状況はクリスティアンから説明させよう」
アリスは前世の知識と医学院で習った知識を総動員して、エボラ出血熱について出来るだけの情報を思い出そうとした。前世、レオの家でテレビを見ていた時にふと流れたニュース、いつも見ていた情報番組で組まれた特集、医学院で習った微生物学、宿題で出されたウイルスの仕組み。
必死で脳みそをフル回転していたら、国王の横に控えていたクリスティアン王子がアリスに手を差し出した。
「アリス嬢、ルイの結婚式以来だね。急な招集で申し訳ない。今からルイの元へ案内するよ。着くまで僕から状況を説明させて欲しい」
クリスティアン王子から説明された内容はアリスには驚くべきもので、自分が知らない間に全力で国民を守ろうとする魔術師団と騎士団、そしてルイ王子達の努力に胸が詰まる思いがした。
「疫病なら聖女の仕事なのに、私の安全を優先して下さったんですね」
「真っ先に聖女に頼もうという声もあるにはあったよ。だけどルイが許可しなかったんだ。光魔法が効かずアリス嬢が感染だけしてしまった場合をルイは想定していた。ワクチンの効果はほぼ100%らしいけど、治療薬の効果は90%前後で数%はやはり死亡してしまうらしい。ルイは罹患して治すことよりも予防することが重要だと言い張ったんだ。だからワクチンが完成するまでアリス嬢にも伏せていたんだよ」
アリスはゲームであらゆる病を治癒していた。しかし実際に自分が転生してみると、何度光魔法を使っても治せない病があった。セリーナが発生させた遺伝病だ。アリスにとっては遺伝病と同じくゲームに無かったエボラ出血熱。そんな病を自分が本当に治せるのか、歩きながらもどんどん不安が募っていった。
『それにしてもモノクローナル抗体と遺伝子組み換え生ワクチン? 相変わらず理解不能……』
自分はやっぱり遺伝子関係は難しくて弱いと思いながら、到着した研究所の中にエスコートされたまま足を踏み入れた。辿り着いた大きな研究室の扉が開くと、そこには疲れ果てたルイ王子とネオがいた。
「陛下もクリスティアン殿下もお疲れに見えたけど、ルイ殿下とネオ君はひときわ酷いね……」
「やかましい。この俺の一週間の睡眠時間は合計五時間だ!」
「う、うわっ、二人とも光魔法かけてあげるから元気出して!」
アリスが急いでルイ王子とネオ、クリスティアン王子に光魔法をかけると、三人は目の下のクマも消えてツヤツヤに回復した。
「あー、楽になった」
「聖女様、ありがとうございます」
「相変わらずこの金色の光は美しいね」
なんのなんのと鼻の下を人差し指で『へへっ』と擦ると、ルイ王子に反対側の腕をがっしり掴まれて二の腕を消毒された。
「えっ」
「今からお前に打つのはrVSV-ZEBOVというエボラウイルスのワクチンだ。効果はほぼ100%。打った後に時間魔法で十日ほど経たせて免疫獲得させる。副反応は一般的なワクチンと変わらないから光魔法が効くだろう。その後すぐにギルモア領に転移する。同行者は魔術師団と俺と医学院の生徒達だ。生徒には筋肉注射の実技練習をさせてある。治癒と同時進行でギルモア領民にワクチン接種をしていく。以上。何か質問は?」
クリスティアン王子に十分に説明は受けたが、それでも医学の師でもあるルイ王子に訊きたいことがあった。
「え、えっと、エボラウイルスって糸状で片方クルクルってなってるやつだよね?」
「そうだ」
「インフルエンザとかより大きいウイルスだったよね?」
「そうだ。エボラは直径約80nm、長さは500nmから1000nm、インフルは直径80~120nmだ」
「えっとえっと、エボラウイルスの表面にはGPタンパク質って突起があって、それが人間の細胞表面の受容体と結合して侵入してきて、免疫細胞にも結合しちゃうから免疫力が低下するんだよね?」
「そうだ。マクロファージや樹状細胞な」
「あと、なんだっけ、騙し討ちみたいなことするって。えーと」
「sGPタンパク質だ。エボラはsGPタンパク質という囮の分泌物を大量放出してヒトの抗体と結合させる。そうやってエボラ本体のGPタンパク質と結合出来なくさせて巧妙に免疫回避する」
「そうだ……sGPタンパク質だ」
一生懸命学んだ知識を思い出して確認したのは、少しでも光魔法で治癒出来る確率を上げるためだ。
聖女の力で治すためにはアリス自身がその病を理解している必要があるのだと、二年前に嫌という程思い知らされた。ルイ王子に『光魔法の使い手である以上、最大限に活かす責任と義務がある』と言われ、治せる病が増えるように医学院で努力してきたつもりではいる。それでもエボラ出血熱となると、あまりに深刻な病だけに不安は拭えない。
「よく勉強してるな」
ルイ王子が言ったその一言にアリスは驚いて顔を上げた。時に悪魔とも感じた厳しい師が初めて自分にかけた努力を認める言葉だった。
「う、うん! 私頑張ってる!」
「拳を握るな力を抜け。少しチクッとするぞ」
褒められたと喜ぶ間もなく、あっという間に注射を打たれ、時間魔法をかけられると腕がだるい。しかし言われた通り自分に光魔法をかけるとすぐに治った。
「よし。これでお前はエボラウイルスに対する免疫を獲得した。隣のラボに医学院の生徒達がいる。皆もワクチンを打ちあってヴィンスが今から時間魔法をかけるところだ。副反応が出てくるだろうから光魔法をかけてやってくれ。俺達はこっちで準備をしておく」
ルイ王子はそう言って-80℃に保たれる魔道具の箱に大量のワクチンの瓶を入れ、ネオは真新しい注射器を箱に詰めた。
全ての準備が整いギルモア邸に転移すると、体調の悪そうな男が客室で横になっていた。
「お、王子殿下……?」
「大丈夫か。治しにきたぞ」
「な、治る……?」
男は顔色も悪くやつれているが、エボラ出血熱の特徴的な症状である出血の兆候は見られなかった。
「この人がエボラ出血熱の患者さん?」
「そうだ。時間を止めているから発症初期のままだ。しかし感染初期ではない。光魔法が効かなければ効果が薄くてもモノクローナル抗体で治療するしかない」
『効きますように』と祈るように患者の前で両手を組み、アリスは光魔法を発動させた。金色の光の粒子がキラキラと患者に舞い落ちる。光が消えた後、そこにいた男の顔色はすっかり良くなっていた。




