138.音尾信一①
僕は地元では神童と呼ばれ、自分でもそう思って生きてきた。
中学受験では西日本一、いや、日本一の中高一貫の男子校一本を目指し、努力の甲斐あって無事合格した。両親も親戚も大喜びで、人生の成功は約束されたように扱われた。
だけど入学してみたら僕は全然神童なんかじゃなかった。
上には上がいるというけれど、模試でいつも上位に入っていた知った名前がこぞって入学している。中でも別格だったのは同じクラスの来栖塁君だった。
複数の塾が行うこの中学志望者だけのオープン模試では、当然のようにいつもトップの成績で、その点数もいつも限りなく満点に近かったのが来栖君。
それなのに、入学式では新入生代表でもなければ副級長にさえ選ばれていなかった。入試の点数で決まる筈なのに。
入試当日調子が悪かったのだろうか。
だけどすぐに真相は耳に入ってきた。
来栖君と同じ塾に行ってた同級生によると、代表だとか、挨拶だとか、成績によって目立つような役割が与えられる試験に限って、目立つのが嫌いな来栖君は計算してギリギリ選ばれない点数を獲るんだと。
それを聞いた時、ちょっと残念だし嫌だなと思ってしまった。だって選ばれたくて必死で努力してる人間もいるのに、出来るのにわざと手を抜くなんて。何だか舐めているような気がしてしまったから。
僕は神童とは言われていたけれど、努力だって人よりしてきたと思う。模試がイマイチな時も、自分の弱点を克服すべく分析して練習して、インプットしたものを正しくアウトプット出来るようひたすら問題集を解いたりした。
だから飄々と何でもこなす来栖君が手を抜いてるのは何か嫌だった。せっかくの天才なら、その全力を見たい。唸るような能力の違いを見せて欲しい。
いつも順位表で一番上に載っていたその名前に憧れと畏怖さえ感じていた僕に、来栖君の異次元の知能を見せて欲しい。
僕は自分勝手で一方的な想いを秘めていた。
ある日、僕がノートの端に描いたペガサスの絵を偶然目にした来栖君が声をかけてくれた。
『めっちゃ上手いな自分!』
わぁ、初めて話した。目立つのが嫌いな割に同級生には気さくだなぁ。
僕は小さい頃から好きだった幻獣について、来栖君の意見を聞いてみたいと思ってしまった。これはチャンスだ。
『来栖君はこの生き物についてどう思う』
来栖君は一瞬遠慮した表情になったものの、気を取り直したように口を開いた。
『本来翼いうのは前肢で、体重の15から25%量の胸筋が無いと飛べへん。馬の体重が500㎏やとしたら、翼だけで125㎏弱の筋肉が必要やし、体が重過ぎんねん。四本の脚を持って背中から翼が生えとる時点で骨格的にも不可能やと思う』
僕は自分の心臓が高鳴るのが分かった。今までこんな答をくれる同級生はいなかった。面白い。もっと教えて欲しい。僕が知らないこの世界のこと。
『じゃあ天使の翼も不可能なの?』
僕はここぞとばかりに自分の知りたいことを聞いてみた。小さい頃は自分も翼が欲しいと思ったことがあったし、天使の絵を見ても違和感なんて感じたことは無かった。でも今の来栖君の言葉を聞いて思ったのだ。翼は前肢? 背中からの翼は無理? じゃあ天使は?
来栖君はこの質問にも面倒くさがらずに見解を述べてくれた。
『人間の肩甲骨から翼が伸びとっても、人間の肩関節は自由に動く分、翼の根元が安定せぇへん。左右の肩関節の位置が常に一定なんが、飛ぶときにめっちゃ大事なことやねん。鳥の肩関節はV字型の叉骨が烏口骨と関節して胸骨とがっちり繋がっとるけど、人間は左右の肩甲骨が動いてまうから安定して飛ばれへんし、飛んでる間は絶対腕動かされへんいうことや。竪琴パランポロン弾いたり弓矢パシューなんかしたら即墜落やで』
面白い! 何なのその回答! 周りの同級生達は爆笑しているけれど、僕はワクワクが抑えられない。生き物って面白い。骨格や筋肉のことをもっと知ったら絶対もっと面白い。
僕はその日の帰りに動物の骨格標本の図鑑や解剖学の図鑑を買って帰った。
名古屋からの新幹線通学。正直疲れるけれど、乗っている間は図鑑を見て過ごした。そうしたらあっという間だ。乗り換えてからの電車でもいつも僕は図鑑を見ていた。
そんな時、新大阪駅のホームで立ったまま図鑑を見て電車を待つ僕に、知らないどこかの学校の女子数人が聞こえよがしに言ってきた。
『何あれ、見て。骸骨の本見てる』
『きっしょ』
『オタクいうやつやん? 中二病?』
クスクスと笑う彼女達の目的が何なのか分からない。ただの憂さ晴らしだろうか。まぁ相手しないに限る。
『私服やけどどこの学校やろ』
『知らん知らん』
『私服だっさ』
あぁ、面倒だなぁ。こういう手合いは反応したら喜ぶから無視に限るんだけど、それはそれで自分達が強いから怖くて何も言い返せないんだって喜ばせる気がするな。
うーん、何が正解かなと思っていたら、その彼女達は急に黙った後に声色を変えた。
『うっわ、かっこよ!』
『めっちゃ男前やん!』
『何何何、こっち来る! 無理! 顔面偏差値えっぐ!』
とりあえずターゲットが変わったんだなーと思って顔を上げると、彼女達に向かって真っ直ぐ歩いて行ったのは、なんと来栖君だった。
な、何してるの来栖君??
来栖君は彼女達の目の前まで行って、ポケットに両手を入れたまま顔を傾けて口を開いた。
『自分らもそのぶ厚い面の皮剝がしたら骸骨やん。何で骨格標本がきしょいねん。きしょいんはお前らのぶっさいくな顔と性悪な根性やで。ブーース』
な、何言ってるのーー!!??
『え? え?』
『ひ、酷ない?』
『あんた何? 何で急にそんなん言われなあかんの!?』
彼女達はあまりのことに涙目になっている。今まで一方的に攻撃するばかりで、されることに慣れていないのだと分かった。複数いることで気が大きくなるタイプなんだろう。
『自分らもあそこにいる俺の友達に急に酷いこと言うたやんか。1対3とは卑怯の極みやな。ブスはやる事もブスやて見本や』
『あんたあのオタクの友達なんや? ほなあんたもきっしょいオタクいうことやな!』
『オタクで結構。何か成し遂げる専門家はだいたいオタク気質持ってんねん。自分らは何か自慢できるもんあんのか? 頭悪い、顔悪い、スタイル悪い、性格悪い、言葉遣い悪いの五重苦やから何かあれへんときっつい人生やなー』
言い過ぎ! 来栖君言い過ぎ!!
せっかく無視しようと思ってたのに来栖君の登場でとんでもない展開だ。これどうしよう。だけどあそこに割って入る勇気は僕には無い。
『ひ、酷いぃ。うっうっ』
『うぇっ、うぇぇ、何でそないなこと言うのー』
『酷いのは自分らやろ。見ず知らずの人間に聞こえるように悪口とか最悪や。こないな時はどないすんのか習うてへんの?』
三人のうちの一人は来栖君を睨みつけたままスマホで動画を撮ろうとしている。まずい、ここだけ撮られたら来栖君が悪者になって晒される。
『奇遇やなぁ。俺も動画は撮っとんねん。自分らが最初に悪態ついとるとこから全部な』
『いや、いややぁ! 消して! 消せや!』
『せやからこないな時はどないしたらええ思う?』
『ど、土下座でもせぇ言うの?』
『そんなん一言も言うてへんやん』
三人のうち泣いている二人が小さい声で謝り始めた。
『ごめんなさい……』
『うちらが悪い……ほんまにごめんなさい』
『謝る相手が違うやろ』
えっ! ぼ、僕はいいのに!
二人が僕の方に向き直り、ペコリと頭を下げて泣きながら謝ってきた。僕は顔の前で右手をパタパタ振って『もういいよ!』とジェスチャーする。
『俺の友達が許してくれるて。優しいやつで良かったやん』
『うぅっ、ぅっ』
『これに懲りたらこないなこと二度とせんとき。いつかもっと痛い目見るで。せやけど謝れたんは偉かったんちゃう』
そう言って僕の方に歩いてくる来栖君の背後に見える女性三人のうち、謝った二人は偉かったって言葉で頬を染めて来栖君の背中を見ていて、謝れなかった一人は動画を恐れて青ざめて泣いていた。
『あんなん気にしたらあかんで』
僕にそう言う来栖君は何てことないって顔で僕にニッコリ微笑み、僕達は電車の中で一緒に図鑑を見ながら鳥の骨格の話をして過ごした。




