131.兄の身勝手で十年すれ違う母子の愛
ベスティアリ王国で舞踏会が開催されている頃、クルス王国のとある子爵家では恐怖に怯える当主の姿があった。
「何だこのいい加減な帳簿は! 一度失敗しといて何の反省もしてねぇのか!」
「ぜ、前回は経理は別の者に頼んでいたのです」
「お前の商会だったんだろうが! 毎日何重にもチェックしろ! 他人任せで無責任なダメ兄貴め!」
怒鳴っているのは黒髪長身の美丈夫ゼイン。
『十字架の国のアリス~王国の光~』のFDにおける攻略対象者であり、この世界では第二王子ルイの手足となって動く裏社会のリーダーをしている。
ゲームでゼイン闇堕ちの最大の原因となった弟イーサンの死は、この世界では十二年前にルイによって回避されている。それどころか現在のイーサンは、貧民街の孤児院で働きながら週三回医学院でも学ぶ優秀な若者である。それに伴いゼインも闇堕ちすることなく、ルイを唯一の主と決めて裏組織を従え仕えている。
そのルイから昨日風魔法を付与した伝書用紙が届いたのだ。
久々の緊急指令に胸が躍り、必ずやお役に立とうと早速動いたのだが……
知れば知るほど、ルイの侍従であるエリオットの人柄はゼインの心の琴線に触れ、エリオットの長兄の生き様はゼインの逆鱗に触れた。
この男は、弟属性にめっぽう弱かった。
「お前、今の商売がまた失敗しても、エリオットの仕送りで今後も何とかなると思ってんだろ! クソが!!」
「し、失敬な! 私は貴族ですよ! 言葉に気を付け……」
「うるせぇ!! 本当なら兄貴が弟を守るもんだろうが!!」
「わ、私が当主なのですよ!?」
「当主なら家門を守るために自ら頭も体もコネも何もかも使って努力しろ! 間抜けが間抜けのままぼんやりした仕事しやがって! 年の離れた末っ子がガキの頃から必死に一人離れて働いて、やっともらった給料で兄貴家族がへらへら生活してるってどういう了見だよ!! お前のせいでエリオットは好きな女と想い合ってても家庭を持つ夢も見れねぇんだよ!! あーてめぇマジでムカつくな!!」
エリオットの長兄ジェラルドはガタガタ震えながら帳簿の付け方をゼインの部下に習っていた。
「ここの数字、間違ってますよ」
もう何度目の指摘だろう。部下がミスを見つける度にゼインの舌打ちが執務室に響く。
「お前ちゃんと生きてく気あんのか? 適当に生きやがって」
「あ、あ、あります。そ、それは脅しですか」
「あぁ? そう思うなら思っとけよ。俺は弟を大事にしない奴は殺したくなるって覚えとけ」
帳簿の付け方など基本中の基本だ。これが終われば商品の目利き、仕入れ先の選定から交渉、仕入れから販売、顧客管理とありとあらゆるノウハウを叩き込まれる。
控えめなノックの音が執務室に響く。
「お前の女房でも心配して来たか?」
ゼインの部下の一人が扉を開けると、そこには小柄な老婦人が立っていた。まるで侍女のような身なりをしているが、次に発した言葉にゼイン達は耳を疑った。
「失礼致します。私は先代当主の妻です」
その女性はジェラルドとエリオットの母であった。早くに夫に先立たれ、一人で息子四人を育て上げた苦労の人。
しかしエリオットが十分に仕送りしているにも関わらず、老母はみすぼらしく手も荒れている。そういえばこの屋敷には使用人がほとんどいない。まさか老母を使用人代わりにしているのではないかと、ゼインの脳裏に嫌な考えが浮かぶ。
「ご婦人、エリオットが贈ったネックレスはしないんですか?」
「何のことでしょう? 私は装飾品は何も持っておりませんが……? あの、ジェラルドの前の商会が上手くいかなかったのは、根拠なく自信過剰な面のあるこの子を、母として諫めることが出来なかった私の責任でもあります。どうかお叱りは私に……」
「ご婦人、ちょっと待ってて下さい」
ゼインはジェラルドの胸ぐらを掴んで顔を近付け、地を這うような低い声で言った。
「おい、ネックレスはどうした」
ジェラルドはガタガタと震えたまま視線を逸らす。
「いい度胸だ。おい、お前ら、女房の持ち物を見てこい」
「了解です」
ドタドタと足音を立てて部下達が執務室を出て行った。
「ご婦人、エリオットからの仕送りは貴女の元には届いていましたか」
「ええ、毎月銀貨を二十枚も送ってくれています。おかげさまで冬前には温かいストールを買うことが出来ました。エリオットには感謝しています」
「銀貨二十枚……」
ジェラルドはさらに挙動不審になり、その視線は空中を彷徨った。
「おい、エリオットは毎月この家に金貨三十枚は仕送りしてるよなぁ? それもこれもお袋さんに楽をさせてやりたいからだ。それなのに肝心のお袋さんが月に銀貨二十枚ってどういうことだよ」
「そ、それは、母の食費なども我々が賄っておりますので……薪も一括して購入しますし……」
食費も薪も金貨数枚で足りるだろう。しかも毎月たった銀貨二十枚で実の母を使用人代わりにしているのなら、さほど人件費もかかっていない。
「き、金貨三十枚って、本当ですか? それじゃあエリオットが使える分が残らないじゃないですか。いいえ、それよりジェラルド、貴方はエリオットからは月に金貨三枚送られてくると言っていたわよね? 今やっている商会は前と違って上手くいっていると!」
何も答えず俯いて歯を噛みしめるジェラルドの代わりにゼインが返答した。
「ご婦人、本当です。この十年、王宮に仕えてからの給金のほとんどをエリオットはこの家に仕送りし続けています。つい最近も貴女宛てに手紙と共に美しいネックレスを送った筈です」
「も、もらっていません。ジェラルド、どういうことなの」
さっき出て行った部下達が大声を張り上げているのが聞こえてきた。
「お頭ー! 女房の宝飾品の中に、ルイ殿下が言っていた通りのデザインのネックレスがありましたー! 他にも宝石類がたんまりです。とても負債を抱えてるとは思えない贅沢ぶりですよ」
「ジェラルド……?」
「……わ、私が当主です。本家が困窮していては社交界に舐められるではありませんか。当主の妻は着飾る必要があるのですよ」
「て、手紙は……? 手紙もあったのは本当なの? エリオットから私宛ての手紙なんて……届いたことは無かったでしょう? 便りが無いのは元気な証拠だと思うようにしていたけれど、私がエリオットを心配していたのは貴方も知っていた筈なのに……!」
どうやらジェラルドはエリオットからの手紙さえも母に渡すことは無かったようだ。恐らく手紙の中に給与の話や仕送り分についての記載でもあったのだろうとゼインは推測した。
「ネックレスもエリオットが選んでくれたならあげられないわ。私は他にあげられる宝石ももう何も無いけれど、エリオットが働いて頂いたお金で私のために選んで買ってくれたのなら、死ぬまで大切にしたいし、死んだら墓に入れて頂戴」
悲し気にジェラルドに縋る老母はあまりに憐れで、ゼインも部下も自分の頭がスッと冷めていくのを感じていた。
「おい! そのネックレス持ってこい!」
ゼインが大声で当主の主寝室にいるであろう部下に指示を出すと、すぐに部下達が大量の宝石箱を抱えて執務室に戻ってきた。
「やめてやめてぇ! 私のものよ!」
ジェラルドの妻が金切り声をあげながら部下達の腕を引っ張っているが、部下の誰一人としてそんなことで腕がぐらつく者はいなかった。
「ルイ殿下の言ってたネックレスはエメラルドが連なった金の装飾のネックレスだったよなぁ?」
「はい。これが王家出入りの宝石商の箱に入ってましたから、間違いなくこれだと思いますよ」
「返して! それが一番上等なものよ! まだパーティーに一度も着けて行っていないのに!」
「奥さん、これはエリオットが自分の母親のために買ったもんだ。自分の宝石を全部売って育ててくれた母親のために、綺麗なものを買ってやりたかったんだろうさ。それをあんたはネコババしてんだよ」
老母はそのネックレスを一目見て、皺に囲まれた老いた瞳に涙を溜めた。
「ジェラルド、貴方はこれを見ても何も思い出さないの……? これは貴女のお父様が求婚する時に私に贈ってくれたネックレスとよく似ているのよ。お父様の緑の瞳と同じエメラルドのネックレス……」
ジェラルドは何も返事をしなかった。
「最後まで手元に残しておいたけれど、風邪が大流行した時に、貴方達の薬を買うためにどうしてもお金が足りなくて売ってしまったの。でもそのおかげで全員が健康に大人になって後悔はしていないわ。それをエリオットは覚えていてくれたのね……」
「か、母さん、勿論覚えているさ。俺だって母さんに感謝してる。だからこうして一緒に住んでやってるんじゃないか。だけど母さんにはもうネックレスなんて洒落たものは必要ないだろう? 今必要なのは俺の妻なんだよ。当主である俺がそう判断したんだ。いいね?」
「ジェラルド……このネックレスと手紙だけは返して。お金のことはこれ以上何も言わないから、どうかお願い」
「手紙なんてもう全て破棄してますよ。何年分だと思っているんですか! 困らせないで下さい!」
極まりの悪いジェラルドが周りの視線に耐えられず、つい突き放した言い方をした時だった。ゼインと部下達の瞳が鋭くギラリとその輝きを変えた。
ゼインは幼い時に病気で母を亡くしている。部下達も似たような境遇の者ばかりだった。だからせっかく今生きて孝行できる母がいるにもかかわらず、その恩を仇で返す目の前の男に憎悪が湧いた。
間抜けで商売を失敗させただけじゃ飽き足らず、弟の骨の髄までしゃぶり、母親への愛情さえ伝えず搾取する。頭が悪い上に人情も良心も無いジェラルドに、嫌悪を通り越した感情で吐き気がしてくるゼイン一派。
「ネックレスは勿論だが、今までの援助金も全額利子付きで返してもらうからな」
「そ、そんなの無理ですよ! 第一最初の仕送りは十年も前ですから時効です!」
「時効だぁ? そんなもんはねぇよ。俺が無いと言ったら無いんだ。分かるよな」
「金額だって最初は少なかったんです! それに私には子供もいますし、あいつは独身で住み込みで、使う機会も無かったでしょう! だったら!」
「……お前、もう死んどくか?」
肩を震わせて涙を流す老婦人は、もう長男を庇うことは無かった。




