12.小さな異変
「エミリー、領地のネルを覚えてる?」
キッチンで仕込みをしている私のところにお母様がやってきた。
「はい。農家の長女の赤毛のネルですよね? 昔よく遊んでもらいました」
「そうそう、あの面倒見のいいネルよ」
「どうかしました?」
大きな小麦農家の長女であるネルは、七人の弟妹の面倒をよく見る厳しくも優しい姉御肌の娘だ。私も領地にいた頃はよく遊んでもらった。たしかネルは二、三年前に結婚して子供が一人いたはずだ。
「ネルに二人目の赤ちゃんが生まれたんだけど、お乳もあまり飲めなくて、飲んでも吐いたり痙攣して具合が悪いみたい。心配だわ」
「お医者様には見せたのですか?」
「勿論見せたけど、生まれつき体が弱いんだろうって言うのよ。ネルもご主人も健康そのものなのにね」
私は豪快に笑う元気いっぱいのネルを思い出して胸が痛んだ。
「今年は何故かネルの家の小麦だけ穂発芽して被害が大きかったし、本当に災難続き。何か力になれないかしら」
「そんなことがあったんですか」
ネルの家の小麦は質が良くて王都の商会でも取り扱いしているくらいだ。私もずっとこの小麦粉で料理をしている。ルイ殿下のお好み焼きもクロックムッシュのパンもベシャメルソースも全部ネルの家の小麦粉を使っている。
穂発芽は収穫前の穂の中にある種子が発芽してしまう現象で、収穫も減るし品質も低下する。収穫前に雨が降ると起こるのだが、うちの領地はこの季節雨が少ないので小麦収穫にはもってこいの気候だ。毎年ネルの家の小麦畑が風に波打って黄金色に輝く光景はとても綺麗で大好きだった。今年も雨は降っていないのに何故なんだろう。
「それにね、ネルのところで働いてたアビーの末弟もよく転ぶらしいんだけど、怪我をしたら血が止まりにくいんですって。貧血もあるし、最近は骨を折ってずっと家にいるそうよ。まだ小さいのに可哀想に」
「アビーのところも……」
アビーにも私は遊んでもらったことがある。おさげが可愛いおっとりしたお姉さんだ。
「穂発芽といい、子供達のことといい、何かあの地域に悪いものでもあるのかしら」
お母様は頬に手を当てて溜め息をついた。お父様も心配されて土壌の調査をしたそうだけど、何も変わったことは無かったらしい。
「今度神官様にお願いして御祈祷して頂こうかしらね」
そう言ってお母様はキッチンを出て行った。
◇◇◇
「それは心配やな」
その日の夕方訪れたルイ殿下に私は領地の話を聞いてもらった。
「穂発芽の話は前世でちょっと聞いたことあんな。大学の授業で」
「殿下も大学生だったの?」
「塁君でええって」
「る、塁君……」
「ふふっ」
男子を下の名前で呼んだことなんてあまり無いからとても照れる。
「前世の話ってあんましたことあらへんね俺ら」
「そういえばそうだね」
「俺は大学の四回生やった」
「四、回生?」
「あぁ、関西以外では四年生言うねんな」
「あ、四年生か。じゃあ卒論大変だったね」
「あー。いや俺は卒論はいらへんかった」
「?」
「卒業まであと二年やったし六回生なっても卒論無いねん」
「あ、六年制!?」
「医学部やった」
「……!」
予想外で言葉にならない。前世では高校で理系上位の子達が進学していたけど、私は文系だったから世界が違う人達だ。あの難解な理系数学で満点を取る子達の集まり。それが医学部。
「勉強できるんだね……」
「まぁ努力もしたからなぁ」
第二王子でヴィジュアル最強で魔力は規格外。その上医学部なんて私と住む世界が違い過ぎる。どうしよう。
「えみりは?」
「私は教育学部の二年生だったんだ」
「文系かぁ」
「へへ、理系科目が苦手で必然的に文系に進んだ」
「教育学部出てどないする予定やったん?」
「先生になりたかったけど、基礎のレポートで既に躓いてたなぁ」
「立派やなぁ」
「いやいや専門領域に入る前に死んじゃったからね」
「……えみり、死んだ時のこと覚えてるん?」
「え? いや実は覚えてないんだけど、転生してるし状況的にそうだろうって」
「そっか」
今一瞬塁君の表情が強張った。塁君は覚えているんだろうか。自分が死んだ時のことを。
「塁君は覚えてるの?」
「あぁ、覚えてんで」
「言いたくなかったら言わなくていいからね」
「ん、いつか言うわ」
そう言って笑った顔は珍しくぎこちなかった。そうだよね。どんな死に方か分からないけど、若くして死ぬって辛いことだよね。もう私からこの話はしないでおこう。
「あ、あとな。えみりの領地、俺行ってみよか?」
「え、なんで!?」
「だから医学生やったし、何か分かるかもしれへんやんか」
「あ! そうか!」
そうして塁君は我が家の領地へお忍びで来てくれることになった。忙しいのに陛下に言って五日間お休みをもらってくれたのだ。お礼にたくさん美味しいものを作ろうと思う。
ネルの赤ちゃんとアビーの弟の病気が治りますようにとその日から毎日神様に祈った。