1.モブ令嬢は今日も凪いでいる
「あー、今日も顔が濃い」
鏡の前で私は今朝も呟く。
前世の記憶が戻ってからの毎朝の日課だ。
五歳の頃に突然日本人だった頃の記憶が戻り、それからずっと鏡の中の自分に違和感を感じて生きている。
メイクしなくてもシミひとつない陶器のような白肌、バサバサの長い睫毛、大きな緑色の瞳、ゆるくウェーブしたブロンドヘア。
私のスッピンはもう少しあっさりしていた筈なんだけど。
育っていくうちに気付いたのはここが乙女ゲーム『十字架の国のアリス~王国の光~』の世界だということ。
前世で大学とバイトに明け暮れる日々の中、疲れた私の唯一の癒しとしてハマっていたゲームだ。
その世界で私はヒロインでも悪役令嬢でもないモブ令嬢として転生したらしい。本当にこんなことってあるんだ。
それにしても。
あーモブで良かった。
今世の我が家はハートリー侯爵家という名家で、なかなかにお金持ちである。
生意気な妹はいるけれど、両親も仲が良く優しいし、お金の心配も卒論の心配も就職の心配も無く、ただ令嬢然として過ごせばいい。楽な人生だ。
ゲームの舞台となる魔法学園に入学するのはあと三年後。
そろそろ攻略対象者である王子二人の婚約者選びの会があると聞いているが、私には全然関係ない。
一応高位貴族なので招待はされるが、選ばれるのは私じゃない。モブだから。
悪役ポジションの婚約者達は全員覚えている。私はその中の一人の友人ポジションだ。
申し訳ないが巻き込まれたくないので友人になるつもりはない。その会で初対面になるだろうが、私は会では空気になる予定である。
学園でも離れたところからゲームの進行を見守り、絶対に巻き込まれないように平和に過ごす予定だ。
この会で王子達の婚約者が決まれば、そのうち私も親の決めた貴族令息の誰かと婚約するのだろう。
攻略対象者以外のモブ令息の誰かと。
それがこの世界のモブ令嬢達の人生だ。
突然現れたヒロインに婚約者を奪われることも、嫉妬に狂うことも無く、断罪もされない。
この世界ではモブとして生きていくことこそがある意味勝ち組みたいな人生だと思う。
だけど、だけど。
つまんない人生でもある。
本当は誰か男の子を好きになってみたいし、好きになった人に好きだと言ってもらいたい。前世では片思いしか経験がない私は両想いにとても憧れる。
転生してもなお片思いの小さな胸の痛みは忘れられず、誰かに好きになってもらえたらどれだけ幸せなのだろうと、どこか夢見る自分がいる。
それにこの世界で高位貴族の令嬢は働いたりもしない。就職活動は悩みの種だったけど、働きたくないわけではない。バイトは結構好きだった。
前世の記憶が戻ってからもう八年。段々と『本当のことなのかな?』と自信がなくなっていく私がいる。
『夢なんじゃないかな?』『自分の脳が作り上げた記憶なんじゃないかな?』
『自分は精神の病気なんじゃないのかな?』
なんとか確信が欲しくて始めたことに料理がある。
元々前世では母親が働いていたから私がご飯を作ることも多かった。バイトでも簡単なメニューは作らせてもらっていた。
だから自分が今世でも料理が出来たなら
包丁どころか果物さえ自分でカットしたことがない『令嬢』の自分が料理出来たなら
あれは夢なんかじゃないって思える。
そう思い立って七歳の頃に『端っこでいいから厨房を使わせて欲しい』とお願いしたら、私専用キッチンを作ってくれた。お金持ちはやる事が違う。
初めて立った筈のキッチンで、初めて持った筈の包丁で、私は上手く魚の三枚おろしをやり遂げた。
私の前世は現実だったんだって確信して、キッチンでこっそり泣いた。
それからは趣味で懐かしい料理を作っているが自分でしか食べていない。
かなり前に家族に出してみたことがあるが、あまり好評ではなかったのだ。妹は遠慮なく『変な味だし見た目も悪い』と言ってきた。
この世界の貴族の食事はフレンチのコースのように美しいから、私の家庭料理なんて汚く見えるのかもしれない。
でもいい。たまに自分で作った料理を自分で食べて『前世はあった』と納得する。
『この味は我が家の特製グラタンの味』『これはバイト先の一番人気メニューの味』
そんな風に、一品一品が私の前世を現実だと繋ぎとめてくれている。
「エミリーお嬢様、お目覚めですか。朝食のご用意が出来ております」
専属侍女のリリーがいつものように私に声をかけ、準備を手伝ってくれる。
「今朝は珍しく侯爵様も奥様もお揃いですよ」
ピンときた。そろそろだとは思っていたが、遂に来たのだ招待状が。
攻略対象者である第一王子と第二王子の婚約者選びのティーパーティが開催される。