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序章

――見つけた。

「ねえ、次どこいく?」

――災禍、私の災禍。

「カラオケは先週行ったよね? ラウ1は気分じゃないしー」

――やっと会える。やっと私の悲願が。

「今日はもう普通にメックじゃダメなの? ねえ、優奈」

――災禍の姫。

「え?」

 呼び止められた優奈が振り向いた。

 藍色の瞳が呼び止められた者を探すように、背後を振り向き探った。けれども、そこには注目した友達たちしかいなかった。

「気のせい……?」

 と、首を傾げる優奈を不審に思って、友達の一人が訝しげにいう。

「気のせいじゃないって! 何見てんのさー」

 目線を下すと、自分より頭一つ分小さい背丈の友達が地団駄を踏んで怒っていた。

 ゆるふわボブを揺らして、口を尖らせて糾弾する。

「私の背が低いからって馬鹿にしているのかー」

「ごめんね! 美香」

 美香は不貞腐れたようにそっぽを向いた。

「こぉら、お姫様を怒らしちゃだめだよ」

 後ろから来て優奈の隣に立って咎める友達。

指先をピンと立てて、優しく叱りつける彼女の右耳についた紅色のピアスが輝く。快活な眼差しに合った紅色だ。

その彼女の隣で、スカートの袖を掴んで怒り目で見上げて睨む美香がいる。お姫様という単語にイラついたのだろう。

「これ以上、二人でからかうなよ。優奈、茜音」

 美香と茜音の間を割って入ってきた長い黒髪の友達。他の友達に比べネックレスもピアスもつけてない。でも、飾らなくとも凜然とした美貌があった。

「由紀。私、別にからかったわけじゃないんだけど……」

 茜音は小さく笑い。反対に優奈は否定したが、由紀は上品に笑った。

 夜の繁華街に、女子高生が四人。平日の夜ということもあって、彼女たちは嫌に目立っていた。

 警察官や教師がこの場を目撃すれば、間違いなく補導される対象だ。彼女らはその危険も顧みずこの自由を謳歌していた。とはいえ、彼女らがここらを放課後出歩くのも初めてはないし補導されそうになったこともしばしばある。

 スリルも含め、一際は派手な彼女らが夜の繁華街を闊歩する姿はすでに我がもの顔であった。

「で、どうすんだ? 優奈」

 この場をまとめるべく、由紀がいう。

 優奈は長い付け爪で彩った指先を口元に当てて考える素振りをする。

 三人の視線が集まる。優奈はこのグループでリーダー的存在なのだ。

 指示を仰がれ悩むが、優奈は自慢の金髪を掻き上げて提案する。

「んじゃ、今日はメックで駄弁らない?」

 先程、美香が話していたことを思い出していう。

「うん、いいねー」

「異議なーし!」

 茜音と美香が一緒になって返事をする。チラと由紀の方を見ると、微笑を刻み肯いていた。

 方針も決まり、優奈一行は近いファストフード店に足を向ける。四人の指針が決まったところで、突如電話が鳴る。

 優奈と由紀が一緒になって振り向く。鳴った電話は二つで、自身の携帯に気づいたのは二人。茜音と美香だ。

 二人は同じタイミングで鳴り出した携帯をカバンから取り出してその内容を見た。

「あ、彼氏だ」

 先にその内容を口にしたのは美香だ。

 茜音は携帯の画面を見るなりすぐに着信を取り耳にあてがって通話を始めていた。

「ごめーん。彼氏がお呼びだから私いくね」

 美香は両手を合わせ申し訳なそうに言った。面は申し訳なさそうだが、口調にその素振りはあまり見られない。

 優奈は慣れた顔つきで柔和な口調で返す。

「相変わらずラブラブじゃん。いいよー、行ってらっしゃい!」

 ブンブンと手を振ってお別れする。別れの際、美香は電話を取りながらも、こちらをチラチラ見ながら去っていった。その割に、電話を取った美香の声が幾分か高いトーンで話すというギャップがあった。

 ギャップというか彼氏相手に猫かぶる方が彼女の本質というのが正しい。優奈と由紀は顔を見合わせ笑みを溢した。

 美香が行ったところで、電話を終えた茜音が焦ったように口を開いた。

「ごめん! バイト入った……」

「茜音もかー。まぁ、仕方ないけど」

 優奈は特に言及することなく、肩を竦めて言った。

「どっかで埋め合わせするから! じゃあ、優奈も由紀も、またね!」

 早口で、騒々しく彼女はこの場を去っていった。

「……二人になったな」

 由紀は不意に、呟いた。

 彼女はどうするという具合で、流し目を向けてきた。

「とりま、メック?」

 そうファーストフード店に行くことを提案すると、由紀は頷いた。

 二人が急用で抜け、優奈はメックに赴いた。由紀はというと、優奈と一緒にメックに行っておらず一旦別れ、彼女は彼女で別の用事を済ますと言って抜けていた。

 由紀とは一旦別れる際に、いくつか会話をしていた。

「今日もウチ泊まってくだろう?」

「いいの?」

「いいの? ってそのつもりだろ……。ま、いいさ。じゃあ、私は夜ご飯の材料を買ってこないとな」

「うちもついていこっか?」

「お前が来ると余計な物入れるから来るな」

「えー、いいじゃん!」

「お前は大人しくメック行って待っとけ」

 という件があり、優奈は現在一人である。

 結局一人か、なんて考える。優奈たちは四人一緒に遊ぶのも多いが、こんな風に自然な解散も多々ある。由紀が夕食のために買い物へ行くのもお決まりの流れである。

 メックに入店したところで、夕食を考え軽食一つでも頼もうかと思案していると携帯が震えているのに気づく。

 由紀からの夕食の指針についての連絡かとSNSを開くと、その相手は先ほど彼氏の元へ向かった美香からだった。

 よろしく、というスタンプを絡ませ、新発売のタピシェイクチェックおねがーい、と軽い口調交えの懇願があった。

 ちゃっかりした部分のある美香だ。メックに行くと考案したのも、彼女が漏らした故のことだ。美香は新発売を賞味したいがためにそう言っていたのだろう。

 友達の頼みだ。断る理由もない。注文にあぐねていたのだからちょうどいいとも言える。

 しょうがないなぁ、なんて微笑を口元に含ませると携帯はピコンと再びSNSを受信する。その内容は、美香とスタンプで隠された彼氏とのツーショット写真だった。

 ラブラブ写真をグループSNSに送ってくる惚気っぷりに、イラつきながらも適当に返答し美香の頼みに従うことにした。

 メックのレジはあまり混んでおらず、すんなりと会計を済ませられた。平日の夜、それも金曜というわけじゃないから当たり前ではあるが。

 店内を見渡すと、ちらほらと優奈と同じ不良学生だと思わしき子がいる。特にカップル。あとは、ビジネススーツを来た大人やパソコン片手に参考書を広げる大学生くらいの人。

 大体が通勤、通学の帰りの立ち寄りだ。優奈も例に漏れずそうである。

 美香の中で話題のタピシェイクを片手に店内を闊歩し、窓際に丁度座れる場所を見つけ座った。

 交差点の様子が見える窓際の席だ。まばらに、行き交う人の光景が見える。

 腰をかけ、カバンからスマホとブックカバーをかぶせた本をテーブルの上に置いた。

 スマホはグループSNSを開き、その側で買ってきたタピシェイクを飲む。

 タピシェイクは三種類味があった。ミルクティーとマンゴー、そしてストロベリー。優奈が選んだのはストロベリー。

 チューっと吸い込んで、口内に広がるストロベリーの味とタピオカの弾力を味わいながらシェイクらしいトロッとした感触を楽しむ。

 んーまあまあかな。と、凡庸で気の利いた感想が思い浮かぶわけもなくグループSNSに、フツーに美味しい、と打ち込んで美香の要望を終わらせた。

 適当な感想に、美香は彼氏とのデート中に関わらず、もうちょっとないの? と具体性を求めてきたが一瞥して無視することにした。

 充分に飲んだ後、トレイの上に置いて文庫本に手をかけた。

 優奈が本を読むことに、美香もあかねもらしくないだとか、真面目か、とか言われるがこれは由紀から借りた物だ。借りたものというよりは押しつけられたものというのが正しいところだ。

 生真面目な優奈はそれを無下にはできず、隙間を見つけては読むことにしていた。

 由紀から押しつけられる本。そのジャンルのほとんどは、いわゆる異世界系というやつだ。

 異世界に、転生、召喚。最強、奴隷、悪役令嬢。などという単語を羅列すれば、とにかくその異世界系の類として例を漏れない。

 そのどれかに当てはまる異世界系を今まで読んで来たが、優奈はそれほど琴線に触れた試しがない。

 由紀曰く、現実ではない世界に対する憧憬。

 つまりは、自分が現実では持っていない物を異世界という架空に憧れを抱く逃避行動。そして、架空にその補完を求めている。

 共感できないわけではない。否定もするつもりもない。けど、優奈としては憧れを抱くのは違う気がした。

 だから、最初からイージーモードで物語進む主人公や、元の立場を過去の記憶からやり直そうとする主人公を見たとて、共感できない。

「…………」

 じゃあ何で読み続けているのか? そう問われれば否定する文言が思い浮かばないのも事実ではあった。強いていえばーー退屈? そう思うと自嘲が口元に浮かんだ。

 章を読み終えたところで、息を吐いて落ち着く。

 残ったタピシェイクを飲み干して、背伸びしていると呼び声がかかった。

「あ、優奈ちゃん!」

 よく知った声だ。振り向くと、幼げな顔つきの少女がにっこりと笑みを浮かべ駆け寄ってくる。

「不良少女じゃん」

 駆け寄ってくる少女を見るなりそういうと、彼女は口を尖らせ反論する。

「不良少女って言わないでよ! 穂花っていう名前があるんだからっ」

 目の前まで近づいてきた穂花と名乗る少女は、じっとこちらを睨み付ける。

「ごめんごめん。でも、中学生がこんな時間に出歩くのはいけないんだぞー」

 制服を着たままファストフード店に立ち寄っている自分を棚に上げてにそういう。

「そーいう優奈ちゃんだってフツーに出歩いているし」

「いーのうちは高校生でギャルだから」

「答えになってないし……」

 そう項垂れて、穂花は優奈の隣に座り鞄をテーブルの上に乗っけた。

「今日もお母さん待ち?」

 優奈は早速話題を切り返した。穂花は小さく頷いていう。

「うん。いつも通り、ここで待ってなさーい。だって」

「そか。んじゃー今日もおねーさんが勉強見てあげよっか?」

 そう言いながら、本をカバンの中にしまう。

「お願いー」

 穂花は元気よく返事し、自身のカバンから教科書とノートを優奈との間に広げた。

 派手な形の優奈とは裏腹に教えるのは丁寧だ。丁寧だし、優奈自身勉強ができるタイプなので先生としてむいている。

 他の友達。特に美香と茜音には意外だと言われる始末。見た目通り勉強もできる由紀と違って、髪を染めたりネイルを嗜んだりしている優奈が勤勉だというのはどうにも違和感があるらしい。

 それは、今教えている相手穂花も同じことを思っていた。

「優奈ちゃん、勉強できるって意外だよねー」

 懇切丁寧に教える優奈にそういう。

「意外って何さー。フツーだってフツー」

「普通じゃないし」

「じゃあ、ギャルだから?」

「それ一番納得できない理由だし……」

 ギャルという推論からすれば、優奈の他の友達も優秀ということになる。が、優奈の友人である美香と茜音の阿呆ぶりを穂花は知っているため嘆息した。

「てか、優奈ちゃん自分でギャルとか名乗るんだね」

「なんか変?」

「さっきも言ってたけど、ギャルの人が自分からギャルとか言わなくない?」

 そうかな、と優奈は首を傾げる。

 穂花は小さく息を吐いて追求はしなかった。話題を切り替えるように、勉強の続きを催促した。

 しばらくして、机上に置いていたスマホが震える。

 SNSの着信に、穂花は微笑を浮かべこちらを見る。どうやら、その相手を察しているようだ。

 優奈はそんな彼女を横目で見ながら着信の相手を見る。由紀だ。

 優奈も誰かは想像できていた。その内容をスマホの画面をスワイプして見ると、もうすぐメックに着くという報せだった。

「今日も由紀ちゃんの家で泊まり?」

 由紀のSNSを盗み見た穂花が笑みをこぼしながらいう。

「見んな。いいじゃん、別に」

「いいけどさー。ふふ、仲良いなーって」

 なんだか言いたげな眼差しがこちらを見上げている。

 生意気な後輩だと呆れていると、再び着信がある。次も由紀からだ。

 今日の夕飯はなんでしょーか? というお茶目な文章が届いた。加えて、メックに到着するまでに答えて、という制限時間つきだ。

 何かなー、と思慮する。やっぱカレーかな、なんて考えて穂花の方をちらと見ると彼女は窓際の方に視線を注いでいた。

 彼女に釣られて視線を窓の外に移す。

 外は相変わらず疎な人集りが行き交う。ここからはちょうど交差点が見える位置のため、車も人も交互に通る姿が伺える。

 その中で、一人の女性に気づいた。穂花が嬉しそうな眼差しで見つめる先にいる彼女だ。彼女が誰かくらい、付き合いの長い優奈は分っていた。

「穂花のママじゃん」

 と、その女性を呼称した。

「うん!」

 穂花は元気よく返事して、ガラス越しに手を振った。すると、穂花のママも気づいたようで朗らかな笑みを浮かべて返してくれていた。

 疎らとはいえそれなりに夜の繁華街というものは人は多い。交差点を渡る穂花のママはその中でも目立つ姿だ。

 お腹を膨らませ、お腹を大事にするようにゆっくりとした歩幅だ。そう彼女は妊婦であった。その隣には、彼女より若そうな男が彼女を気遣って手を引き、また彼女が気づいた娘の姿に彼も気づき、彼も手を振り返していた。

 穂花のお母さんとお父さんーーではない。お母さんは本当のそれだが、お父さんに関しては再婚相手というのが本意だ。

 再婚相手には、それなりの気まずがあるものだと思慮するが穂花は気にした素振りもなく、むしろ懐いた様子だ。

 それを一瞥した優奈が神妙な面差しをする。けれども、すぐににっこりと笑みを浮かべていう。

「ほら、行って来なよ」

 そう促すと、穂花は机上に散らばった教科書やノートを鞄に詰め込んで席を立った。

 その時だった。

 突如、響く悲鳴。それは店内から鳴ったものだった。

 優奈の藍色の目が悲鳴の主を探す。優奈と三席ほど離れた窓際の席で、外を目を見開いて口元を押さえる女性がいた。

 理由を聞く前に、視線の追って再び窓の外を見やる。そこは刹那、悠然と行き交う人の姿から随分変わり果てていた。

 店内の悲鳴を皮切りに、所々で悲鳴や野次が聞こえ始める。

 優奈は外を見て、穂花をチラと伺う。彼女はすっかり唖然として絶望めいた瞳をしていた。

「ここで待ってて!」

 優奈は急いで店内から出る。穂花はか細く、待って、行かないで、などと呟いていたがそれどころじゃない。

 きっと、穂花がそれを一番理解している。

 優奈は店内を出る際に、携帯を手にし警察に通報する。用件は端的に。

 駅前のメック。その前の交差点で不審者が凶器を持って人質を取っている、と。

 素早く要件を伝え、優奈は外へと出た。携帯をポッケにしまい騒然と化した交差点へと侵入した。

「……穂花、ママ」

 不意に呟く。

 交差点の中央。すでに歩行者の信号は赤になり、自動車が辺りでクラクションを連続で鳴らしている。煩わしい音の中で、穂花ママは不審者にナイフを突きつけられていた。

「近くんじゃねえぞ! 分ってんのかぁ? オレは殺すぞ! 殺すぞ!」

 高い身長で厳つい面の男だ。ガタイはそれなりに良いとはいえないが、体躯の大きさが威圧感を演じ、刃を振り回す姿が狂気を出していた。

 その男に突き飛ばされたであろう。若い男、穂花ママの再婚相手はガタガタ震えながらも説得しようとしていた。

「や、やめてくれ……。子供がいるんだ。人質にするなら、僕を」

「うるせぇ!」

 不審者の男の恐喝に、穂花ママの再婚相手の男は怯む。

 穂花のママは助けを求めるように瞳を潤ませ夫を見つめるが、彼は無力さから背くように目を逸らしてしまった。

 彼女は苦しそうに優しげな笑みを作る。夫を思っての反応だろう。

 彼女たちのやり取りを野次は思い思いに口にしていた。それはどれも自らを棚に上げ客観視できない妄言だった。

 警察はまだか? とか、誰か助けてやれよ、とか。まるで舞台上を眺めているだけの観客ども。

 優奈はそんな焦ったい言葉を振り払うように、その場に駆けつける。およそ2メートル先まできたところで、穂花のママは優奈に気づいて彼女は不審者の男に聞こえないほど声で優奈の名を呟いた。

 優奈ちゃん。逃げて。

 声は聞こえなくとも、口の動きがそう言っているように見えた。

「なんだぁ? 今度は女子供かぁ? おい、見えねえのか! それ以上近づいたら、殺すぞ!」

 明確な殺意を込めた叫び。耳障りな金切り声で震えている。

 よく観察すると、この男は足を震わせ、突きつけるナイフも振動している。お酒でも飲んでいるのか、にしては顔は赤くない。

 だが、男の震えは別の危険があった。

 穂花のママに突きつけたナイフ。それは彼女の首元でずっと揺れ動いているという危険性だ。

 ちょっとでも手元狂えば、彼の意思など関係なしに首元に突き刺さるだろう。

 ただでさえ狂気で冷静さのない男だ。事故で刺さなくとも故意で刺してしまうこともある。優奈は至って冷静で、藍色の目で見渡し頭を巡らせていた。

「ゆ、優奈くん。君は下がっていなさい」

 優奈の後ろで尻餅をつく穂花ママの夫が怖気ついて小声でいう。

 夫は妻に似るという。その逆も然りだけど、似ている夫婦の方が長続きするらしい。穂花ママは一度離婚しているから、やっと良い人を見つけられたみたいだ。

 そう思った優奈は微笑を浮かべていう。

「あの子のお父さんはあなたしかいないんだよ。勿論、あの人もこれから生まれてくる子も」

 そう言いながら、自分が馬鹿なことを考えていることに気づいた。

 自然と頭に巡った天秤。穂花ママと自分。天秤にかけた瞬間、命の秤はすぐさま傾いた。それは穂花ママの重さと自分の軽さ。優奈は驚きもしなかった。

 優奈は自嘲を浮かべた。なるべく、誰にも見られないように俯きながら。

 面を前に向けて、周りを一瞥する。相変わらず人垣は騒ぐだけで何の行動も取らない。中にはスマホを手にしてその様子を撮影しようとする不躾な人もいる。

 不愉快に顔を歪めながらも、覚悟を決めた眼差しが正面を向いた。

 その表情に、穂花ママが小声でやめなさいと呟いていた気がした。けど、優奈はもう止まらない。

 人差し指をマトモじゃない中年の男性に指差す。

「アンタそんなことして恥ずかしくないの!?」

 大した説諭はできず、責めるような言い草で糾弾する。

 安易な言葉に、相手は顔を真っ赤にさせて声を荒げた。

「ガキがわかった風に口訊くなっ!」

 相手はナイフを掴んだ手が強くなって小刻みに揺れている。

「そ、それになんだっ。お、オレに指を刺すんじゃねえ!」

 まるで、優奈の指先が凶器にでも見えているようにいう。

 優奈は自分が軽率な行動を取っていた事に気づく。言葉や行動一つが、今の相手の凶行を引き起こすものだと考えていなかった。

 万が一、ナイフが穂花ママの喉元を切り裂くとも限らない。

 冷静になるべきだと、優奈は静かに息を吐く。ゆっくりと指を下ろした。

 指を下ろすと、相手は安堵して周りを見渡す。

「ほらほら、何ボサッとしてんだぁ! こっちは人質いるんだぞ! か、金持ってこんかぁ!」

 人質を取って凶器を周りに示す意図が不明だったが、どうやら金銭目的のようだ。にしては、こんな交差点それも通りの多い場所で実行するなんて浅はかすぎる。

 すでにパトカーのサイレンは遠くから聞こえており、時期に警察はたどり着く。仮に、彼が目的を達したとしても捕まるのは明白だ。

 とはいえ、状況を汲み取ったところで彼が凶器を人質に突きつけている以上死傷者は出る可能性がある。それも目の前にいる人質は優奈の知り合いの母。

 警察が来るまで悠長構えるつもりもない。

 優奈の中で一つ決意する。ここまで来てできることはただ一つだ。

「……できる。うちなら……」

 久しぶりに口にした言葉。忌々しいと同時に、救いとも言える言葉。複雑ではあったけど、優奈の決心を突き動かす原動力になっていた。

 相手が優奈以外に注意が向いてる一瞬を狙う。少しでもタイミングがずれれば、穂花ママの喉元は切り裂かれ鮮血が辺りを散らす事になるだろう。

 その一瞬をーー、

「なにしてんの!」

 突如、この場に轟く他者の大声。優奈でもなければ、穂花ママの叫びでもない。まして、相手の震えた声でもない。

 視線はそこを一瞥する。そこには、買い物を終え袋を下げた由紀が両手で輪っかを作ってそれをメガホンのようにして叫ぶ姿があった。

「なんだテメェは!」

――今だ。

 これは由紀が状況を垣間見て判断した策だと考えた。チラと見る彼女が、ニヤリと笑ってくれた気がした。

 チャンスを拭いにしてはいけない。定まった決意は揺るぐことなく、地面を蹴って駆け出した。

 刹那の隙。相手の男は由紀に気を取られ真っ直ぐ向かってくる優奈に気づかない。

 男が優奈に気づいたのは間近に来た時だった。

「お前――」

 その続きを言う前に、凶器を振りかざす前に、人質を掴む手を振り払い男を突き飛ばした。

 その反動で、穂花ママが前倒しになりそうになるが後方で尻餅ついていた彼女の夫が支えてくれていた。

 安堵し、男の方を見ると仰け反りながら怒号を辺りに散らしているが見物していた野次馬数名が、優奈によくやった、と言って取り押さえてくれていた。

 重要な事は女子高生任せ、なんて思慮が巡ったけど頭の中に留めた。

「優奈!」

「優奈ちゃん!」

 自分を呼ぶ声が二人。振り向くと、由紀と穂花が駆け寄っていた。

「全く無茶する」

 そう言いながら笑みを溢す由紀と、

「もう! 怪我したら……でも、ありがとう」

 涙ぐみながら抱きついてくる穂花だ。

 優奈は気恥ずかしそうに、後ろ髪を撫でた。

「本当にありがとう」

 そういったのは穂花ママだった。彼女は新たな命の宿ったお腹を優しく撫でながら安心したようにお礼を言ってくれた。

 優奈は言葉少なく、当然のことだと口角を上げて笑って見せた。

 穂花は優奈に抱きついた後、母のほうへ駆け寄って父と母の間で抱かれた。

「…………」

 母と父と娘、そしてこれから生まれてくる命。優奈はまるで芸術品でも見たかのように眼差しが儚く揺れた。

「どうした?」

 その様子を心配した由紀が近づいて聞いてくるが、優奈は小さく首を振った。

「ううん、別に」

 そう言った由紀の方に向き直った。

 その時、背筋がぞくりと蠢いた。

 殺意。そう言うのだろうか。それとも別の何かを案じたきっかけだったのか。どちらにせよ。この先の結果から言える事は、そのどちらとも当てはまる予兆だった。

 誰かが叫びを上げた。

 誰かが悲鳴を上げた。

 優奈は本能的に、由紀を突き飛ばして背後を一瞥する。そこには無策に刃を振りかざした男が辺りに鮮血をばら撒いて立ち上がっている。

 こちらを見ている。いや、穂花の方を見ている。この場で一番弱い存在を。

 男は体勢を低くして、耳障りな呻き声を発して、刃を真正面に構え進む。

 穂花も父も母も、男の凶行に気づくには時間がかかる。優奈は彼女たちの前に覆いかかるように庇った。

 そして、グチュリ。

 グチュリ、グチュリ、と内臓が抉られた。そこには強い強い悪意さえも込められて。

「え」

 穂花は唖然と声を漏らす。目元に涙を残した瞳が頭上に上がった。その柔肌にポツリと赤い血が落ちた。

「ダイジョーブ……?」

 優奈が心配しないで、なんて言おうとしたが思った以上に声は出なかった。出てきた言葉は、あまりに細く拙く、苦しいものだ。

 穂花は身体をガタガタ震わせ悲鳴を上げた。それは彼女の父と母も同様で、絶望めいた顔を見せていた。

 男は満足したのか悦に満ちた表情で刃を一度奥に差し込んで取り出した。

「いたっ……」

 かろうじて立っていた足は震えていた。刺された箇所を拭うと生ぬるい感覚がする。ジリジリと言い難い激痛に堪え兼ねて体躯はコンクリート上に寝そべった。

 そんな折に、今更到着した警察に捕まる男。男は嘆くように叫んでいた。

「こりゃあ、オレは死刑だろう!」

 意図しない男の行動。それは身勝手な思惑から来たものだった。

 由紀が顔面蒼白になりながらも、男の方を涙目で睨んで優奈の元に駆け寄る。

「優奈、優奈!」

 先ほどまで笑んでいた表情は涙でぐしょぐしょに歪んでいる。穂花も事に気づき出して、泣き喚いて嗚咽を溢していた。

 痛いから揺らさないでよ……、なんて思った。仰いで見る二人の泣き顔。近くで座り込む穂花ママが、か細くごめんなさいと何度も呟いていた。

 穂花ママは悪くない。自分から割り込んでやった事だ。何も悔やむ必要なんてない。

 彼女の心労を軽くさせるには、きっと優奈から言ってあげるのが一番だと思う。けど、体は動かず、発声もできない。

 身体中が痛い。刃で貫かれた背中からすでに痛みは全身に行き渡っていた。激痛と微熱を繰り返していく身体。徐々にその感覚も希薄になっていき、今度は凍えるような震えが襲った。

 これが死ぬっていうことなの? 死ぬ。死ぬ。

――思ったほど苦しくない。

 そう思っていた。

 痛みによる苦しさは当然ある。死ぬなら痛みなく死ぬのが一番だろう。

 優奈は死ぬ間際、不思議な事ばかり考えていたのだ。

 死ぬときは走馬灯を見るというのに、全く過去の情景は頭の中を巡らない。

 死ぬ瞬間に、看取った相手に何かを口にしようと思うのに言葉は出てこない。

 死ってこんなもの。あまりにあっけないものだと、悟った。

 だからか、優奈は穂花と由紀の泣き顔を見てなぜだか不器用な笑みを作っていた。

 視線はぐるりと回って、泣きじゃくる穂花の母の姿。特にそのお腹、新しい命を見つめていた。

――穂花の妹だっけ?

 穂花が言っていた。妹ができるって、そりゃあ面を明るくさせて何度も聞かされていた話だ。今日は聞いていなかった。

 走馬灯も悔やむこともないはずだけど、一つあるとしたら妹。

 美月。優奈の妹の名前だ。

――…………ゴメンね。何もしてあげられなかった。

『お姉ちゃんは自由にならなきゃダメなんだよ』

 いつか美月から言われた言葉。優奈は涙を流していた。

 ただ一つの後悔。優奈は空の方を向いた。

「優奈っ、私は、お前が、お前がいなくなったら、私っ」

 凛とした顔立ちが台無しになるくらい涙で濡らす由紀。

 優奈はそっと力を振り絞って由紀の頬を撫でた。

「優奈ちゃん、優奈ちゃん……」

 優奈の名ばかりを痛苦に面を歪ませ叫ぶ穂花。

 穂花の方に顔を傾け、眼差しで語りかける。

 妹は大切にしなきゃダメだよ。伝わらないかもしれない。が、眼差しにそう意味を込めた。

 段々意識が遠のいていく。痛みもなくなって、目蓋が重くなる。そうまるで眠るように。

――おかえり、災禍の姫。

「――――」

 次の瞬間だった。口が開いたと思ったら、知らない光景が広がっていたのだ。

 先の見えない霧がかかっていて、自分がどこに立っているのかもわからない。ただ自分の目の前に、少女が立っていた。

 病気なほどに白い髪。それに伴った肌をしていて、服は着ていない。

 天使かと思った。だって、死の次に訪れた出来事だったからだ。

 少女に質問しようにも、言葉が伝えられない。そもそも、自分自身ここに立っているかも定かじゃないのだ。存在が希薄ですぐにでも消えそうな感覚。

 少女の顔はよく見えない。だけど、笑っていた気がする。

――条件は整った。

 少女がそう呟いた時、再び暗転する。

「ったぁ、な、何……」

 優奈は真上から落っこちたみたいに尻餅ついていた。お尻をさすりながら、自分に痛みの感覚があることに驚きながらそこに立つ。

「はあ、もう、わけわかんない……」

 言葉は途切れる。

 ただ広い多色な草原。爽やかに吹き抜ける風。天空では聞いた事のない鳴き声を出して飛ぶ怪鳥の姿。

 不意に、自分の頬をつねってみる。痛い。どうやら夢ではないらしい。

「えええええええええぇー」

 優奈の叫びは草原の彼方に虚しく轟いた。

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