第75話 置いていきません
学校を卒業した子が開いたパン屋さんの開店祝いに、お忍びでパンを買いに行く計画を立てました。お母様には相談しましたし、お父様にも購入を頼まれましたの。小さなポシェットにお金を入れて、ハンカチとお祝いの品を……あら、入りません。
一度全部だして、もう一度入れます。紅、ハンカチ、お金、お祝いの品、購入予定のメモとお人形……無理ですね。ここは断腸の思いでお人形を置いていきましょう。可哀想ですが、ベッドの枕元でお留守番です。
ハンカチとお金は絶対です。あとお祝いの品も忘れてはいけません。メモは……どうでしょう。暗記したら置いていけるでしょうか。でも紙は薄いので入れておきましょう。紅は諦めたほうがいいでしょうか。愛らしい陶器の器が嵩張っていました。
「失礼、僕のお姫様は何をお悩みかな?」
くすくす笑うカオス様の声と同時に、こんこんとノックの音が聞こえます。もう! お部屋の中でノックしても遅いですわ。ベッドに座る私の後ろから抱き着いて、肩に首を乗せます。手元を覗き込んで、首を傾げました。
「バッグを大きくしたらいいじゃないか」
「ダメですわ。このバッグと靴がお揃いで、明日のワンピースに似合うんです」
私が持っている外出着の中で、一番可愛い組み合わせですからね。ここは譲れません。そう説明した私の横から手を伸ばし、一番大きなお祝いの品を空中へしまいました。
「今のは僕が運ぶよ。それなら入るんじゃない?」
言われた通り、バッグにすべて収まりました。しかもパンパンに膨らんでいたバッグが、愛らしいころんとした円柱形に戻っています。
「ありがとうございます、カオス様。でも」
「明日は当然、僕が付き添うからね」
街に降りるという話をご相談する前に、すでにご存知でした。神様とはそういう存在だと知っていますが、狡いですわ。どこで聞いたのでしょう。私の口からお誘いしたかったのに。
「ずるいです」
「ごめんね、だって置いていかれたら嫌だなって。あのお人形みたいに」
カオス様が指さした先で、お母様が作ってくださったお人形がころりと横たわりました。まるで私に抗議しているよう。慌てて手を伸ばして引き寄せます。この子は前世でもずっと一緒にいてくれました。大切なお友達の一人です。少し古くなった肌も、先日綺麗に洗ってもらいました。
大根の汁で人形の肌が白くなるなんて、知りませんでしたわ。街の人はみんな知ってる知識だと聞いて、驚きました。教科書のお勉強より、役立つ気がします。ドレスはお母様と一緒に追加であつらえました。
お母様が着なくなったドレスを解いて、この人形用に仕立て直したのですけれど……私、思ったより不器用で指を数回も刺しました。思い出が増えて楽しかったですし、雨の日を有意義に過ごせたので問題ありません。傷を治すという名目で指を舐めるカオス様には、問題があったかも知れませんね。
「置いていきません」
カオス様も、人形も。
「ありがとう」
耳元で聞こえたカオス様の声に、腕の中の人形の声も重なった気がして、笑みが溢れました。明日のお出掛けが楽しみです。




