第59話 それは覚えておいて
「カオスは絶望と激昂で我を失ったの。感情的になった彼を見たのは、あれが初めてね。あの人は時間を戻そうとした。最初は1年だけ。世界の時間を戻すのは、とてつもない力を消費するのよ。1年あればあなたを聖女に指定して、婚約者から引き離せるはずだわ」
私もそう思います。でも、同時に気づいています。あの頃の私はリュシアン様を愛していた。いえ、好きでした。あの感情は愛ではなく、家族に対する好きと変わらない。本当の愛情を知った今ならそう言い切れます。ですが……あの頃の私はそう割り切れたでしょうか。
突然現れた神様に「妻になれ」と言われて、素直に頷くか分かりません。あの時の私は家族と婚約者が何より大切でした。世界を救うとか、君のためだと説得されても納得できなかった可能性があります。それを見透かして、カオス様はこの人生を全うしてからと考えられた。
「でも無理だったの」
断言したペルセ様をじっと見つめました。今の言葉にはどんな意味が……? これはペルセ様の独り言だから、私が口を挟んではいけません。会話を成立させたら、ペルセ様は何も言えなくなってしまう。じっと見つめる先で、ペルセ様は悲しそうに眉尻を下げました。
「あなたは理解できずに、彼を拒んでしまった。だからもっと時間を巻き戻す必要が出てきたのよ。カオスだけが持つ、世界を断罪する権能を捨てたけれど足りない。だから右目を捧げた。私が知るのはここまでよ。その後、まだ対価を払ったのかしら」
本当に独り言のように疑問を口にして、ペルセ様は目を伏せました。困ったように笑って、目を合わせてから手を握ります。その冷たい指先を引き寄せて、私の頬に押し当てました。
「15年を巻き戻したんじゃないの。その前に1年、5年、7年と複数回戻したわ。でも足りなかった。あなたの所為じゃないけれど……カオスの右目は見えない。それは覚えておいて」
あなたの為に差し出したのだから。そう言われて、私は唇を噛んで頷きます。頬を流れる雫に気づかず、ただ声もなく涙を溢れさせました。
「さあ、独り言はここまで。ちょっと……叱られてくるわね」
もうバレてるわ。そう告げてペルセ様は手を解こうとしました。その手に指をからめて、しっかり握ります。ひとつ大きく息を吸い込んで、私は呼びました。
「カオス様……いらっしゃるのでしょう?」
隠れているなら顔を見せてください。そう告げて空いた左手を伸ばします。空中でカオス様を求めて止まった指先に、軽く触れるだけのキスが落ちました。キスが合図だったように、カオス様が顕現されます。夜闇が完全に溶けて、朝日が差し込んだ部屋は光が満ち始めました。
紫に陰っていた空は、もう明るい空色に朝日の金が混じっています。大切なカオス様の指を引いて、私も唇を寄せました。触れて離れるだけなのに、心が高鳴ります。そんな場合ではないのに……。
「カオス様……ありがとうございます」
今の私に口に出来るのは、もう一言だけ。
「あなたを愛していますわ」




