法僧ミモザの思い出
法僧ミモザには子供の頃の記憶がない。
いや、本当はあるのだが思い出したくもない虐待の記憶しかない。
母子で離れと呼ぶには狭すぎる、ベッドも置けない小屋で過ごしてきた寒さと飢えの記憶。
その割にはやたら勉強していた覚えがある。母も厳しかった。
時計の読み方がわからなくて手厳しくやられた覚えがある。
そして母が時々話す、彼女が昔懸想していたであろう男性の物語。
本来貴族の女性がそのような話をするのはふしだらなのだけどと前置きをしながら話してくれた話は可也盛っていた気がする。流石に勇者でもドラゴンは倒さないだろう。
母は優しかった。
気弱で唯々諾々と子爵に従う姿を何度もみた。
母は弱く、そして強かった。
少なくともミモザは彼女の献身によって不幸な意味で男性を知らずに済むことができた。
いくら学ぶ方面に才覚があれど知らなくていいことはいくらでもある。
時々馬丁姿の男が誰も訪れない筈の離れに遊びに来る。
彼は人形を作ってくれた。いつも泣いているミモザを励ましてくれた。
折を見て遊んでくれた。こっそり少しばかりの手品と忍びの技を教えてくれた。
思えばかつて母の想い人が馬丁に化けた姿かもしれない。ひょっとしたら彼は本当のお父さんかもしれない。ささやかな妄想は彼女の希望だった。
母が時々子爵に呼ばれる。
かつては豪奢だったかもしれないがぼろきれのような服からもわかる傷だらけの身体。
母は美しいひとだった。ミモザにもその片鱗がある。
どこで身に付けたのかミモザ自身にもわからない外科医の技と、なぜ狭い離れにそのようなものがあったかわからない医療資材が親子を助けた。
剣に学問。軍学に会計そして法学。
成長したミモザの優秀さはとびぬけていた。
子爵の跡取りとなるはずのどの子供よりも優れていた。
子爵やその子供たちは彼女を、不義理な女として母をいたぶった。
母に言わせれば正しくミモザは彼の娘らしいが、子爵の気質は幸いにも娘に遺伝しなかったようだ。
幼いミモザは古びた人形と励ましあいながらいつか母を守ると誓った。
同時に人形をくれた馬丁が本当に父ならばどんなによかったかと憧れた。
あの優しい男ならばきっと母を、自分を不幸にはしなかったはずだ。
母は本当に好きな男性と結ばれることなく、家族を守るため子爵の愛人ともいえない立場に自らを貶めることを選び、幾夜の忌まわしい夜の果てにミモザは生まれた。
神の力を得たのはそういった日々の果てに、跡取り息子どのに大きな傷を与えたことがきっかけだった。人形をバカにされ投げられ納屋に連れていかれかけて。気づいたら神の声を聴いていた。
『守れ』
光が全身を包むような声。
気づいたら彼女は跡取り息子殿を叩きのめしていた。
今まで完全に無抵抗だったミモザに対して跡取り殿は実に油断していたようだ。
彼女の奇跡はどこからか正義神殿に嗅ぎつけられ子爵の家中は実に騒がしくなり、『闇神官を認めない』正義神殿の制度によりミモザは事実上不問となった。
母を取り戻して、いつか一緒に、幸せに暮らしたい。
母は人質だ。ミモザは子爵家の為にまだ働かねばならない。
ミモザは食事をしながら呆然としていたようだと気づいて居住まいをただす。
あの人形だけでも取り返せないかしら。でも今はあの娘にこそ必要なのかも知れない。
『守れ』
何を。どのように。
ミモザは何度も神に問うたが返事はない。
きっとそれは自ら見出すべく神が与えた課題なのだろうと最近思うようになった。
ならば、あの人形はひょっとしたらあの娘にこそ今は必要なのかもしれない。
いやまさか。あれはただの手袋から作った人形に過ぎないのだから。
『お前がその程度と規定するなら、お前の中ではそうなる』
「!」
「なにか云いましたかミルク姉妹」
「……ぼうっとしていたのですかミモザ姉妹。『物事を決めるのはあなた次第ですよ』」
「ミルク姉妹にしては神の教えを学んでいるようですね。最近の特訓の成果、もとい神の恩寵ですね」
「しっつれいですね! ぼうっとしていたくせに!」
匙を口に運びながらミモザはあの路上の少女を想う。
かつての自分にもあんな素敵な騎士がいたらよかったなあとジークの事をふと思う。
そういえば幼いころトモダチなんていなかったな。彼女はミルクの脇腹をつついて悪戯をしつつ珍しく二人まとめて神官長に叱責された。
微妙にジークは歳上キラーの素質があるかもしれない。
「お前、ほんとうにその人形好きだな」
「『頑張って。頑張らなくても大好きだよ。挫けたら一緒に泣いてあげる』って言っているもん」
ジークはビナの妄言には慣れているが、少女はというとそうではない筈だった。
三人はテクテクと街歩きしている。いつしか泥濘まみれの街路はまた石畳に戻り、少女の高価そうなヒールの泥と汚物だけが先ほどの街歩きの名残を残して。そのヒールが止まった。振り返った少女曰く。
「だね!」
「わかる?! この子すっごくいい子なの!」
まさかの全面同意。ローラ嬢。
「しっかし、カシム君いないな」
「……あの見習い聖騎士だったっけ? どんな関係?」
眉を顰めつつまた屋台に目をやっている少女に対して言外にひょっとして恋人? ひゅーひゅーとはやし立てる兄妹。そして頬を赤らめる彼女。
「そ、そんなこと……あるわよ!」
「あるんだ?!」「あるんだ! ……残念過ぎる」
ほっとするビナに超悔しそうなジーク。明暗が分かれた。
「だってあいつ浮気者だから手綱握っていないとだめだもの!」
「あ、ものすごくわかる!」
「え、ビナいつの間にどこの男とそんなことを!」
急に女性二人の視線がジークを射抜く。
「……残念なひとね」
「うん。知っている」
「え、なになに言っているのおまえら。頭のわるい俺にもわかるように頼む!」
「君の妹には彼とかいない。それでいいかしら」
「……うん? よけいわからない」
頭を抱えてしまうジーク。
呆れたローラ嬢は屋台に駆け寄ってプカプカ粉入りクッキーを買う。
クッキーは焼き立てらしく、細いひもをつけられてふわふわと浮いているので紐で手繰り寄せてビナと彼女はそれを分け合って食べだした。
「あ、ずりい! 俺にも!」
「わかるまでお兄ちゃんにはなし」
「同意です」
「ちょ、ちょっとでいいから食べさせて!」
飛び上がってクッキーをつかもうとするジークだが紐を手繰るという発想がないようだ。
「素晴らしい味です。なんということでしょう。レーズンとクッキーの間から垣間見る飴はまるでほうせきのようです」
「この香りは……シナモンかしら? こっちはジンジャーだけどこっちは力苺のワインで大人のあじわいですね」
ふわふわ浮かぶクッキーを次々手繰り寄せて食レポを開始する女二人。
「あ、めっちゃ喰いたい!」
奪わんとするジークの手を紐をヨーヨーのようにしてかわす二人。
まるで犬と遊ぶ飼い主のようだ。
「そして! 外の焼き締めに対してこのほろほろと溶けるくちどけ!」
「これは! 加加阿茶を湯煎で固めたものかしら!? 王都でも食べたことがない味わいです!」
「ひでえ! 食わせろっての!」
今やクッキーから漂う加加阿茶の香りはジークでもわかるほどだ。
奪い合いはしゃぎあう三人の耳朶に馬蹄の音が響いてくる。
「あれ?」
黙って馬の向きを変えようとする乗り手に。
「カシムいたあ!! 捕まえて!」
さけぶローラ嬢。
「なんでお前がいるのさ!」
「浮気していたらどこにだって現れるわよ! 何さっき来た時から軽く話を聞いだだけでどれだけ女の子と仲良くなっているの許さない!」
「誤解だ!」
「解説希望!」
修羅場だ。
兄妹はクッキーを食べながら和解した。
恋人たちの歯が浮く話題というが、実際プカプカ粉で二人は少し浮いていた。




