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37 老婆の忌野の際

 また一つ関わりのあった記憶が消された……



 朝目覚めた陽は泣いていたようで、頬から零れた涙が枕を冷たく濡らしていた。


 寝起きなのにどっと疲れが押し寄せてきて体が重い。

 とても嫌な夢を見ていたのだろう。


 顔を洗い枕カバーを取り替え洗濯機に放り込んだが、何だかやる気が起きない。

 床に敷いた布団を仕舞う気力もなく、のろのろと着替えると屋敷の部屋に出て、朝の点検と空気の入れ換えを無言で行う。



 広い屋敷は相変わらず人気無く静かで、多くの付喪神や道具が出払った今はより閑散としている。



 来客も無く穏やかな日常、掃除を終えて一息つこうと椅子に座ってから、気が付けばエリアスに声を掛けられていた。


「陽、どうしたの?疲れたの?」


「エリアスさん、あら……今日はお出かけしないんですか?」


「もう戻ってきた所よ」


「えぇ?だってまだお昼前……」


「お昼寝でもして寝ぼけてるの?もう日没よ」


「え……?」



 朝の点検を終えてから椅子に座った迄の記憶しかない陽は血の気が引く。


(座ってから一瞬で夕方に?そんなまさか……)




「陽、顔色が悪いわ」


「ごめんなさい、ちょっと調子が悪いみたい」


「箱庭まで付き添うわ。立てる?」


「ええ……」


 エリアスに手を引かれ、よろよろと箱庭の置いてある部屋迄付き添われ歩く陽。


 老婆のように丸まった背中に気付きながら、エリアスはそのまま陽を支えて一緒に箱庭へと入った。


「お布団敷きっぱなしだったわ。恥ずかしい」


「いいのよ陽。さぁ横になって」


 生前の老婆の姿に戻っている陽を悟らせないようエリアスは普段通りの態度で接し、陽を布団に寝かす。


「陽が寝るまで心配だから隣の部屋に居るわ。何かあったら呼んで頂戴」


「ありがとう……エリアスさん」


 しわがれた声で答えた陽は、そのまま布団を被って寝返りをうち丸まった。


(陽の姿が安定しない……それに記憶も曖昧に?)


 エリアスは陽が眠る様子を見守りながら、居間の小さなソファーで一夜を供にした。




 エリアスの心配は的中していて、それから陽は次第に老婆の姿に戻っている時が多くなり、それに合わせて時間の記憶も曖昧になっていった。




「老いによる痴ほうは治せんなぁ」


 陽の診察をした屋敷の漢方医付喪神の白澤が、付き添いのエリアスに診察結果を告げる。


「そう……よね」


「まぁ進行を緩やかにしていく位は可能だが、後は不老不死の秘薬でも見つけるか今の体を捨てて人外に移る位かのう。

 それこそ我々付喪神のようになぁ」


「陽にとってどれが一番幸せかしら……」


「お主が甲斐甲斐しく世話してやっとる今が、一番幸せな時かも知れんがな」


 診察を終えて大人しくソファーに座る陽を見ながら、白澤が医者らしい真面目な返答をする。


「兎に角、今は先生のお薬が頼りです。宜しくお願い致します」


「ふぅむ。そう言われちゃあ適当な仕事は出来んな」


「もし必要な薬草があれば採集して来ますから」


「異界の霊薬かぁ?儂は魔女でも魔術師でもないぞ」


「魔女の薬……」


「止めとけ止めとけ。博打が過ぎる」


 漢方医としての自負からか、異界の魔法や魔法を使った薬の文化を否定的に捉えている白澤は陽に薦めるつもりも無いようだ。


 異界は環境の厳しさと魔法文化による発展により、寿命年齢は平均50台辺りで、陽のような長寿による痴ほうを発症する程長生きではない。


 その為陽が生前生きていた世界同様に、痴ほうを治す術はない。




「よぉ陽さん、調子はどうだぃ?」


 増設されたサンルームにて、麗らかな日差しを浴びながら座る老婆の陽に、珍しくウツワノが現れ声を掛ける。


「聞こえてるか分からねぇが、まぁいいか」


「屋敷の主になる事を受け入れたら老化は止まると思うんだがなぁ」


「実はなぁ死んでから屋敷に連れてきたって言ったが、あれは嘘だ」


「今も婆さんはあの狭い部屋の中で、孤独死一歩手前の状態さ」


「婆さんの悪夢が、恐怖が、異界の魔物を生み出してるとしたらどう思う?」


「現実の世界で目覚めて全て夢かとほっとする?

 それとも孤独な現実を知って絶望の中死ぬ?」


 ウツワノが嘘か真か分からない戯言を雄弁と吐き出す間にも、陽は穏やかな顔で大人しく座っているだけである。


 その様子に諦めと自嘲を浮かべたウツワノは、老婆の耳元に近付き魂を揺さぶるような恐ろしい低音の声で語り掛ける。


「全てが分からなくなる前に決めるんだな。

 でなきゃあ何度も……何度も……現実の孤独な部屋と屋敷の中を行き来するばっかりで、終わりが無いからなぁ」


「終わりの無い孤独の仲間が死にかけの婆さんなんて後免だからな」


 最後の言葉は独り言のように早口で捲し立てると、詰まらなそうないつもの表情に戻ったウツワノは陽から離れた。




「どういう事なのウツワノ」


 陽の様子を見に来たエリアスは、ウツワノの話を聞いて青ざめている。

 老婆を心配するどころか更に追い詰める言葉の数々に、体の芯から冷たくなるような怒りと恐怖が混ざり合う。


 ウツワノは陽とエリアスどちらにも聞こえるような位置に立つと、じわじわと効いていく遅延の毒のように、言葉を紡いで発していく。


「聞いてた通りさ。陽は今元居た世界で死にかけてる」


「誰か近くに居ないの?陽を気に掛ける人は?」


「居ないねぇ。ここでも向こうでも孤立した空間に独りさ」


 目を細め口許に薄い笑みを浮かべるウツワノは、絶句するエリアスの様子をまじまじと眺めてから、顎に手を当て処遇を思い倦ねていた。


 エリアスもその氷のような眼光に射竦められ、ウツワノの残忍酷薄さを思い知らされると同時に、危急の事態と悟った。





 その日の夜、箱庭で陽を寝かしつけたエリアスが、しわしわの老婆の手を優しく摩りながら語り掛ける。


「陽の住む世界は美しい物で溢れているのに、陽はずっと寂しかったのね」


「ずっとここで眠っていてもいいのよ。私が見守っているわ……」


「箱庭は貴女の理想の世界なのよね?ここで最期を迎えるのも悪くないと思うわ。私ならきっとそうする」


「…………もう起きないで陽…………起きなくていいの……私もすぐ後を追うわ」


「秘密を知りすぎた私は殺される……だから貴女の気配が残る此処で私も……」




 エリアスは老婆に縋るよう懇願し泣き明かす。








 浅い呼吸で意識を取り戻した老婆は、見慣れた狭い部屋の照明器具と天井を見つめていた。


 部屋で転んで大腿骨を骨折した老婆は、頭も打って朦朧としていた。

 そして様子を見ようと横になったきり、そのまま起き上がれず痛みで気絶を繰り返し、寝たきりになっている。


 定期訪問の市の職員は生憎転んだ日の午前中に来たばかりで、次の訪問は一月先だ。


 束の間見る夢のお陰か、痛みも感じられなくなってきて、殆ど目覚める事も無くなった。


(これでいい……次はもうここでは目覚めない)




 忌野の際に老婆ははっきりと屋敷の存在を認めた。








 そうしてどれ位経ったか……

 泣き疲れて放心したエリアスが伏せた顔をゆっくり上げると、寝ている陽を見下ろし立っているもう一人の陽が居た。


『エリアスさん、何だか子供みたいで可愛いわ』


「陽……駄目よ起きないで」


『私は貴方が思うような優しいお婆さんじゃあないのよ。悲しんでくれるのはありがたいのだけど。

 孤独を受け入れたのは私自身の弱さから……惨めなのは仕方の無い事だわ』


 陽は諦めの中に決意を秘めた声色で頬笑む。


『でもね、失うものがないとねぇ……段々怒りがこみ上げてくるの』


 今度は中年期の失意で鬱々とした恐ろしげな声色を利かせ、顔を手で覆って苦し気にする。


「陽?」


 陽の激しい感情の起伏に、エリアスは涙も引っ込んで焔のように揺らめく陽の姿を見つめる。


『待ってなさいエリアス。死ぬのは私がウツワノとやりあってからでも遅くはないでしょう?

 怖いなら箱庭に閉じ籠っててもいいのよ』


 安定しない陽の精神は、次々と年齢を変えて姿を現す。


「貴女本当に陽なの?」


『そうよ。がっかりさせちゃったかな』


 答えられないエリアスを気にせず、陽は消え行く間際に言葉を残す。


『箱庭の明かりを点けておいて!それを目印にして行くから』





――――――――――――――――――――




 現実の世界では、老婆の孤独死が発見されるが、事件性もない為ひっそりと処理され誰の記憶にも残らずに忘れられる。


 唯一担当職員が気になったのは、あんなに物に囲まれ溢れていた部屋の筈が、生活家電と最低限の家具に衣類といった何の変哲もない独居老人の部屋と持ち物になっていた事である。


 生存を確認する為同時に入った管理人も、かつての部屋を知っていた為二人で首を傾げたが、持ち出されたり荒らされた形跡も無かった事から、事前に遺品整理を行ったのだろうと結論付けた。






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