29 異界からの客~我が儘な客人その2
帝国貴族のブルーノが珍しく機嫌が良かったので気になって、無理矢理聞き出した邸宅への宿泊訪問に興味を持ったクリスは、夢のような日々を期待して着いてきた。
確かに珍しい衣装と舞に、美味しい食事等どれも異界ではお目にかかれない素晴らしいものばかりだが、若い感性のクリスには少々刺激が足りない。
これに女でも付いていればまた通いたいと思えるのだが、芸者達は酒には付き合うが部屋に呼ぶ事は叶わなかった。
プロ意識の高い女はこれだからつまらない。
幇間の助言で機嫌を損ねたら座敷に現れないと言われて引き下がったが、貴族の接待なら女も用意しておけとあの偏屈な男に言ってやりたい気分だ。
ブルーノの顔を立てる為我慢してやるが、あの偏屈な男に気を使うブルーノも気に入らない。
「ブルーノめ。何か秘密でもあるっていうのか。あの男と結託してるというなら調べてやろうじゃないか」
2日目の夜は宴も早々にお開きとなり、ブルーノは昼間の疲れからか早めに休むと部屋に戻った。
一方クリスは一度部屋に戻ったが、呑み足りないと深夜部屋を抜け出し酒を貰いに客間へ向かいつつ、何か秘密はないかと空いてる部屋を見て回る。
「不親切な屋敷だな。この広さなら誰も居ない訳ないだろうに」
台所を覗き、宴で呑んだ酒の残りを見つけ軽く一杯引っかけてから酒瓶を抱えて部屋へ戻る途中、廊下の突き当たりの扉から明かりが漏れており仄かに甘い香りと煙が鼻腔をくすぐった。
「おっと。起きてる人がいるのかな」
クリスがそっと近付き扉の隙間を覗いてみると、女が手招きして煙管を燻らせているではないか。
「呑み足りないんだろう?こっちで一緒にどうだい?」
「それじゃあ失礼して……」
クリスは鼻の下を伸ばして持ち込んだ酒を差し出し、女の部屋で二人じっくり酒を傾けた。
「それにしてもこの甘い香り、その煙草かな?」
「お酒もいいけど刺激が欲しいならこれよねぇ。貴族の間でも流行っているのでしょう?」
女はクリスに口移しで煙を吸わせると、クリスもその気になってすっかり女の成すが儘にされている。
「この屋敷は退屈でしょう?明日も私と過ごしましょう」
「ああ、勿論だとも。素敵な女性に頼まれたなら断る男はいませんよ」
「嘘でも嬉しい……けれどこの事は二人の秘密。誰にも話しては駄目よ?」
「分かったよ。二人の秘密だね」
そうして朝方女の部屋を出たクリスは、何事も無かったかのように自分の部屋に戻り昼過ぎまで起き出す事はなかった。
「クリス、慣れない宿泊で疲れでも出たのか?」
ブルーノが疲れた顔色のクリスに気遣い声を掛けるが、クリスは目だけ爛々としながら上機嫌な様子を見せる。
「まあ慣れない食べ物ばかりだから、酒が進んでなかなか抜けないせいかもな」
「今夜は早めに休んだらどうだ?」
「今日で最後だから問題ないよ。俺の事は気にせずブルーノは楽しむといい」
「もし具合が悪くなったら遠慮せず言うのだぞ」
「分かってるって」
ブルーノの心配を余所に、昨日まで退屈そうであったクリスは終始上機嫌であり、陽や芸者集の姐さん達に絡んでいたのも止めて妙に態度も大人しい。
更には付人達まで労い出し、荷物から上等な酒を出して振る舞う等まるで人が変わったかのようで、普段辛く当たられる付人達は暇を貰って感激しながら屋敷で寛いでいた。
「ウツワノ、何かしたの?」
「ウツワノさん、まさか……」
クリスに付きまとわれ困っていた陽と、それを警戒し見守っていたエリアスの二人は真っ先にウツワノを疑った。
「知らないね。屋敷で大人しくしてくれるなら変でも結構。ブルーノもやりやすくていいだろう」
「クリスもここが気に入って、心を入れ換えたのかも知れんな」
クリスの態度にヒヤヒヤしていたのは皆同様で、良い変化なら歓迎だという意見で纏まる。
楽しんでる筈のクリスの目の下には隈が出来、一日で少しやつれた気もするのだが、彼自身が触れて欲しくない雰囲気を出すので強く突っ込めなかった。
そうして再び夜が訪れると、宴の途中でトイレに立ったクリスがいつまで経っても戻ってこない。
ブルーノが心配してクリスの部屋に確認へ行くが、クリスは居らず部屋は真っ暗であった。
何事かと慌ててウツワノに報告するも、調べた限り外に出た様子もないという事で朝まで待つ事になった。
ブルーノは責任を感じて固い表情で座り直すが、ウツワノは顔色変えずによくある事だとつまらなさそうに答えるばかりである。
「心配することはない。外に出てないなら朝には戻ってくるさ」
「ブルーノさん、私も屋敷に寝泊まりしているけれど、ここは安全な場所なのよ」
ウツワノとエリアスがブルーノを気遣い声を掛ける。
「悪意を持って彷徨かなければ何も起こらないさ」
意味深なウツワノの言葉に再び沈黙が流れた所で、宴を仕切る幇間がブルーノの傍へ寄って景気付ける。
「宿泊最終日、しんみりするのは性に合わない。どうせ待つなら、呑み明かしましょう!」
幇間の手拍子を合図に芸者集がお座敷遊びにブルーノを誘い込み、再び宴の賑やかさを取り戻していくと、皆朝まで宴の席に付き合うのであった。
クリスは宴の途中にも関わらずトイレを装い席を立つと、待ちきれないとばかりに女の所へ向かっていた。
目当ての扉を見つけて意気揚々部屋に入るが、何だかいつもと様子が違う。
「おーい。ちょっと早いけど来たぞお!」
クリスが声を掛けるが誰も出てくる様子がない。仕方なく出直すかと再び振り返ると、開けた筈の扉が消え失せ目の前は壁になっていた。
「何だ!?」
壁を確かめるようにペタペタと何度も触るが、やはり扉を見つける事は出来ない。
すると背後からずるずると何かを引き摺る音が聞こえてきて、クリスは振り返れずにじっと壁に置いた手を見つめて固まった。
「招いてないのに入るからこうなるんだよ」
大きな影がクリスを覆うと、横から見慣れた女の顔がぬっと現れ振り返ったクリスは再び固まる羽目となる。
女の腰から下がムカデの姿となっており、引き摺る音の正体は下半身のソレであったのだ。
「は……ひっ」
「静かにおしっ!亭主にバレたら食われちまうよ」
昨日一緒に呑んだ時は普通の人間だった女がムカデ女と知り、クリスは吐き気を抑えて口を塞ぐ。
「亭主は鬼だから人間が好物でねえ。バレたくなかったからこの瓶の中に隠れとくんだよ」
ムカデ女が指差す空の瓶の隣には、頭部と髪の毛がはみ出た瓶が置かれており、クリスは竦み上がって躊躇するが、ムカデ女はぐいぐいとクリスの頭を押さえつけて瓶に押し込もうとする。
間もなくずしんと大きな音がして、ムカデ女が慌て出す。
「早くしな!亭主が帰ってきたよ!」
クリスが覚悟を決めて瓶に飛び込むと、ムカデ女は上から蓋を被せ鬼の亭主を出迎えに行く。
クリスは狭い瓶の中、鬼の亭主にバレないよう息を潜めてじっと待つ。
「何だか旨そうな匂いがしないか?」
「あぁ、屋敷で宴をしていてお零れを頂戴してきたんだよ」
「そうかそうか、ならば浸けた酒も呑もうかのう」
両手を擦り合わせ瓶に近付いてきた鬼の亭主の足音に、クリスは心臓が痛くなる程早まっていくのを感じてぎゅっと身を縮ませた。
鬼の亭主が歩くたびぐらぐら揺れる瓶の隙間から見えたのは、隣の頭部と髪の毛がはみ出た瓶から枡で酒を掬う太い腕に黒い爪。
更に酒と腐臭が隣の瓶から漂ってきて、クリスは吐き気を堪えるのに精一杯だ。
その後も鬼の亭主は何度も隣の瓶から酒のお代わりに現れ、クリスは我慢出来ずに吐いた吐瀉物にまみれつつも狭い瓶の中でじっと耐えるしかなかった。
そうしてどれ程時間が経ったか意識が途切れ途切れになっていると、鬼の亭主の地響きのような鼾が聞こえてきて、ようやく寝たのかとクリスも気付く。
「二度と勝手に来るんじゃあないよ」
そろそろと静かにやって来たムカデ女が、瓶を覗いてクリスに告げると、クリスは何度も頷き懇願の目で見上げた。
そのまま瓶を倒すとクリスは大人しく瓶から這い出てきて、ムカデ女は黙って壁の穴を指差した。
クリスは腰の抜けたまま這って逃げ出し、這々の体で穴を何とか潜り抜けると、そこは見慣れた屋敷の廊下であった。
クリスは恐怖と安堵で振り返れずに、震える体のまま廊下にへばり付くように倒れてそのまま気絶した。
朝まで宴を続けて床やソファーに転がる死屍累々の面子を横目に朝の支度に起きてきた陽は、2階の廊下で気絶している吐瀉物まみれのクリスに驚き悲鳴を上げた。
その声に飛び起きた面々がようやくクリスを見つけてひと安心すると、ブルーノとクリスの付人が着替えさせてベッドに寝かせた。
念の為に漢方医の白澤が呼ばれ診察をし、疲労と衰弱以外は問題ないという事で、一晩中クリスはうなされていたが翌日は歩ける位に回復すると、壁を指差しここに部屋があった筈だとウツワノに食って掛かっていた。
皆がそこに部屋は無いと伝えると、異常に怯えて逃げるように屋敷を去って行った。
人騒がせな客人に振り回された面々の中、ウツワノは屋敷の外に出ると床下隙間に上等な酒と菓子を供えていた。
「屋根裏か床下辺りに連れ込まれたんだろうなあ。迷惑な奴だよまったく」
くれぐれも招かれた客人は無闇に屋敷を彷徨かないようにと、良い教訓になったであろう出来事であった。




