くすぶり。
「このまま、あなたをここに住まわせてあげてもいいわよ」
昼に食べたのと同じスープと、切り分けたパン、小麦粉で全体を包んでバターで炒め、塩コショウをまぶしたムニエルのような魚料理。
魔法灯というらしい、天井に吊されたランタンの明かりの下で、湯気を輝かすそれらの料理が並べられた食卓に着くと、開口一番、エリザベートが言った。
「はい?」
結局あれからずっと、日が沈むまで人々の輪の中から出してもらえず、ひたすら皆の小さな日々の反省に相槌を打たされて、学校へ行って塾で勉強をした帰り道と同じくらいにくたびれていたイタルは、初め、エリザベートが何を言ったのかよく解らなかった。
そういえば、明日のことは全く何も考えられないまま、あっという間に夜になってしまった。そう思いつつも、悩むのも億劫なほどに疲れ果てていたイタルは、幻聴でも聞いたかなと思いながらエリザベートを見る。
「今、『このまま住まわせてあげてもいい』って……?」
青色をした硝子のコップに、緑色の一升瓶から赤ワインらしき飲み物を注ぎながら、ええ、とエリザベートは頷き、
「でも、それはちゃんと働くことが前提の話よ。働いて、私たちに利益をもたらしてくれるのであれば、ここに住んでもらって当然構わないわ」
「そ、それはもちろん……。でも、俺はまだ仕事なんて見当もついてないし、第一、どこで見つければいいのかも……」
「別に仕事探しなんてする必要はないでしょう? あなたが今日やっていたことを、そのままやればいいのだから」
「今日やっていたこと?」
「みんなの相談に乗っていたでしょう? それを仕事にして、お金を稼ぐのよ」
「「え」」
と、イタルとコーディリアの声が重なる。エプロンを外しながらイスに座ったところだったコーディリアもまた、唖然としたように口をポカンと開けてから、
「も、もうエリったら、何言ってるの! そんなのバチ当たりだよ! ご、ごめんなさい、天使様! エリはたぶん冗談で――」
「冗談などではないわ、本気よ。たとえバチ当たりであろうとも、お金を稼がなければ私たちは生きていけないのだから、そんなことには構っていられないの。――ねえ、どうかしら、天使サマ? これはそっちにとっても、そう悪い話ではないと思うのだけど」
エリザベートはにこりと目を細めるが、その笑顔はオフィス街が似合いそうなほどビジネスライクで表面的である。しかし、エリザベートの言うとおり、イタルにそれを断る理由などない。むしろ、これは願ってもない話なのだった。
「はい、少し驚きましたが……俺は別に構いませんよ。本当に商売になるのか解りませんが、それでもいいのなら……」
「本当にいいんですか? いくら天使様でも、勝手にそんなことをしたら……」
「や、やっぱり、神様に怒られるかな」
「それもありますけど、もし教団に目をつけられたりしたら、どうなるか……」
「その時はその時よ」
そうエリザベートはパンをちぎりながら、傷痕の走る右頬に笑みを浮かべる。
「その予兆は必ずあるはずだし、それを見逃さなければ大丈夫。別に、どうしてもこの街に留まり続けなくてはいけない理由などないのだし、その時は風のようにここを去るだけの話よ」
「……エリ、本気でそう言ってるの?」
「ええ、もちろん」
そう飄々と答えるエリザベートの真意を見抜こうとするように、コーディリアは目つきを険しくしてエリザベートを見つめる。が、エリザベートは涼やかな微笑を崩さず、コーディリアはやがて根負けしたように悄然と目を落とす。
「わたしは……この街にいられなくなるのなんて、イヤだな。これから生活がどうなるかなんて何も解らないし、いつかはここを出ていくのかもしれないけど……それでも最後はこの街に……たくさん思い出があるこの街に戻っていたいと思ってるよ。エリは違うの?」
「私だってそう思わないでもないわ。けれど、過去や思い出に縛られて殺されるなどという選択をするつもりはないの。確かに、私ひとりならばそれも構わないかもしれない。でも、私には守るべきものがある」
「…………」
夕食に全く手をつけようとしないまま、コーディリアは太ももの上でギュッと拳を握り締めて俯く。言いたいことがあるがそれを懸命に堪えるように、硬く唇を引き結ぶ。
重苦しい空気に包まれた食卓で、イタルは二人の顔をただ見比べることしかできない。だが、どう考えてもこの空気の原因は自分にあるのだから、ただ黙って座っているというわけにもいかない。
「ま、まあまあ、二人とも……なんていうか、まだそんな大ごとになるって決まったわけでもないんだし……大丈夫、俺は二人に迷惑をかけるつもりなんてないよ。もし何か危ない雰囲気になったら、二人は俺に騙されてたとか、そういうことにすればいいんだから」
「えっ? そ、そんなのはダメです! 天使様を悪者にするなんて……!」
「いや、それくらい別に構わないよ。コーディリアさんとエリザベートさんがちゃんと俺のことを知っててくれるなら、それで俺は充分だよ」
「へぇ、なかなか男前なことを言うじゃない」
酒をぐっと一口、飲み下してから、エリザベートはまるでもう酔いが回ってきたかのように艶っぽい目をこちらへ向ける。
「実を言うと、私、商売とは無関係に、あなたにはそういう男らしいところも期待しているのよね」
「え? お、男らしいところ……?」
それはつまり、まさか……。そう生唾を飲むが、それは儚い期待であった。エリザベートは酒を注ぎ足しながら、
「ええ、私は魔法を使えるから身の危険を感じることなんてそうないけど、男がひとり家にいるだけで、やっぱり安心感は違うものよ。それが天使なら尚更ね」
「あ、ああ、そういう意味……」
思わず呟いたイタルに、エリザベートはニヤリと笑い、
「どういう意味だと思ったのかしら? 言っておくけれど、もしリアに妙なことをしようとしたら、本当に切り落とすわよ」
と、右手の人差し指と中指でハサミのような形を作り、その刃を閉じる。
一体、何を切り落とすというのだろうか。エリザベートの指が確かにハサミの刃に見えて思わず一瞬、息を止めると、それが面白かったようにエリザベートは上機嫌に笑う。どうやらエリザベートは、酔うとういわゆる笑い上戸になるらしい。
だが、コーディリアをちらと見ると、その表情はまだ思い詰めたように暗かった。胸の前で手を合わせて「いただきます」と小さく呟いてからも、まるでその胸の裡で密かに怒りをくすぶらせているように、その目はじっと下を向き続けた。
食卓に覆い被さった重い空気は結局、皆が食事を終える頃になっても晴れなかった。ただ一人、顔を火照らせたエリザベートだけが楽しげに微笑んでいたが、その微笑もどこか嘘っぽく、寂しげに見えた。




