何もしない。何もできない。
「ふあ……」
何もすることがない。
狭い路地に面した聖殿の玄関前に座りながら大あくびをして、イタルは涙に滲んだ視界を長閑な青空から下ろす。
「…………」
土の路地を挟んで目の前にある一階建ての住宅、その壁に張りついて動かない、タニシのような形をした貝殻をじっと見つめる。
これからどうすればいいのか。いくら考えても、全く解らない。
それを決めるために街を散策してみたいところなのだが、まだ自分を泥棒か何かと勘違いして捜している人がいるかもしれない以上、この路地の入り組んだ貧民街からは安易に出ることができないし、迷子になってしまいそうだから、この中を歩き回ることもできない。
つまり、何もできない。お手上げである。
だから、半ば自棄になったような気分で、イタルは先程から青い空に浮かぶ白い雲と、壁に貼りついて動かない小さな巻き貝を交互に見つめながら、遠くから聞こえてくる気がする海鳴りの音に耳を澄ましているのだった。
が、ふと目の前に影が落ちた。ん? と顔を上げて、ギョッとする。
「うーん……?」
袖なしのシャツと半ズボンという涼しげな格好をした巨漢が、じっとこちらを見つめて立っている。頭にねじりハチマキを巻き、顔の下半分を髭で埋め尽くしたその男は、意外に円らな瞳でまじまじとこちらを見下ろし、
「あんた、誰だ。見ない顔だが……」
「え? あ……お、俺ですか?」
男の丸太のように太い腕と、その髭面に圧倒されて、イタルは思わずビクビクとしながら訊き返す。男は目をクリクリさせてこちらを見つめ、
「ああ、そうだ。お前以外に誰がいる」
「俺は、その……て、天使みたいなものです、いちおう……」
天使? と、男はパチパチと瞬きして、それからハッと息を呑むと、診療所のほうへ大砲のような大声を飛ばす。
「おーい、大変だぞぉ! リア、リア!」
「え? は、はーい! なんでしょう?」
急病人でもやってきたと思ったのだろう、コーディリアが慌てた様子で診療所の待合室の窓から顔を出す。が、男は人差し指でイタルを指しながら、暢気な大声で言う。
「この男、天使だそうだぞ。リアに用があって来たんじゃないのか?」
「あ、ああ……いえ、そういうわけではないみたいです。さっき一緒にお昼を食べて、色々お話をさせていただきましたが……」
「そうなのか? しかし、リアが天使と認めてるってことは、この男は――あ、いや、この方は本当に天使様で……」
と、男はその巨体をどこか小さくしてギコチなく笑いながら、じりじりとイタルの前から後ずさる。イタルは首を傾げ、
「どうしたんですか?」
「いや、その……やっぱり怒られるのかと……」
「怒るって、どうしてですか?」
「いや、今なんて天使様にこんなに馴れ馴れしく話しかけちまってるし、しかも、実は……まあ、天使様に隠し事なんてしたって無駄なんで白状しますが……昨日、ちっと酒を飲み過ぎちまいして……」
「はあ、酒を……」
それで? というか、自分はなぜこんな打ち明け話をされているのだろうか? 何もかも不思議に思いながら男を見上げていると、男は拍子抜けしたような顔をしながら、猫背にしていた背を起こし、
「な、何も、俺を叱らないんで……?」
「なんで俺が叱るんですか?」
「だって、あなたは天使様で……」
「ああ……いや、確かにそうですけど、別に叱ったりなんて……。何しろ天使になりたてで、まだ何もかもよく解っていないし……。それに誰だって、たまには酒に酔いたい日があるものでしょう。俺はまだ酒が飲めないのでよく解りませんけど……」
「はあ……つ、つまり、天使様は俺をお許しいただけるんで?」
「え? ええ、まあ……」
「じゃ、じゃあ、アタシは!?」
呆然としたような顔で佇む男を怪訝に見上げていると、その背後から、腰にエプロンを巻いた恰幅のよい中年女性が姿を見せ、その胸の前で両手を組みながら言う。
「アタシ、ここのところ忙しかったもので、その……ここもう半年くらいはファーテルへのお祈りをなんにもしていなくて……やっぱり、アタシはもうファーテルに罰せられてしまうのでしょうか?」
「さ、さあ、どうでしょうか……? 別に、そんなことはないような気がしますけど……」
気づくと、男と中年女性以外にも四、五人ほどのほどがイタルを囲むようにして集まってきていた。そのどの顔も、まさに天罰を恐れて恐怖しているように顔を強張らせていたのだが、イタルの今の言葉を聞くや、ホッと息をついて眉間と肩から力を解く。
「ほ、本当ですか? ファーテルは怠惰なアタシのことを怒っておられないでしょうか?
だって、聖律にはこう書かれてあるんですよ? 『毎日、朝起きた時と夜眠る前に必ずファーテルへの感謝を捧げよ。それを怠る者はファーテルの怒りを買い、やがてこの世のあらゆる災いに見舞われるだろう。』って……!」
「あ、あらゆる災いに……?
いや、そんなことはないと思いますよ。少なくとも、俺が見た神は、そんなことをするような人――じゃなくて、えーと、なんていうか……存在には見えませんでした。
確かに、約束事を破るのはよくないかもしれませんけど、ここの人たちは『メルの災厄』のせいで、今でもいろいろ大変みたいですし……本当の神なら、そんな人たちに対して怒ったりなんてしないはずです」
「じゃ、じゃあオレは!?」
と、イタルを囲む小さな人の輪、その奥にいた少年が手を上げて、丸刈りの頭を輪の中へ突っ込んでくる。
「オレ、昨日、メシを食い過ぎちまったんだ。なんか昨日はイライラしちまってて、それで死ぬほど食いまくって、ゲロ吐いて……」
「う……そ、それは……まあ、これからは気をつけたほうがいいかもね。胃に悪いし、食べ物が勿体ないし……」
「そ、そんだけなの――じゃなくて、そ、それだけなんですか?」
と、少年が土で汚れた顔をポカンとさせる。
「それだけ、って?」
「い、いや、なんつーか……オマエ――じゃなくて、あなたは本当に天使様なんですか?」
少年がそう問いかけてくると、周囲にいた人皆が息を詰めるようにして押し黙り、怯えたような瞳でじっとイタルを見下ろした。イタルはその視線に戸惑いながら、
「は、はあ……たぶん、そうだと思いますけど……」
「ああ、たいそう偉い神官様の血を引くリアがそう言うんだから、間違いねえよ。俺も、天使様ってのはもっと恐ろしいもんだとばっかり思っていたが……」
筋骨隆々としたひげ面の男が皆を見回しながら言う。中年女性はそれに深く頷き、
「アタシも、ひょっとしたら今すぐに地獄に落とされるかもしれないって……」
「だ、だから、そんなことなんてしないですって」
同じ誤解の繰り返しに、半ばウンザリしながらイタルは首を振り、
「第一、俺だって何もしたくない日だってあるし、やけ食いしたくなる日だってあるし……それでもこうして天使になれてるんですから、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。たぶん、本当に悪いことさえしなければ」
おお……。と、ざわめきが人垣の間に広がる。
「天使様が許してくださる、我々のことを許してくださる……!」
そう囁き合い、感動したような表情を顔に広げながら目を見交わし合っている人たちを、コーディリアは診療所の窓から呆然と見つめていた。
――違う……そんなはずはない。それはファーテルのお言葉ではない。
コーディリアは今すぐにそう言って、皆に広がる驚きを止めたい衝動に駆られたがしかし、同時に微かな胸の高鳴りを感じていた。爽やかな風が背中から胸へと突き抜けていったような、そんな感覚に胸を浚われていた。
ファーテルは決して堕落を許さぬ神だ。悪徳を許さぬ神だ。人を罰する神だ。怒りの神だ。自分はそう教えられて育ち、それを当然として疑いもしなかった。
許す? 神が、人を許す? そんなことはありえない、あるはずがない。
そう怒りに似た感情を覚えるがしかし、決して信じることのできないその言葉を口にしているのは天使なのだった。皆には見えない、青と白の入り交じる眩い輝き――エーテルをまるで衣のようにその身に纏う存在なのだった。
「リア……ちょっといいかい」
人と人の合間から微かに見える、困ったように笑うイタルの横顔に呆然と視線を掴まれていると、不意に後ろから声をかけられた。診療所の常連である老年の男性が、腰を曲げながら背後に立っていた。
「はい、なんでしょう?」
慌てて笑みを作りながら尋ねると、男性は心細そうな目でチラチラとこちらを見て、
「実は、俺の友人が三日前に死んでしまって……」
「え……?」
「それで、色々と処理はしてやったんだが、金が……なくてな、まだ弔いの儀式は何もしてやれていないんだ。悪いが、リア……それをやってやってはくれんだろうかな」
男性は、まるで罰を受けるのを恐れているような不安げな目でこちらの表情を伺う。
その影の深い、虐げられ続けた者の眼差しを前にして、コーディリアは思わず息を呑む。石を呑まされたような、そんな苦しさが胸を締めるのを感じた。
「……そ、それは……あの……ごめんなさい」
目を伏せ、どうにか声を絞り出して言う。
「わたしには……できません。わたしは神官ではないですから、勝手にそういうことするのは……」
「……そうかい。いや、悪かったね。無理を言って……」
男性は空虚な笑みを浮かべて、膝を痛そうに引きずって診療所を出て行く。イタルがいるのとは別の方向へと、その足から伸びる影を重い棺のように引きずって去っていく……。
――自分はここで何をしているのだろう。自分はこの街で、何になろうとしてきたのだろう。
痛みに似た思いが胸を刺す。賑やかな笑い声が起こるのを聞きながら、コーディリアが男性の後ろ姿を目で追い続けていると、
「へえ……あの天使サマ、ちゃんと働いているじゃない」
裏口のほうから歩いてきたらしいエリザベートが、気づくと、窓の外、すぐ左に立っていた。皮肉めいた微笑を浮かべながら目を向けているその先には、イタルを中心にできている人の輪がある。
傷跡が痛々しく残ったエリザベートの右の頬をちらりと見つつ、コーディリアは、うん、と小さく頷く。それから男性のほうへと目を戻すと、既にその姿は入り組んだ路地の向こうへ消えていた。




