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天使は光芒路を歩む  作者: 茅原
レッド・ストリング
15/17

朝凪ぎ。

 干し肉、パン、塩漬けのベトラ。

 

 まだ開いたばかりの市場で、コーディリアはリュックが一杯になるほどそれらを買い込むと、自分と同じく出立前の買い込みに来ているらしい人々で賑わうその路地の端へと一旦移動して、買い込んだ物を適当に突っ込んだリュックの中身を整理しに取りかかる。

 

 目指すはソレンブル帝国の首都、ル・サントル。ここリヴェラからル・サントルまでは、馬を三度乗り換えても、およそ一日はかかる距離だと言われているのを聞いたことがある。ということは、おそらく歩けば二週間ほどの旅になるだろう。


 厳しい旅になることは解っている。しかし、道中には街や村もあるから、疲れた時はそこで休めばいい。街で演奏をしてコツコツと溜めておいたお金は、これから毛皮のマントを買ってもまだいくらか余裕がある。

 

 ここリヴェラを出て一日ほど歩いた場所に、イサノ人の村があると言われている。とりあえずはそこまで無事に着くことができればいい。肩が外れそうなほど重いリュックを背負い直し、母から譲り受けた楽器であるエリープのケースを持ち直すと、コーディリアは毛皮売りの店へと向けて歩き出す。

 

 ――これ以上、エリに迷惑はかけられない……。

 

 彼女のもとを離れるのは、当然のことだが寂しい。

 

 隣家に住んでいたエリザベートとは物心ついた時から一緒に遊び、楽しいことも、辛いことも、イヤというほど二人で分かち合ってきた。そして、それはメルの災厄に襲われ、二人で暮らし始めてからも変わらなかった。例え貧しくても、二人でいられたから毎日が楽しかった。でも、このままではいけない。


 エリザベートが母の最期を看取ったことは知っていたが、その遺言を受けて自分と暮らしていたことなど、全く知らなかった。自分はただ暢気に、自分とエリザベートはこれまでずっと傍にいたのだから、今も、これからも傍に居続けるだけなのだと思っていた。

 

 エリザベートは自分を重荷に感じたことはないと言っていた。

 

 確かに、エリザベートが自分を鬱陶しく感じていたとは思わない。きっと彼女も自分と同じように、二人での生活を楽しんでいた。しかし、全くこちらを重荷に感じていなかったとは思わない。その感覚は着実に、精神的にも肉体的にもエリザベートを摩耗させている。それは間違いない。

 

 そして、こちらを負担に思うその感覚は、きっとエリザベートの中でこれからどんどん大きくなっていくだろう。

 

 コーディリアさえいなければ――。

 

 いつかはそう思うことさえ、あるかもしれない。

 

 そう想像するだけで、コーディリアは目の前が真っ暗になるような感覚を覚える。今、この世で誰よりも大切な存在であるエリザベートからそのように思われるくらいなら、いっそ死んでしまったほうがいいとさえ思う。

 

 だから、自分は今日、この街を出て行く。


 内側に黒いごわごわとした毛皮が縫いつけられたマントを買い、それを店の前で身につけてから市場を後にする。このまま海沿いの道を通って街を出ようかとも思ったが、その前にとある場所へ寄っていくことにした。

 

 足を北へと向ける。すると、道はすぐに海沿いに出る。

 

 朝凪ぎの頃合いだからか風はなく、見えるのは穏やかな海である。水平線あたりがほんのわずかに白みを帯びているが、まだ空も海も眠っているように黒々として、引いては返す波の音も間延びしたように緩やかだ。毛皮のマントがとても暖かいせいもあって、思わず眠気も起きてくる。


 しかし、そのまましばらく歩いて通りかかった港には、まだ陽も上らないというのに市場よりもたくさんの人の姿があった。

 

 釣り上げてきたらしい魚の網を背負いながら市場のほうへ向かう男たちや、埠頭に横づけした小舟の上で、網の中から魚や貝を取り出して仕分けしている男たち、あるいは埠頭の上で火を囲みながら酒盛りをしているらしい男たち……。


 今まで十三年、この街に住んでいて見たこともなかったその生活の景色を眺めつつ海岸沿いの道を通り過ぎ、さらに北へと向かって歩き続ける。

 

 やがて空気の色が濃い藍色を帯び始めた頃、道は坂になり始め、そのあたりから住宅がひしめくように並び出す。

 

 三年前は瓦礫と流木、様々な生き物の死体で地獄のような風景になっていたこの地域も、既にその面影は全くない。街は平穏に満たされながら、まだ明け切らぬ夜の中で静かに眠り続けている。

 

 まだ坂を登る。すると、密集していた家々の間隔が開きだし、庭を持つ家が等間隔に並び始める。この辺りは裕福な人々の暮らす地域で、そのため復興も早かった。


 しかし、姿は戻っても、その中身は様変わりしている。一家の大黒柱を失ってここを出ざるを得なかった人は、コーディリアやエリザベートのほかにも大勢いたのだった。

 

 そのうちのある一軒の家の前で、コーディリアは足を止める。

 

 腰の高さほどしかない、以前はもっと高かった気のする鉄門の前に立ちながら、しんと寝静まっている一軒の家……。

 

 ほんの三年ぶりに見るその家は、自分が昔住んでいた頃と何も変わらない。窓や玄関、庭の片隅、左隣に建つエリザベートの家との間にある、幼い子供にとっては立派に見える石の塀。どこを見ても、何かしらの思い出が自然と蘇ってくる。

 

 その思い出に捕らわれたように朝靄の中で佇み続けていると、その家の扉が不意に開き、召使いらしい女が箒を持って姿を見せた。その見知らぬ顔とふと目が合い、コーディリアは慌ててその場を後にする。

 

 ここはもう自分の家ではない。

 

 解り切っていたが、これまで自分はそれをこの目で確かめるのが怖かった。だから、ここへは一度も足を向けたことがなかった。

 

 しかし、今日はどうしてもこの場所を見ておきたかった。ひょっとしたら、今日がこの街の土を踏む最後の日になるかもしれなかったし、何よりも背中を押してほしかった。自分をこの街から、この場所から突き放してほしかった。

 

 その希望どおり、コーディリアは躊躇うことなく足を先へと向ける。

 

 程なく住宅街を抜けると、道は先程までよりもずっと急激な坂となる。衛兵の通る道であるため石畳で整備されてはいるが、うねりを繰り返すその細い急坂を上るのは、コーディリアにとって過酷であった。


 それでも、休むことなく額に汗かきながらその坂を上り続けると、やがて道が一旦、平坦になる。そこは坂を上ってきた人たちが休息を取るための小さな広場で、中心には水を飲むための小さな噴水がある。

 

 コーディリアは一旦、その噴水脇にリュックと楽器ケースを置いて喉を潤し、それから広場を横切り、ちょうど街を見下ろせるようになっている低い石塀の前に立つ。

 

 眼下には、自分が今上ってきた坂道があり、その向こうでは下に向かうほど複雑に密集する家々が、そしてそのさらに向こうには、だいぶ白み始めた空の下、まだ黒くぼんやりとしている内海が、薄く朝靄を纏いながらじっと静かに日の出を待っている。

 

 内海を囲むようにして広がっている街、ここから見てそのやや右手のほうに、他の建物よりも一際高い塔がある。そこは、昔、父が神官として務めていた、この街の正式な聖殿である。


「……さようなら」

 

 何に対してだろうか、自分でも漠然として解らないままコーディリアはそう呟き、街に背を向ける。そして――


「えっ……」

 

 愕然と目を見開いた。

 

 そこには、肩で息をしながら膝に手をつく一人の男、否、天使がいたのだった。

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