溜息と魔法式。part2
あの時の浮遊感を思い出し、線を引いて輪郭を与えるようにその感覚を掴み出し、掴み出したそれを胸の前へ差し出すようにして自らの外へと押し出す。
すると、ふと右前方の方角に光の筋が走った。その白い光の筋は、まるで暗闇の中に細い川を作っていくようにうねりながら、その先にある、とある正五角形の頂点へと向かっていき――やがてそこに達する。
今だ。そう目を見開いた瞬間だった。
「う――とわっ!?」
やや体重を後ろへかけながら握っていたロープが、急激に軽くなった。直後、水を一杯に入れた桶がロケットのような勢いで上がってきて、その真上にある滑車に直撃、激しい衝撃音を立てながら周囲に水を撒き散らした。
「え……!? な、なん……!?」
地面に尻餅をつきながら、イタルは打ち上がった桶を呆然と見上げる。これは魔法なのか? そう困惑して二人を振り返るが、
「そんな……!」
コーディリアはイタルよりもさらに驚いたような表情をその顔に広げ、戸惑ったようにエリザベートへ目を向ける。エリザベートもまたコーディリアと同じように目を白黒させながら、
「あ、あなた……魔法は使えないんじゃなかったの?」
「はあ、そのはずですけど……」
「けれど、今、確かにレビテーションを……」
「レビテーションって……なんですか?」
「簡単に言えば、物を浮かせる魔法よ。『木』の属性を持つ魔法で、風にエーテルを含ませて、そのエーテルを介して空気を操ることで浮力を――って、そんなことはどうでもいいの。あなた、どうして名前さえも知らないような魔法を使えるのよ?」
と、目を異様に光らせながら歩み寄ってくるエリザベートに恐怖しつつ、イタルはこぼれた水が広がってくる地面から慌てて立ち上がって答える。
「い、今のやつは、その……今日、二人と会う前に、街で知らない人にかけられた魔法を思い出してみたら……なんか、できちゃいました。身体が感覚を憶えてたっていうか……」
「そんな憶え方……聞いたこともないわ。リアは、どう?」
「わたしも、初めて聞いたよ。だって、魔法は魔法式を使わないと……」
ええ、とエリザベートは頷き、急に医者の顔をしてまじまじとこちらの目を覗き込んでくる。
「あなた……大丈夫?」
「な、何がですか?」
「なんともないならいいのだけど……ともかく、今はあなたをけしかけた私が悪かったわ。ごめんなさい」
「え? ど、どうしたんですか? 別にエリザベートさんが謝るようなことは……」
「いいえ、あなたが知らないだけで、これはとても危険なことなの。あなたは天使だから人とは事情が違うのかもしれないけれど……でも、私が見る限りでは、あなたは普通の人となんら変わりない。
そんなあなたが魔法式を使わずに魔法を使うなんて、あまりにも危険すぎるのよ。いくら天使と言えど、いつかは必ず命を持って行かれてしまう」
「命を……?」
「ええ。だから、いいわね。もう安易に魔法を使ったりはしないと、そう約束をしなさい」
「は、はあ、解りました……」
固唾を呑んだような表情で睨まれ、イタルは従順に頷き、しかし気になって尋ねる。
「ところで、その『魔法式』っていうのは、どうすれば使えるようになるんですか? やっぱり、二人が通ってたっていう学校へ行かないと……?」
「そうね。魔法は命に関わるものだから、独学で身につけたような生半可な知識で使うべきものではないわ。――って、まさに魔法士崩れの生半可な知識で医者をやっている私が言ったところで、なんの説得力もないのよね、そういえば」
と、目を逸らし、居心地悪そうに耳をいじりながら苦笑して、それからエリザベートはこちらへ目を向け直し、
「さあ、それよりも、あと一回水をバスタブへ入れたら水汲みは終わりよ。そして今度は私の仕事。私の生半可な知識の魔法で、一気に水を温めてあげる」
自分には何か、魔法に対する特殊な力があるのかもしれない。
そう解った矢先にその好奇心を打ち切られたことが不満でなくもなかったが、エリザベートとコーディリアが嘘をついているとも思えない。確かに魔法は、浅はかな知識で使うべきものではないに違いない。
イタルはそう納得して、エリザベートの指示に従って水汲みの作業を再開する。井戸へ桶を下ろして水を汲み上げ直し、それを大きな桶へと移し、その桶をえっこらよっこらと風呂場へと運び、バスタブへ流し込む。
「ふぅ……」
一仕事をやり終えた。額に浮かぶ汗を腕で拭いながら、もう片方の手でトントンと腰の裏を叩いていると、申し訳なさそうな顔でつつつと寄ってきたコーディリアが、イタルへ白い手ぬぐいを手渡す。
「あの、天使様、どうぞ先にお風呂に入ってください。汗を掻いたままでいたら、お身体が冷えてしまうでしょうし……」
「いや、俺は後でもいいよ。だって、こんなに汗を掻いた男が入った風呂になんて、二人は浸かりたくないだろうしさ」
言うと、コーディリアはキョトンと首を傾げ、もう既に水をお湯へと変え終えたらしいエリザベートも、湯気だつバスタブのお湯を左手で触りながら目を丸くしてこちらへ顔を向ける。
「あなた、何を言っているの? お湯は一人入るごとに変えるものでしょう? あなたが入った後のお湯に私たちが浸かるって……どういうこと?」
「え? ああ……」
言われて、思い出す。そういえば、風呂のお湯は人が入るごとに変えるのが普通で、家族だからといって皆同じお湯に浸かる日本は特殊であるという話を聞いたことがある。そして、どうやらそれは異世界と比べてみても特殊なことだったらしい。
なるほど、それなら驚かれても仕方がない。言い方が悪かったなとイタルは苦笑して、
「いや、そうじゃなくて、単純に俺は二人が入った後のお湯でも構わないということです。別に、俺は二人の汗とかなんて気にしませんから。なんというか、そういう習慣の国で育ったもので」
「で、でも、誰かが入ったらお湯は泡まみですし、そもそも天使様が入る前のお湯に私たちが浸かるなんて、そんな畏れ多いことは――」
「いえ、リア、そういうことじゃなくて……」
とエリザベートが目つきを険しくしながらコーディリアの言葉を断ち切り、
「やっぱりこの天使サマ、変態なのではないかしら。天使なのは嘘ではないとしても、ここへやってきたのは私たちの裸を見るためで――」
「ち、違いますよ! 本当です! 俺の前にいた所では、家族はみんな同じお湯に浸かったんです!」
「よくもまあ、そんな嘘が咄嗟に――」
「だから、嘘じゃないですって! ね、ねえ、コーディリアさん? コーディリアさんなら、俺の言うことを信じてくれるよね?」
「え? ええ……まあ……」
乾ききった笑みが頬には浮かび、その目は泳ぎながら下へと向いていく。
「そんな……」
きっとコーディリアなら信じてくれると思っていた。なぜなら、これは単なる嘘か真かの話ではないのだ。神や天使についての問題なのだ。信仰の問題なのだ。膝から力が抜け、イタルは思わず壁に手をつきながら、
「コーディリアさんまで信じてくれない。俺は本当に嘘なんてついてないのに……! 俺を天使として信じてくれてるはずなのに……!」
「こんな時にまで信仰を引き合いに出すなんて、インチキ神官みたい」
「…………」
確かに。エリザベートの言葉でハッと冷静を取り戻し、イタルは二人に小さく頭を下げる。
「すみません。取り乱しました。俺は本当に構わないんですが……二人がイヤなら、どうぞお湯は変えてください」
「す、すみません、天使様。ワガママを言ってしまって……」
「別にワガママではないでしょう? じゃあ……そうね、あなたが後でいいと言うなら、先にリアと、それから私が入らせてもらうわ。お湯を変える時には呼ぶから、それまでは部屋で待っていてちょうだい」
「はい、解りました」
ふしだらな願望に駆られてしまったことを恥じて二つ返事で頷き、診察室へと戻って、真っ暗な部屋でぽつんとベッドに――布団が敷かれることはないらしい板張りのベッドに腰かける。
ドアの向こうから、水音と、二人の話し声が微かに聞こえてくる。肌寒さに強く膝を抱えて体育座りをしながら、イタルは深く溜息をつく。
―
―やっぱり、俺はこうなんだ。
自分は臆病な人間だ。いつだって、『一歩』を踏み込む勇気がない。確かにエリザベートの言うとおり、二人と同じお湯に入るために信仰の問題を引き合いに出すのはおかしいかもしれない。いや、明らかにおかしい。
だが、おかしいからと言って、そこで足を止めてはいけないのだ。こうやって常識の中で足を止めてしまうから、自分は何も為せないのだ。生きているのか死んでいるのかも解らない人間なのだ。他人触れることも、触れられることもない人間なのだ。
何ごとにつけても『一歩』が踏み込めない。これまでと何ひとつ変わりない自らの臆病さを、また思い知らされてしまった。
自分が変わらなければ世界は変わらない。
例え異なる世界へ来ようとも、自分を取り巻く環境という意味での『世界』は変わらないのだ。前と何ひとつ変わらないまま、ただ全てが自分を置き去りにして通り過ぎていく。例えどれだけ遠い場所へ来ようとも、こうして一人きり、部屋の中で座っているだけなのだ。
――いや……そうだ。今こそ、今こそ変わるべき時なんだ。
一歩を踏み出す勇気。
それが何よりも大切なのだと再確認した今こそ、自分は踏み出すべきではないのか。一歩を踏み出した先には、どんな世界が待っているのか。それを知らずに一度は命を落としてしまった今こそ、二度とその後悔をしないために踏み出すべきではないのか。
よし、と腹を括り、イタルはベッドから立ち上がる。裏庭へ通じる路地に面した窓をそっと開け、そこに誰もいないことを確認する。
俺は天使なのに、本当にいいのだろうか。その背徳感が、イタルの胸の鼓動を余計に早める。しかし、この異なる世界へ来てまで、孤独に部屋の中で過ごす自分のままでいるのはイヤだという思いが、イタルの背中を強く押した。
中庭に面した風呂場の窓からは、白い湯気と混じり合ったオレンジ色の光がふわりと闇を照らしている。それを見てゴクリと喉を鳴らしながら窓を跨ぎ、その足を路地へ下ろ――そうとしたが、ハッと気づく。
――いや、ちょっと待て。なんで俺はノゾキをしようとしてるんだ。
二人が入った後の風呂に浸かることができないことを悔やんでいただけのはずが、いつの間に自分は大それたことをしようとしているのだ。
二人と同じお湯に浸かりたいというささやかな願望ならまだしも、風呂を覗きたいという願望を抱くなんて異常だ。こんなことを実際にやろうものなら、冗談と許されるはずもない。即刻追い出される。いや、切り落とされる。
「…………」
窓枠を跨いだ足をそのまま部屋の中へと戻し、そっと窓を閉じる。
俺はダメなヤツだ。何もかも、本当にダメなヤツだ。ただ、そんな後悔だけが残ってしまったのだった。




