溜息と魔法式。part1
「そうだ。あなたがここに住むことになったのなら、あなたの部屋を用意しないといけないわね。聖殿のほうでもいいのだけど、あっちにはベッドも何もないし……となると、やっぱりあそこしかないかしら」
とエリザベートに連れられて、昼間は診療所として使われていた部屋へとやって来た。おそらく自分の部屋はここになるだろうと思っていたから、そう驚くこともない。それよりも、もっと別のことに対して憂鬱になりながら、イタルはエリザベートに尋ねた。
「エリザベートさん、コーディリアさんは……俺がここにいるのがイヤなんでしょうか」
「リアが? どうして?」
「いや、なんとなく、というか……」
自分でも、それはないと思っていた。いや、ないと思おうとしていた。だが、自分がここへ来てから、コーディリアとエリザベートの間に妙な空気が流れ出したらしい以上、その原因は自分にあると認めるべきだろう。
部屋の窓は、すぐ目の前にある聖殿の石壁に覆われて、他には何も見えない。その窓の前に立って、すぐ目の前を塞いでいる聖殿の壁を見つめていると、不意にパッと硝子に自分の顔が映る。
机の上にあるランタン――魔法灯に暖色の明かりを点したエリザベートが、机の上にある試験管立てに並べられていた一本の試験官を手に取り、科学者のようにその透明な液体を振りながら、
「それはないと思うわ。何より、初めにあなたをここへ連れてきたのはあの子なのだし……それに、あの子がああして急に黙り込むのは、別に今日が初めてのことではないもの」
「よくあることなんですか?」
「よく……とまでは言わないけれど、そう珍しくもない、というところかしら」
と、エリザベートは試験管を戻しながら机の前のイスに腰かけ、暗い溜息をつく。
「……一体、一人で何を悩んでいるのかしらね。私だけでなく、天使にも相談ができないような悩みって……一体なんなのかしら」
その独り言のような問いは、イタルにとってひどく聞き覚えのあるものだった。よくイタルの母も、こうして途方に暮れたような顔をしていた。
人に理想を押しつけて、その理想が叶わないことを憂いているのだが、その理想が独りよがりな、相手にとっては苦痛以外の何ものでもないとは思いもしていない。そんな人間の顔である。
エリザベートの横顔に自らの母を重ねてイタルはそう思うが、家に転がり込んで一日と立っていない人間からそのような指摘をされて受け入れられるはずもないから黙っていると、やがて、
「さて、じゃあ、お風呂にしましょうか」
気持ちを切り替えようとするように、エリザベートがすっくとイスから立ち上がりながら言う。
「風呂ですか?」
「ええ、一日の終わりはやっぱりお風呂でサッパリしないとね。それで、なのだけれど、準備を手伝ってもらえるかしら?」
「は、はい、俺にできることならなんでも!」
降って湧いたようなその話に、イタルはほとんど反射的に飛びつく。
しかし、どこか解ってはいたが、『妙な気を起こしたら切り落とす』と宣言したエリザベートが、イタルの期待するような状況をわざわざ作ってくれるはずもないのだった。
「ぐっ……!」
イタルを待っていたのは、これまでほとんど経験したこともないような重労働だった。
何杯目かも解らない水を井戸から汲み上げ、大きな桶へ移し、それを二回繰り返してから、大きな桶を家の中にある浴室――と言っても、バスタブがあるだけで他には何もないガランとした部屋――のバスタブへと入れ、再び井戸へと戻って、ひたすら同じことを繰り返す。そんな、過酷な肉体労働である。
「天使様、力持ちなんですね……!」
先程まで裏口の脇で食器を洗っていたコーディリアが、それを終えてからはイタルの背後に立ってこちらを見ていた。その隣にいるエリザベートが監督者のように腕組みしながら、
「いいわよ、リア。もっと褒めてあげなさい。たぶん褒めれば褒めるほど、コレはもっと頑張ってくれるから」
「も、もう、そんなこと言うのはダメって言ってるでしょ、エリ」
と、困ったような様子ながらも、ようやくコーディリアの顔に表情が浮かんだのを見て、イタルだけでなくエリザベートもまた安堵したように微笑する。
イタルは荒縄を握る掌の痛みをどこか快くさえ感じ始めながら、錆びた滑車をキーキーと鳴らして再び水を汲み上げる。
「いや、俺はこれくらいのことしかできないから、いいんだよ……! というか、こういうことをする生活にちょっと憧れてたりしたんだっ……!」
「憧れて、って……まるで、これまでは全く別の世界で暮らしていたかのような言い方ね」
「そうですよ。前は全く別の世界で暮らしていましたし、天使でもなんでもありませんでした」
「天使でも、なんでも……?」
エリザベートが目を丸くする。イタルは笑って頷く。
「そうです。ほんのちょっと前まではみんなと同じで、ただの人間だったんです。なんていうか……ここみたいに魔法はないけど、もっとたくさんの物が溢れた世界で、普通に暮らしてたんです」
「へ、へえ……。私はてっきり、学校で習ったとおり、天使サマはファーテルと共にある存在とばかり思っていたけれど……ねえ?」
エリザベートが唖然としたような顔でコーディリアに視線を向けると、既にイタルからこの話を聞かされていたコーディリアも、まだ驚いている様子でうんうんと頷いている。
「天使サマって、そういうものなのね……」
と呟くエリザベートの言葉を聞きながら、イタルは水が一杯に入った桶を滑車の直前まで引き上げ、その取っ手の部分を掴んで井戸の枠に置き、
「でも、正直に言わせてもらうと、拍子抜けしてるのはこっちだって同じですよ」
そう言って、周囲を見回す。
聖殿、診療所と共にこの裏庭の一辺を塞いでいる、民家の壁。そこに空いた小さな窓からは家の中を照らす魔法灯の明かりだけでなく、家の中を走り回って遊んでいるらしい子供の笑い声と足音が聞こえてくる。
そして、さらに耳を澄ませば、それだけではない。まだ夜になったばかりだというのに、すっかり酔いが回ったように大笑いする男たちの声、旦那を叱り飛ばしているらしい女性の声、一心不乱にノコギリで木材を切っているような音……。
密集するようにして民家が建っているせいもあるのだろう、周囲には人の出す音が溢れ、それに耳を傾けると、そこにある家庭の風景や、そこにいる人の汗臭さが自ずと目に浮かんでくる。
混ざり合い、絡み合いながら届いてくる夕飯の匂いを吸い込み、イタルは思わずしみじみとしながら言う。
「ここにも……人が住んでいるんですよね」
「……? 今さら何を言っているの?」
エリザベートが怪訝そうに眉を顰める。イタルは桶の水を、風呂場へ運んでいくための桶へ移しながら、
「確かに、本当に今さらです。所詮、違う世界だろうがどこだろうが、どこに行ってもそこには人の生活があるんだって……そんな当たり前のことを、俺はここに来てようやく知ったんです」
言って、それから再び井戸の中へと桶を下ろす。
「病気や怪我をすれば医者の所にやって来て、夜は家に帰って家族とご飯を食べたり、友達と酒を飲んだり……ここにある生活は、俺が住んでた世界にあったものと何ひとつ変わらない。どこへ行っても、あるのは毎日の繰り返し……。俺はそのことを、解っているようで、解っていなかった気がするんです」
――異世界に行きたい。
そんなことばかり考えていた自分、『異世界に行けば、ただそれだけで変われる』、そんなくだらない妄想に耽っていた自分。
――なあ、おい。なんて甘ったれたヤツなんだ、お前は。
世界が変わったとしても、自分が変わらなければ何も変わらない。こんな所まで来て、ようやく気づけた気がする。
――まあ、気がつけたからって何が変わるわけでもないんだけど……。
イタルはそう自らを笑いながら、ふと、コーディリアが再び何か思い詰めたような表情で俯いてしまっているのに気がついた。
「コーディリアさん……もしかして、俺がこんな、何もできないし何も知らないヤツだからガッカリしてる?」
「え? い、いえ、全然そういうわけじゃ……! わたしは、ただ……」
と、それきり言葉を途絶えさせ、コーディリアは再び口を閉ざす。
どうやら、やはりコーディリアが悩ませている原因は自分ではないらしい。そう安堵しながらしかし、その顔を再び曇らせてしまったことをイタルが気まずく感じていると、エリザベートも同じことを感じたようで、無理に作ったような明るい笑みを浮かべながらこちらに言った。
「あなた、とても消極的ね。本当に何もできないのか、まだ何も試していないのでしょう? 天使サマなのだから、もしかしたら簡単に魔法が使えたりするかもしれないのに」
「そんなの無理ですよ。空中に文字みたいなのを出して、それで魔方陣を作って……あんなの、生まれて初めて見たんですから」
「『魔方陣』……? ああ、魔法式のことね」
「魔法式?」
「あの文字列と、それを利用して作る五芒星のこと。あの文字は『木』、『火』、『土』、『金』、『水』……それぞれの精霊から力を借りるための言わばお祈りの言葉のようなもので、そしてあの五芒星は、人間が直接触れるには強すぎる精霊の力を防ぐ盾のようなものなの。
つまり、あれは人間が遙か昔から積み重ね、受け継いできた知識の結晶、そのものなのよ」
「へ、へえ……」
そんなものがパッと使えるわけもない。確かに自分は天使なのだから、もしかしたら……と、正直、心のどこかで期待してしまったことが馬鹿らしくなるほど、エリザベートが何を言っているのか、まるで解らない。
だがしかし、とイタルは考える。このまま退き下がるのは天使としても、男としても、あまりに格好悪いのではないか。
美人二人を前にしているせいか、イタルは自分でも珍しく挑戦的になり、水の入った桶を引き上げていた手をそのまま固定して、心を研ぎ澄まし念じてみた。
何を念じればいいのかも解らないが、ともかくギュッと目を瞑って、瞼の裏に広がる暗闇の内に『何か』を見つけようとしてみる。
と、不思議なものがふと目に映った――というよりも、意識に思い浮かんだ。
初め、それは単なる光の残像か何かかと思った。しかし、どうやらそうではなかった。暗闇の中心に見えた一つの白い点……やがてそれは五つに分離、移動し、正五角形を形作るようにその頂点でピタリと静止する。
すると、ぽっかりと穴を開けたその正五角形の中へと意識が引きずり込まれていくように視点がそこへと落ちていき、やがて水面に落ちて浮かぶようにして、五つの光と同じ高さで落下が止まる。
コーディリアとエリザベートが自分を呼ぶ声が、遠く、ぼんやりと聞こえてくる。しかし、振り返ることができない、振り返りたくない。まるで大きな水の渦によって底へ底へと引き込まれていくように、イタルは半ば不可抗力的に意識の奥底へと没入していく。
――魔法……そうだ、昼間にかけられた、あの魔法……。
頭にふと思い浮かんだのは、昼間、この街へ来てすぐ、誰とも知らない人にかけられた、身体を風船のように浮かされた魔法だった。




