その5、忘却のポワレ
「ほれ、あーん」
「いや、自分で食べられますし」
「これも研究の一つだ。あーん」
「……あーん」
ハンバーグを口にすると、仙波さんはニヤニヤ笑いながらフォークを引き抜いた。
もう片方の手は、テーブルの上で自分と握られている。
まるで恋人のようだけれど、そんな甘さは一欠片も見当たらない。
「うまいか?」
「おいしいですよ。社食のハンバーグですから」
「特別なエッセンスが入ってるからだろ?」
「関係性は認められませんね」
「ふふふ。なかなか強情だな君は」
彼女によればこれも研究の一つだというが、どう見たって人で遊んでいるように見える。
研究テーマは『感情による成長促進の変化度合い』だ。
多くの人々を短時間で『成長促進』するというのは、十分なサンプルが集まっていたこともあり、研究は次の段階に進もうとしていた。
それが仁屋さんの異能が大幅に成長したのを受けて、少数を十分な時間を掛けて成長させるというものに移ったのは、ごく自然の成り行きだろう。
それからはひとり一時間で数日ほど実験したものだが、サンプルによって成長度合いに大きく変化が見られた。
男性より女性の方がより成長し、なおかつ実験中に無関心で会話すら最低限だったサンプルより、積極的に会話して打ち解けたサンプルに強く作用した。
仙波さんは『成長促進』は『好意をもった相手』に対して、より効果があると仮説を上げた。
「好意を持たれても困るんでしょう?」
「それはそうさ。これは嫌いではないが好きでもない相手のサンプルだからな」
「なら安心してください。それはありません」
「そう言われるとわたしも心情的に苦しいぞ、乃羽くん」
いかにも悲しそうな目をするものの、内心なんとも思っていないことを隠そうともしない。
「嫌いではないですが、苦手ではあります」
「なら今度は、好意も嫌悪もないが得意というサンプルが必要だな」
「そういうところが苦手ですよ」
「ありがとう。なかなか悪くない褒め言葉だ」
クスクスと笑う表情は人を惑わす魔女そのものだ。
誰からどう言われようが、自分の要件が果たせればそれでいいと、開き直りでさえなく本気で思っている。
それこそが、仙波桃果を若くして認めさせた傲慢さと躍進力の源でもあるんだろう。
「ほれ、次だ。あーん」
「……あーん」
何をどうやったって目的を果たすまで曲がることはない。
さんざんそれを思い知らされて、おとなしく口を開けた。
今日の研究でほぼ丸一日、仁屋さんよりも随分と長いこと仙波さんと手を繋いでいた。
実験終了後、仙波さんが軽く異能を試してみたところ、仁屋さんほどの大成長は見られなかった。
三十分ごとに異能のテストをして、最初の方は大きな成長が見られたものの、一時間を超えたあたりからその伸びは限りなく穏やかになっていった。
「ふむ。やっぱりか」
「やっぱりですか?」
「ああ。乃羽くんの異能は、時間よりも好意を持っているかが重要ということだ。好きではない相手だと、どれだけ時間を掛けても『成長上限』があるんだろうな」
「へえ、そんな性質があるんですか」
「へえって、落ち着いている場合じゃないぜ、君」
「なぜですか」
「このことが知れ渡れば、どんな方法を使っても君を虜にする女が山のようにやってくる」
「なんだか狼の群れに羊を放り込むみたいな言い方ですね」
「実際近いよ。好意さえあれば半日で最強になれるってサンプルがあるんだから」
脅すようでもなく、淡々と言う仙波さんに恐ろしいことになっていることを理解させられる。
『たった半日で最強になれる』なんて信じられないキャッチコピーが、現実のことなのだから。
そんなことが起き得るんだから、たしかにチャンスがあれば賭けてしまうかもしれない。
「もし、君の隣の部屋にいきなり美女が引っ越してきました、なんてことがあったら確実に異能狙いだ。それに乗って遊びたいっていうなら止めはしないが」
「そんなこと……」
「仁屋ちゃんと仲良くしたいなら、ラッキーハプニングも気をつけたほうがいいってことだよ」
今度こそ息を呑んだ。
仙波さんの目には他人を見下すような色も、誰かをからかうような光もない。
単純に事実として、そして警告をするためだけに言っている。
「そんな大事ですか」
「もうすこし自分を理解した方がいい。たしかにいま、うちのエースは仁屋佐智子だ。けれど一番重要なのは君だよ、乃羽くん」
「『成長促進』を使えば、僅かな時間で最強の適応種が作れるから……?」
「そういうことだ。そのために『君が好意を持つ』なんて条件は緩すぎる。どう見たってお人好しだからな」
仁屋さんは現在、異界化された場所を飛び回っている。
小さな異界ならその日にでも次元融合点を解除できるほどになった最強の適応種は、すでに三つか四つの異界を解除しているという。
その内『京都伏見稲荷大社』を解除して、全国の稲荷神社からモンスターの湧出をなくす作戦もあるらしい。
あまりにも忙しすぎて、あれからほとんど彼女と会う時間が取れなかった。
仁屋さんと会えないという状況を作って『好意』を狙っていると考えるのはさすがに穿ちすぎだろう。
彼女が最強格になったことと『好意』の関係性は、その時点では立証されていなかったのだから。
問題は、それが発覚してから仁屋さんと会えない状況を意図的に継続されること。
それを狙ってくるんだとしたら、自分自身が知らない内に持つ好意だとしても危険だ。
「君を保護するために、もっとセキュリティレベルの高いところにでも移そうか。なんだったら、こっちからしたら是非そうしたいんだけれどね?」
「そこまでされると、なんだか気まずくて居られそうになくなりますよ」
「そこまでの重要人物って認識が足りてないな。ところで乃羽くんは電車通勤だったか?」
「はい。駅からセンターまで近いですから」
「ならまずいな。君にとってはラッキーなことに、痴漢ならぬ痴女に出くわすかもしれない」
「ええ……そんなことされてもさすがに好意なんて持たないですよ」
「もしかしたら『好意』じゃなくて『興奮』でしたって可能性もなくはない。女性と密着する機会があればどうしたって君も意識するだろ」
「それはまあ、そうかもしれませんけれど」
「電車は避けた方がいいな。明日からは車を回そう、それに乗ってきなさい」
「決定ですか……。たしかに通勤が楽になるなら、それに越したことはないですね」
仙波さんが穿ちすぎていて、この研究もそれほどの大事ではなくて勘違いでした、というのならそれが一番だ。
仁屋佐智子という素材が飛び抜けていて、それがたまたま『成長』しただけという可能性のほうがありえると思う。
そういう認識でいること自体が、仙波さんからしたら危機意識が低すぎるってことになるのかもしれない。
たしかにそれは、そういうことにしておいてほしいという願望だ。
「なかなかのポジティブ思考でよろしい。不幸中でも幸いを見つけることで希望がもてるからな」
「不幸であることは否定しないんですね」
「幸福のつもりか?」
「そう言われるとぐうの音も出ません」
現状が厄介なものになりつつあるのはわかっていた。
「今日のところは電車で帰ってもらうが、何かあったらすぐに連絡してくれていい」
「わかりました。なにもないことを祈ってますよ」
「こちらとしてもそうあって欲しいものだ」
ありがたいことに、センターから電車に乗ったところでなにもなかった。
ただの考えすぎだったのであれば心配損で済むんだけれど。
途中、スーパーに寄って安くなっていた鯖とぶどうを買った。
家に着いて着替えると、なんだか食欲がわかなかった。
ガッツリ食べるという気にもならない。
「ごはんはいいや、肴だけでいいか」
フルーツのコースを食べたあたりから、なんだかフランス料理が気になってきていた。
鯖はポワレにして、ぶどうは酎ハイにして飲んでしまうつもりだった。
ワインを買うにはあまり消費できる気もしないし、なにを選んでいいのかもわからない。
酎ハイなら、ある程度なんでも飲めてしまうだろう。
皮目からパリっと焼いた鯖をつまみながら、いつもより濃い目に作った酎ハイを飲んだ。
不安を追い出すように飲むと、眠気がやってきた。
「んー……お風呂は、朝でいいか」
お風呂に入る気にもなれずに、そのまま寝てしまう。
翌朝、なんだか外が騒がしかった。
酒でずいぶんで深く寝入ったのか、鳴らされたインターフォンで起きた。
「……はい?」
がらがらした声が出る。
「朝早くからすみません。はじめまして、お隣に引っ越してきたものです」
一気に目が覚めた。
若い女性の声だった。