その3、魔女のメントール
「午前で二百人か。午後はもっとペースアップが必要だな」
もう腕がパンパンだというのに、仙波さんはそんな無茶を言う。
「これ以上は無理です。一人一分は研究と効果を考えると絶対でしょう?」
「それはそうだが、間隙は潰せる」
「休憩を挟むなと?」
眉間にシワが寄るのがわかった。
険しい顔になっているかはわからないけれど、好意的ではないだろう。
「多少は役得もあるだろ。それで我慢しろよ乃羽くん」
「そんなものありませんよ……」
「おや。胸の『成長促進』で女の乳を触ったというのに何も感じないと?」
「疲れててなにを触ってるかなんて、もう関係ないですからね」
けらけらと笑う仙波さんは、人を喰った態度を改める気はなさそうだった。
「ふむ。どうやら本当に疲れているらしいな。時間は遅くなるが、休憩は挟むか」
「そうしてください。あと腱鞘炎の予防に湿布かなんかお願いします」
「それは手配しておこう。腹も減ったろう。ゆっくり休んでくるといい」
「ええ、行ってきます」
ひらひらと手を振る仙波さんに軽く会釈して研究室を出る。
湿布を使うのは、昼食を終えてからにしてもらうことになった。
あのメントールの香りが漂っていると、なにを食べてもおいしくならない。
腕が張っているから、あまり小器用な食べ方をするものだとつらい。
焼き魚定食なんかは骨を取り除くのが一苦労だろう。
「となると手で食べられるもの?」
ハンバーガーなんかのジャンクフードか、おむすびやサンドウィッチみたいな軽食も悪くない。
そう考えて、今朝は焼いた玉子を挟んだトーストだったことを思い出す。
「ならパンじゃないもののほうがいいかな」
おむすびか、寿司という手もある。
最近まで暑かったせいか、冷たい麺ばかりで寿司を食べていなかった。
考えていく内に、腹の中が寿司に決まってくる。
「うん、寿司にしよう」
寿司は社食にないから、外に食べにいこう。
研究室から玄関まで歩いて行くと、社員食堂へ向かって何を食べようか話している適応種や職員の姿が多く見られた。
窓口も昼休憩の時間になっているのでお客さんの波は引いている。
空調の効いたセンターを出ると、むわっとした湿気を含んだ熱気が体を包んだ。
「うわぁ。朝は涼しかったけど、昼になるとさすがに暑いなあ」
だらだらしていたらじんわり汗が浮かんできそうな空気だ。
スマートフォンで近くの回転寿司を調べると三軒見つかった。
「一番近い店でいいか」
家の近所にあるチェーン店とは違うところだけれど、そう変わりはないだろう。
店先まで行くと、昼時というのもあってそれなりに混雑していた。
平日だから家族連れが待っているという休日ほどではないけれど、なかなか忙しそうだ。
中に入ると、軽めに効かせられた空調がたまらなく心地いい。
店員に一人であることを告げると、すぐにカウンター席へ案内された。
湯のみに茶粉を入れてお湯を注ぐが、さすがにまだ口をつけられない。
手を拭って、流れてくる皿に目を移す。
さて、なにから食べようか。
「タイか」
手にとって、プッシュ式の醤油を垂らす。
なんだか、わさびが全然効いてない。
流れてくる皿に目を向けると、小さいパックのわさびがどっさり入ったカゴがある。
サビ抜きを流してわさびはセルフで追加するという方式も合理的だ。
今度はタイの寿司にわさびを乗せてから口にする。
産地がどうだとかそんな細かいことはわからないけれど、臭みはないし水っぽくもなくておいしい白身だ。
イカは柔らかくねっとりと甘いし、オニオンスライスが乗ったサーモンはどこで食べても大外れがない。
わさびと同じように甘いタレが入ったカゴが流れてきた。
ちょうどよく流れてきた穴子といっしょに取る。
穴子自体は白く、タレで煮られたような感じもないし白焼きに近いかもしれない。
「ちょっとタレが濃いか」
熱々の料理ならともかく、味を感じやすい温度ってこともあるだろう。
タレはやめて白焼きのようにわさび醤油で食べるのは悪くなかった。
ハマチも脂が乗っててなかなかおいしいしかったけれど、結構おなかが膨れてきた。
あとはさっぱりしたものを食べて終わりでいいだろう。
キュウリと梅の巻物を食べて、生姜の甘酢漬けを齧る。
最後にお茶を飲んで、心地いい満腹感に包まれた。
「ごちそうさまでした」
お会計を済ませて店を出る。
これからセンターまで歩けば腹ごなしにちょうどいい。
途中でドラッグストアに寄って栄養ドリンクを二本買い、一本飲み干した。
安いドリンクだからそれほど効果はなくても、飲まないよりはいいと信じて。
「もどりました」
研究室に戻ると仙波さんがニヤニヤと口角を歪めながら待っていた。
「おかえり、乃羽くん。二種類湿布をもらってきたんだが、かなり聞くが匂いもヒリヒリも強い奴と、ほとんど香りも痛みもないが効果もそれなりのとどっちがいい?」
「んー……強い方でお願いします」
「いいね。チャレンジャーだね。見どころがある」
仙波さんの歪んだ笑みが一層深まる。
「そんなに強いんですか?」
「夕飯はミント味だな」
「……背に腹は代えられませんし、いいですよ」
ケラケラと笑う仙波さんが取り出し密閉を開けた時点で、強いメントール臭が鼻を突いた。
肩から腕から貼られたら、目に来そうなほどだ。
「うわぁ、これはちょっとすごすぎる」
「だろう。……ふむ。乃羽くん。君は自分自身には異能は効かないんだったな」
「え、はい。試してみたけれど、なんの効果もありませんでしたね」
「ならこれも研究だ。湿布を『促進』してみよう。効果があがるかもしれない」
「湿布が『成長』か『促進』するってありますかね?」
「あると信じればある。異能ってやつは、かなりフレキシブルっていうか、実際いい加減だよ」
無理矢理解釈すれば、湿布に含まれる筋肉の凝りを解したりする効果の促進、だろうか。
もしこれが可能だとするなら、自分自身の自己治癒能力を高めるということはできなくても、薬の効能を上げる事で擬似的にそうすることは可能かもしれない。
それは危険なダンジョン、モンスターが存在する世の中ではだいぶ助かる。
「試すだけならタダですからね」
「そういうこと。効果があるなら、研究ペースも上げられそうだしな」
「それは据え置きでお願いします」
「そうだろうね?」
一分ほど『成長促進』した湿布を貼り付けると、氷でも貼り付けたような冷い衝撃が走った。
「ひっ!?」
「いい声で鳴くね、乃羽くん」
「そういうのいいですから、早いところ済ませてください」
明らかに尋常じゃない。
これがもし異能の成果じゃないなら、ただちに影響があるクラスの薬剤を使っているに違いない。
肩と腕に2枚ずつを張り終えると、鼻がスースーに通り抜けていくのがわかる。
「なんか染みるっていうか目が痛いんですけどこれ」
「多少は我慢しなさい。休憩時間になったら目薬でももらってきてやろう」
「それはありがたいですけれど」
「バッチリ目に染みるやつを」
「それはありがたくないんですけれど」
チェシャ猫のように笑って、仙波さんは自分の椅子に座って鼻歌混じりにファイルをめくった。
分厚いファイルには非実験体のカルテが載っているに違いない。
午前と午後で五百枚と考えると、仙波さんの苦労も並大抵ではないだろう。
「使わなかった湿布、仙波さんに貼りましょうか?」
「なんだ、わたしの素肌が見たいのか?」
「そんなつもりはないですが、見て欲しいんですか」
言い返すように、にやりと笑っていってみる。
「肌は安売りしないことに決めている。が、被験体になるのもいい経験だ。『促進』してくれ給え」
そう返されて、白衣と上着を脱いでキャミソール姿になった仙波さんに、なんだかまたやり込められた気分だった。
渡された湿布を『成長促進』している間、薄着の仙波さんという存在がなんだか違和感を覚える。
普段は人を喰った態度の魔女という感じなのに、いまは一流の女詐欺師といった風格だ。
目を向けられないような、惹きつけられるような、そんな感覚がある。
「そろそろいいだろう。さあ貼ってもらおうか、乃羽くん」
「ご自分でどうぞ」
「おいおい、わたしも貼ってやったろう?」
「……はい」
彼女は気分良さそうにニヤニヤと笑う。
なんだか自分だけが意識しているのがおかしくて、気恥ずかしくもささっと済ませた。
「いやあ参ったな。急に素肌を見せろと言われるとは」
今回の収穫は、下手な反撃は数十倍のカウンターをもらうということだった。
疲労気味のせいかやはりペースは上がらず、仕事時間は遅くまでかかった。




