その2、人工的な天才
癇癪を撒き散らすスマートフォンに手を伸ばして止めた。
朝の六時半、いつもの起床時間だ。
布団にすっぽりと潜って、五分まどろんでからのろのろと這い出す。
十分ほどシャワーを浴びてからボディークリームを塗り、水を飲んで歯磨きをしている内に、ようやく目が覚めてきた。
トースターで食パンを二枚焼いておき、そのあいだにフライパンを温めて卵を割っておく。
粉チーズと塩と胡椒と牛乳と砂糖をちょっぴり入れたものを掻き回し、火加減は半熟ぐらい。
片方のトーストに乗せてケチャップをぱぱっと、もう一枚で挟めば出来上がり。
さっくりまろやかなたまごトーストを食べながら、朝のニュースを流し見る。
以前のモンスター突沸は沈静化したらしい。よかったよかった。
デザート代わりにバナナを一本食べて牛乳を飲むと、もうそろそろ出勤時間になってしまう。
服を着替えて髪を整え、鏡でチェックしてからのど飴を一つ口に入れる。
「マスクは……いらないかな」
鱗粉や花粉系のモンスターによる突沸がないなら、特に問題はない。
「行ってきます」
鍵をかけてドアノブをひねり、閉まってることを確認してアパートを出る。
このあたりは比較的平和だから、ジャージ姿でジョギングがてら朝から散歩をしている人もいる。
だいたいはリタイアした七十近いお年を召した紳士淑女の方々か、午後から仕事か専業をなさっているお嬢さん方だ。
顔見知りの人には軽く会釈なんかをしながら駅まで向かい、満員電車に閉じ込められてガタゴト揺られる。
この人間の扱いは、ドナドナの仔牛ほども酷いのではないだろうか。
こんなことを思うのは社会人として経験が浅いせいだろう。
若干、額を明るくされたベテラン社会人からは、諦めや悟りのようなものが見える。
やがてその境地に達してしまうのだろうなと考えると、心胆寒からしめるものだ。
電車が駅につくと、転がるようにしてホームに出た。
何度か大きく息を吸ってから、もう一つのど飴を口に放り込む。
階段を上がってしまえば、あとは十五分も歩けば職場へ付くだろう。
駅前の混雑を抜けながら、昼は何を食べようかなどと考えつつ足を進めた。
「あっ、乃羽さん。おはようございます」
「おはよう、仁屋さん。今日は涼しいね」
「そうですねぇ。ようやく秋が来たって感じがします」
にこりと微笑むのは仁屋佐智子さん。
同僚で、趣味は甘いものをつくることと食べること。
軽やかになびく栗毛色がすこしも嫌味じゃない。
「すこし肌寒くなってくると、おいもやカボチャにようやく会えるんだなーって感じますねぇ」
「ハロウィンなんかでスイーツの新作も出てきますしね」
「はいっ。それが楽しみで」
秋になると太っちゃうんですよ―、と笑いながら仁屋さんと職場まで足をすすめる。
空には鳩が飛んでいて、もうすぐ実りの秋なのだなあとぼんやり思っていると、こっちに向かってぴゅっとやってきた。
「あっ」
文字通り頭上に落ちようとしていた鳩の糞が、空中にぴたりと止まる。
「ありがとう、仁屋さん」
「いえいえ。朝から頭を洗うなんてことになったら大変ですから」
その場から小走りで立ち去ると、鳩の糞は放物線を描いたまま地面に落ちた。
能力は『固定』
あらゆるものは、彼女の命じるままその場に釘付けとなる。
運動エネルギーさえ保存する、それこそ時間停止と言っていいも可能な極めて強力な異能だ。
「そうだ。お礼に甘いものでも差し入れさせてください」
「いいんですか、ありがとうざいます。あ、でも」
「なにか別のものがよかったですか?」
「そうじゃないんですけど……もしよかったら、食べに行きませんか?」
「ははぁ。ひとりだと行きづらいけれど気になっているところがあると」
「そうなんです。ダメですか?」
「もちろん、いいですよ。今度の休みにでもいきましょう」
「よかったぁ」
そう約束をしたあたりで、職場が見えてきた。
『異能技術開発研究センター』
ダンジョン・ハザードによって変質した生物が獲得した異能の実験場だ。
異界化した場所から湧き出したものはモンスターばかりでなく、魔法や得体のしれない力などといったものも含まれた。
世界を侵すほどのものが生物に影響しない訳はなく、ダンジョン付近の人間や動物は、原因不明の体調不良で病床に臥すことになった。
しかしほとんどの人は悪化せず、半日から一日寝れば治るといったもので済んだ。
その例外もあり、数日から数週間も寝込み、得体のしれない力に適応してしまった人々がいる。
世界が異界化したように、人が変質して獲得したものが異能だ。
センターの建物自体はあまり特徴がない、一見、何の変哲もないような作りをしている。
玄関を通った先には長いカウンターが通っていて、全部で七つに区切られた窓口がある。
役所のようだけれど、実際その役割も果たしているのだから間違っていない。
事務員として雇われている方々が、朝の準備をしているので邪魔しないように通り抜けた。
異能を獲得した『適応種』たちはもっと奥に用がある。
いくつかのルームを通ってエレベーターで地下へ向かう。
この瞬間は悪党がなにかを企んでアジトに潜んでいるみたいで嫌になる。
地下のフロアはかなり頑丈に作られていて、適応種がちょっとばかり乱暴な実験をしても平気な作りになっている。
「わたしはこっちなので。またお昼にでも」
「ええ。時間があったら、ごいっしょしましょう」
仁屋さんは実験のプレートがかかった部屋に入っていき、こっちは研究室に足を向けた。
適応種といっても、様々な能力がある。
例えば『固定』のように、理論上は銃火器程度の質量兵器ならほぼ無効化できるような能力もあれば、猫についているノミ取りだって満足にできない異能もある。
「おはよう、乃羽くん」
「おはようございます。仙波さん」
「早速だがはじめようか。君の『成長促進』は長く、多く使っていられるほどいいからな」
能力名『成長促進』
『自分以外』のものを『成長』させる。
成績が伸び悩む受験生に使えばぐんぐん点数が上がるし、不器用な女の子でもすぐにコツを覚えて手編みのマフラーでもセーターでも作ることができるようになる。
天才というものがあるとすれば、それは発想力に加えて、常人と比べて圧倒的な速度で習得していく要領と効率のよさだろう。
発想力はともかく、後者の要領と効率ならどうにでもできる。
ダンジョン・ハザードという未曾有の危機に置いて、対応できる人材が急速に必要なこの時期、亜種の『天才』を量産できるこの力は、ずいぶん魅力的に見えるようだった。
というのは、研究を始めてからいままでにわかったことだ。
「はい。今日は何人ぐらいテストするんです?」
「ざっと五百人ぐらいか」
「多いですね……」
「君の魅力にやられたんだろ」
仙波桃果はそう嘯いた。
「毎日こんなことしてたんじゃ、こっちが壊れますよ」
「これでも制限しているんだぜ。さっさとすませようじゃないか」
「わかりましたよ。アイドルの握手会ってハードなんだなぁ……」
もしこれが『固定』のように認識しただけで使えたらどれだけよかっただろう。
『成長促進』は、対象に接触することで発動するタイプの異能だった。
加えて接触している時間が長ければ長いほどその効果は上がる。
一人一分だったとしても五百分。
早く帰りたければ、早く始めるしかないのだ。
午前中だけで、湿布が必要になった。