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海に立つ

ほぼ毎年、夏休みの恒例行事ともいえる、祖父母の家への帰省。

田舎のおじいちゃんおばあちゃんのことはもちろん好きだ。

けれど、普通の町に住んでいる小学二年生のタカシ君には、お店の少ない田舎の暮らしは三日もすれば飽きてくる。たとえ、海が近くてどんなに自然が多くても。

なにしろ、近所に同年代の遊び友達がまったく居ないのだから、これはもう仕方がない。

朝ごはんを食べたあと、すこしだけ宿題をやっていたけれど、いまはもう畳の上でゴロゴロするばかりのタカシ君。

持ってきた携帯ゲームのセーブデータをリセットして、最初からまたやり直そうかと迷っていると、玄関のほうからガラガラと引き戸が開く音がした。

「ごめんくださーい。アカネでーす」

従姉のアカネちゃんだった。

タカシ君のお父さんのお兄さん、つまり伯父さんの一人娘で、たしか今年から中学生になったはず。伯父さんたちは、おじいちゃんの家からちょっと離れた場所に、新しく家を建てて住んでいた。

なにかおつかいで来たらしい。

おばあちゃんと玄関で話しこんでいるようだけれど、障子を隔てているせいかよく聞こえない。

「おじゃましまーす」

家にあがったアカネちゃんの声。

板の床を踏む靴下の足音がリズミカルに近付いてくると、障子がスッと開いた。

「おはよう、タカシちゃん」

会うのは一年ぶりだったけれど、髪を短くしておかっぱ頭みたいになったアカネちゃんはまるで知らない人のようにみえた。

「もしヒマなら、一緒に海のほうへ散歩にでも行ってみない?」

それでも、クリクリした目やニコニコした表情は以前と変わっていない。

別にやることもなければやりたいこともないタカシ君。

「……うん」

そう小さく頷いて、アカネちゃんに連れて行ってもらうことにした。


海草と発泡スチロールのかけらが打ち寄せる砂浜を、二人してぶらぶら歩いた。

このあたりの海は沖へ向かうと急な段差があって、足元をすくう強い潮流がある。

そのためにずっと昔から遊泳禁止だった。

遠くの岸壁で釣り糸を垂れている人が見えるけれど、近くには二人の他に誰もいない。

退屈しのぎに出てきたタカシ君だったが、単調なばかりの波の音と、どちらかといえば臭いだけの磯の香りがするだけで、別段そんなに面白くもなかった。

お互いの学校のことなど当たり障りのない話をしながら歩いていたが、ふとタカシ君は沖の方へ目をやった。

三羽のカモメがぷかぷかと波に揺られて浮かんでいる。

「あれ……?」

思わず声が出た。

そのカモメたちよりもすこし先に、灰色の柱のようなものが立っている。

立ち止まったタカシ君は、もっとよく見ようと目を凝らした。


女だ。


どういうわけだか、女の人が海の上に立っている。

薄汚れて灰色になった、そんな感じの古い着物姿だった。

長い髪が垂れて顔に覆いかぶさり、若いのか年を取っているのかさえわからない。

「ア、アカネちゃん! あれ! あれ見て! 変な人がいる!」

「どうしたの? ……あっ!」

タカシ君の指差す方向を見たアカネさんは息を飲んだ。

「あれが視えるの? タカシちゃんにも」

海に立つ女の人を見詰めたまま、アカネちゃんが聞いてきた。

「うん。なに、あの人? なんで海の上で立ってるの?」

その質問には取り合わず、アカネちゃんはタカシ君の手をぎゅっと握った。

「帰るよ、タカシちゃん。この事、急いでおばあちゃんに教えないと」

なにか普通ではない様子のアカネちゃんに引っ張られるまま、タカシ君も走り出す。

けれどタカシ君は、一瞬振り返って、もう一度見た。

まだ、立っていた。

風が吹いて波がさざめき、カモメたちは静かに流されていく。

それなのに、女の長い髪も着物の袂も、ぴくりとも動かなかった。


戻ってみるとおじいちゃんもタカシ君の両親もどこかへ出かけていて、おばあちゃんは一人、台所で小さな踏み台にのってスイカを切っていた。

「おばあちゃん! 大変! また、あの女が海に!」

焦るアカネちゃんに対して、おばあちゃんは振り向きもしない。

「ごら! タガシの居る前で、めっだなごど言うもんでね!」

「それがね、あれ、タカシちゃんにも視えるんだって」

スイカを切っていた包丁が、とん、と、まな板を打って止まる。

おばあちゃんは後ろ向きのまま、踏み台から降りると、ゆっくりタカシ君のほうへ向き直った。

「ほんどが? タガシ、あれば視だのが?」

「う、うん……」

「んだが。なら、仕方ねえな」


茶の間でスイカを食べながら、おばあちゃんが教えてくれた。

あの女がなんなのかはわからない。

ただ、あの女が沖に立つと、近いうちに誰かが海で死ぬという。

戦争よりもずっと前から、あの女は海の上に立っていた。

地元でも、あれが視える人間は年々減っていて、この話を知っている者ももうほとんどいないという。

現に地元育ちのおじいちゃんには視えないし、タカシ君のお父さんも、アカネちゃんのお父さんも視えなかったらしい。


その昔、おばあちゃんがまだ子供だった頃、霊感の強い友達がいた。

「あれが出たから気をつけて」

みんなを心配して、周りの人たちにも伝えたという。

翌日、酒に酔って海に落ち、亡くなった人があった。

そんな不吉なことを言うなとその子を叱りとばした、その子の父親だった。

生活していくためか、それとも居辛くなったためか、友達と家族はひっそりと出て行ったという。

それ以来、視える人も誰とはなしにこの話に触れなくなっていった。

「まあ、視えだら、海さ近付ぐなっでごどだ。視えでも他人には言わねぐてもいい。馬鹿だと思われっから」

それだけ言うとおばあちゃんは、プププとスイカの種をボールに飛ばした。


そして、その日の夜、釣り人が一人、沖に流されて死んだ。


それから十五年が経った。

もう雪がほとんどない三月、会社員になったタカシ君は休みを利用して、懐かしい祖父母の家に来ていた。

おじいさんに先立たれたおばあさんも、長患いの末に亡くなった。

タカシ君の父親と伯父さんは相談して、おばあちゃんの家を取り壊すことにした。

家事道具を整理する手伝いをしにタカシ君もやってきたのだ。

けれどまた、これがなかなか進まない。

父と伯父さんにとっては、両親が使っていたものだけに、どれも見覚えのあるものばかり。

すぐに手が止まってしまう。

そしてそれは、孫であるタカシ君とて同じだった。

仕方がないこととはいえ、おじいちゃんとおばあちゃんの思い出の品を分別する作業そのものに罪悪感をおぼえなくもない。


遅々として進まないまま、その日はおばあちゃんの家に泊まったタカシ君。

作業の疲れか気疲れかわからないが、普段なら絶対に起きないような時間に目が覚めた。

午前四時。

近頃は暖冬気味とはいえ、ここいらはまだまだ寒い。

布団の中は温かいのに、目が冴えてまるで眠れない。

タカシ君はコンビニにでも行こうかと、服に着替えると車のキーを掴んだ。


海岸近くにさしかかるとタカシ君は車の速度を落とした。

海の上は霧がかかっていて、ぼんやりとしか見えなかった。

子供の頃、ここでアカネちゃんと一緒に、海の上に立つ女を見た。

だが、いまはもうアカネちゃんはいない。

遠くの土地で就職し、その後、結婚したアカネちゃんは、二年前、川に落ちて死んだ。

家庭内には夫の女性問題をめぐるトラブルがあり、自殺の可能性も示唆されたが、ついに遺書は発見されなかった。そのため、最終的に事故として処理された。

アカネちゃんの遺体は、翌日、どこかの海岸に流れ着いていたのを、散歩に来ていた人に発見されたという。

路肩に停めた車から降りたタカシ君は、黙って海を眺めていた。


もしかしたら、アカネちゃんが死んだ日も、あの女は海の上に立っていたんだろうか?


冷たい風が吹いてきた。

このあたりの三月は、まだまだ冬と言っていい。

寒風に首筋がぞくりとして、タカシ君は暖房の効いた車内に戻ろうとした。

けれど、後ろ髪引かれるような思いで、もう一度だけ振り返った。


風で吹き飛ばされた霧が薄くなっていく。

徐々にはっきりとしていく海の上に。


あの女が立っていた。


長い髪。灰色の着物。

あのときに見た、あの姿。

なにひとつ変わっていない。


そして、霧が晴れた。


タカシ君は海を見詰めていた。

三月の海を、凍りついたように身動きひとつ出来ずに。


海の上に、あの女が立っていた。


いや、違う。


海の上に、あの女が、何人も立っていた。


数え切れないほどのあの女が、まったく同じ姿のあの女が、海の上に立っていた。

無数のあの女が、微動だにせず、立錐の余地もないほどに。

立ち尽くしたようなあの姿で、海を埋め尽くしていた。


あれは……あの女は、一人じゃなかったのか!?


青ざめたタカシ君は急いで車に乗ると、Uターンして猛スピードで家へと戻った。


もう、おばあちゃんもアカネちゃんもいない。

海に立つあの女のことを誰にも言えないまま、黙々と遺品の片付けをして時間が過ぎていく。


その日の午後二時四十六分。

途轍もなく大きな地震があった。

二〇一一年三月十一日。

のちに東日本大震災と呼ばれることになる大災害であった。


なお、タカシ君の田舎は北海道のとある場所にある。

その周辺では震災による直接的な被害はそれほど大きくはなかったという。

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