お金は大事、命の次の次ぐらいに
キレイごとではすまないけれど。お金は大事。
身内の恥を晒してしまうのですが。
娘が小学校に入学するときの家庭調査票、夫の職業欄は「求職中」でした。
時は流れ、娘が中学校に入学するときの家庭調査票、夫の職業欄は「求職中」でした。
※大切なことなので、二度書きました。
さらに詳しくお話しするなら、娘が小学校から中学校の間に何度も転職しました。
そのたびに自営業のワタシはシャカリキに働き、結果救急車に乗ったり旦那再就職後に扶養から外れたりしたわけです。
そんな貧乏性というか、貧乏な我が家ですよ、ほんと。
お話を書くときにもそれが如実に反映されます。
悲しいかな、余裕のある金持ちが書けない。
どんなSFを書こうとも、エロエロBLを書こうとも、いつも「こいつらの生活費はいかにして生まれているのか」を考えずにはいられない(たとえその部分は書かないにしても金の出どころが不明だと気持ち悪い)。
どんな国家体制で経済基盤なのか、いかにして生活費を生み出しているのか……もしや、貨幣制度ではないのか。貨幣を無くした社会はどうなのか。
夢も希望もありません(『山の駄菓子屋さん』はドングリがお金代わりでしたね。あそこは基本的に物々交換)。
『真昼の星』のエルゼの出身地は貧乏です。今現在、これといった産業なし(今後は上向く予定)、『象牙の檻』は若返りに抜群の効果をみせる、若ち水と自然を生かした長期滞在型のリゾートが主力産業。
『狩りの時間』の社会は資本主義と社会主義が入り交じっていて、ゆるい階級制社会です。
お金がない、という生活を続けると、必然的に「いるもの」と「欲しいもの」に振り分けて考える癖が身につきます。
いるものを買い、さらに欲しいものが買えるのが豊かな生活の目安かもしれません。
しかし、倉本聰のエッセイや著書を読むと頭を殴られたような気分になります。ええ、自分があまりに拝金主義で物欲にまみれていることに。
いつだって「おまえの生き方はそれなのか」と静かにしかし冷徹な眼差しを向けられているような気がするのです。
名作ドラマ『北の国から』もシナリオで読むと、一味違っています(ちなみに下巻のラストでいつも泣きます)。
同じく、『世界一まずしい大統領のスピーチ』(汐文社)でも同様に思います。これは絵本なのですが、今のままの消費生活を送ることに警鐘を鳴らします(そして小学中学年以上であればそれぞれ受けとるメッセージがあるでしょう)。
お金はないよりあったほうがいい。でもそれは決して大金でなくていい。
わたしが誰かの幸せを願い、わたしが誰かから幸せを願われるような暮らしであれば……。
たしかに綺麗事です。
でも自分のように親も年老い子を持つ歳になると多少なりともわかる部分があります。
それは「誰かのために時間を使うことを惜しむひとは、誰からも時間を使ってもらえない」ということです。生きているうち、自分にだけ時間を使うひとは、人からはお金を払って時間を買わなければならないようだ、と。
お金はたくさんなくたっていい。ふつうに暮らせて、突然の冠婚葬祭や事故ケガ病気に対応できるくらいの収入と蓄えがあればいい……お金がなくても楽しいのは若いうちだけです。
これも悲しいかな真実。
けれどもかの喜劇王チャップリンも言ってます。
『生きていくことに必要なものは勇気と想像力と少しのお金』
それを信じたい春の宵。
『世界一まずしい大統領のスピーチ』はたしかに素晴らしいと思います。
でも、それはすでに経験したからこそ語れる言葉なのではと思いました。たとえばスピーチの冒頭で、「ドイツの国民が所持するくらいの割合でインドの人々が車を持ったとしたら、地球には我々が呼吸する空気が残っているでしょうか」といった内容が語られます。
確かにそれはそうです。とんでもない台数の車が増えることになります。
でもね、だからといって私たちがインドの人たちに「車をもっても幸せにはならなよ」とは口出しできないと思うんです。
「このまま物を買い続けても幸せにはならない」とも。
だって、それは経験者だから分かることで、経験したことのない人には分かりづらいことだろうと思うんです。
まさに今発展している地域や国々の人に、これから先の人生のかじ取りをどう解説したら分かってもらえるのか。
「体験済み」と「未体験」の溝をどうやって埋めていくのか、それが重要課題だろうと。
なんて、私ごときが偉そうに言ってもしょうがないのですが。




