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あしたの糧  作者: たびー


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長いお休みと三度目の復帰

 先日、「11年くらいブランクがあったんだよ」ということを話したら、驚かれました。

 最近はTwitterのスペースに参加していまして、そんな話をする機会がありました。


 わたしの執筆歴はというと

 ☆20才、短大の二年生のとき文芸同好会の会誌に掲載するためにSFを一晩で書く。

 ☆25才あたりに、コバルトの某作品を読んで「これくらいなら、書ける」とファンタジーを書く。

 ※「天空の裔」を完結させ「黄金の瞳」を途中まで書いて飽きる。

 ☆29才あたりに、パソコンで父と息子とアンドロイドのSFを書く。

 一本書いたら、気がすんで終了。

 ☆33才あたりに、いきなりBLを書いて完結。勢いでBL新人賞へ投稿。選外Åクラス。

 引き続き、その作品のシリーズをもくもくと何作も書く。友人が読んでくれた。

 ☆翌年も、新人賞へ投稿。こちらは期待賞をいただく。

 ↑と、発表が出たあたりには、結婚が決まっていたのでした。

 結婚が決まったのは2001年で、5月に入籍、7月には妊娠していました。


 そうなると、もう小説を書くどころじゃなくなりました。

 2002年3月には娘が生まれ、わたしは夏に仕事に復帰。当時、住んでいる場所から実家近くの仕事場まで週に2回とはいえ片道50キロを車で通っていました。帰りは夜の9時前後でした。

 娘は2003年6月より保育園へ。わたしは、更に週2回住んでいたところの某所でもバイトを始めました。

 もう毎日が戦争のようで、とにかくドタバタと過ぎていきました。義両親はとても娘を可愛がり、世話も引き受けてくれました。

 ※夫は娘との留守番ですら二回くらいしかしなかったですが(#^ω^)


 そんな期間、創作活動面はどうしていたかというと、書かないかわりに図書館三昧でした。

 住んでいるところの図書館と勤めがあるところの図書館と、二館から借り放題でした。

 二館で入荷する本が微妙に違っていて、使える資料・読める本が二倍になったようなもの。片方の館でなかなか借りられない本ももう一方で借りられたりと非常に効率がよかったです。

 読んでいたのはほとんどは、日本の作家が中心でした。ミステリやエッセイ、それから地元のならではの民俗学の本など。今は根気がなくて、さっぱり読まなくなった海外ミステリも好きで読んでいました。

 図書館へは定期的に通い、娘が眠ってからとか仕事場で息抜きにとか、とかく読む日々でした。

 小説は書くことはできなかったのですが、ネタ帳にぽつりぽつりとアイデアを書いていました。

 ※「真昼の星」のアイデアとか。


 娘にも夫にも手がかかり、仕事にも振り回されっぱなしで、もう自分には小説を書くこともないんじゃないかと思っていました。ワープロは仕事で使っていましたが、小説を考える頭にはならなかったです。パソコンはありましたが、夫との共有で小説を書くことはためらわれました。もしも読まれたら、と思うと書く気にはなれませんでした。

 そんな折、知人の紹介でブログを始めました。もちろんですが夫には内緒です。

 嫁ぎ先の地には、面白いものがたくさんあったので、それをブログにアップしていました。そのうち、日記も始めました。さるさる日記という今は亡きサイトに、日常を書いていました。

 ブログと日記。文章を書く機会はそれくらいでした。


 ある日、車を運転しながら考えました。

 あまりに小説を書く日々から遠くなるばかりで、もう小説というか小説家になる夢は諦めた方がいいんじゃないかと。

 諦めるか……と思ったとたん、涙が出ました。

 子どもの頃からの夢を諦めるのか、それしか選択肢がないのか。

 いやだ、と思いました。泣きながら運転しました。小説を書くことを手放すことは出来なかったのでした。


 そして、実家のそばに家を建てることになり、生まれた土地に家族て引越してきました。娘は保育園の年長になっていました。

 相変わらず、小説を書く機会はめぐって来ずに娘は小学校へ入学しました。

 わたしは自分の仕事と実家の仕事を掛け持ちして働きました。※いまもですが。


 2011年3月11日。

 東日本大震災。

 仕事の仲間が津波で他界。

 沿岸にすむ同業の仲間が働けない分、動ける内陸部の自分は頑張らねばと、がむしゃらに働きました。


 2012年の春、とてつもない腹痛に襲われました。腎臓に石が出来たようでした。


 そこから一年間は、体の声に耳を傾けて過ごしました。

 2013年春。体調も落ち着きガラケーでpixivで漫画を読んでいてふと気づきました。

 pixivには小説も投稿できるということに。そしてガラケーのメール機能を使えば、小説が書けるし投稿も出来るということに!!

 そして頭に渦巻いていたゲームキャラの二次小説を書きました。信じられないくらい、あっさりと書き上げられました。

 おもしろい!! すいすい書けたことに気をよくして、そしてほどほどに読まれることに喜んで、次々と二次小説を書いて行きました。


 それからは、徐々に一次の作品に傾いて行きました。

 震災以来、わたしの胸の中にあった鉄腕アトムの物語を書きました。それは「ソラとカナタ」というお話になりました。


 ようやく、小説家になろうに登録しました。2013年の秋でした。


 その後、いろいろありました。なろうに登録当時は夫は無職で、家の中は大荒れでした。

 わたしは小説を書くことで気持ちを紛らわせることができました。


 相変わらず、小説を書いていることは夫には内緒のままですが、娘には打ち明けたことで気持ちがらくになりました。


 小説を書き始めた時、小6だった娘は今は専門学校の二年生で家にはいません。


 3匹の猫と、夫の暮らしです。


 11年のブランクがあってよかったのかどうか、分かりません。結婚後も書き続けていたなら、今とは違う作品を書いていたと思いますし、ネットで知り合う方たちも違っていたと思います。


 ゆっくりでいい、小説家にはなれなくとも、小説を書く楽しみをずっと持ち続けたいと思っています。

 結婚も出産もゆっくりで、ブランクが長かったことも「周回遅れの人生」を送っている自分にはちょうどよかったんじゃないかなと感じています。



もう一度、10年以上のブランクが発生したら……さすがに書くには無理があるのでないかと思います。

郷土の偉大な作家、高橋克彦先生も10年のブランクの末に江戸川乱歩賞でデビューしました。

克彦先生は雑誌に投稿していた20代の頃、知り合いの編集さんから「10年書くのを止めなさい」と言われたそうです。10年、書かない間にいろんなことを学んで抽斗を増やしておきなさいというアドバイスを真面目に受け取り、浮世絵の研究に邁進し本まで出したという……。

デビュー後に件の編集さんにお会いして「10年書くなというアドバイスのおかげで作家になれました」と挨拶したら非常に驚かれたそうです。

10年書くな、というのはせわしない作家志望を体よくあしらう言葉だったそうです(^^;)


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― 新着の感想 ―
[良い点] それでも書き続けるたびーさんがすごいです!
[一言] ブランクがあっても、ちゃんとインプットできているから、すんなり書けるのでしょうね。 子供と仕事と。インプットでさえ大変だと思います。うちも子供にはカミングアウト(というか勝手にばれた)してま…
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