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「不思議な遺失物」

作者: マーチ

リアリティ一傾向

学問ーお仕事小説コンー (タクシー編)




                    「不思議な遺失物」            伊東一郎



                        1



 私が人の忘れ物にこれほど翻弄される仕事をするとは思わなかった。

思えば十年ほど前に遡る。元よりコスト競争で優位に立つアジア諸国が、技術的にも日本に並んだことから悲劇は始まったのである。似たような電気製品を買うのなら誰もが安いほうを買うに決まっている。高品質だが値段もそれなりの日本の電気製品は、アジア諸国から「低コスト」という強力な武器をぶんぶんと振り回され、しかも技術でも追いつかれ、みじめな敗者となるのにそれほどの時間はかからなかったのである。


 竹内浩二が勤続二十年を超える某電気メーカーの生産工場をリストラされたのは四十五歳の時だった。妻の沙織は四十一歳。一人娘の加奈は高三だったが、夫(浩二)の突然の失業で大騒動だったことを今でも鮮明に憶えている。しかし浩二は失意と絶望という魔の海の中でバチャバチャと溺れている暇はなかった。加奈は大学進学が控えていたし、妻の沙織は娘の進路に何よりも躍起になっていたからである。

浩二は退社と同時に職安通いを始めたが、浩二の歳で希望する再就職は困難を極めた。

彼は前職と同じような職場を模索したのだが、浩二のキャリア程度では所詮無理なことで、当時の職安内には浩二と類似した人達で溢れかえっており、失笑するしかなかったのは悲しいことだった。


 とりあえずの現金収入が目的であればアルバイトなどの選択もあったが、大学生じゃあるまいし、将来を考えると不安ばかりの職場では心の平穏など見出せない。

意外なことに浩二よりも動きが機敏だったのは沙織のほうで、浩二が求職でモタモタとしている間に、さっさとスーパーでパートの仕事を見つけては働き出してしまった。実は浩二の自宅は住宅ローンをまだ返済中だっのである。僅かばかりの退職金と同じく僅かばかりの蓄えに危惧したのは浩二よりも沙織のほうだったのは驚きだった。


 失意のまま職安から家にもどると、沙織の口からは同じ言葉が浩二に向かって吐き出される。

「あなた、仕事まだ見つからないの?私はもう仕事してるのよ。何でもいいからさ、早く仕事しなさいよ」沙織の言葉は放たれた矢のように浩二の心にぐさりと突き刺さる。

 そのうち高校から帰ってきた加奈の鋭い視線も浩二を追い詰める。猫に追われる小さなねずみのように。加奈は沙織のように浩二に何も言わない。だがむしろ、無言で見つめられるほうが心が痛む気がするのは、言葉だと意味が限定されるが、無言で見つめられると不穏な想像が無限に拡がるからだ。無職の父親を加奈はいったいどう思っているのだろう?


(お父さん。私進学できるの?今時、高卒なんてやだよ)

(この家にこれからも三人で住めるの?)

(父は無職だなんて人には恥ずかしくて言えないよ)

 浩二は加奈の無言の視線の意味を考えるたびに気が狂いそうになる。ある意味、妻の口から出た言葉よりもよっぽどキツイ。次の日も仕方なく、浩二は重い足取りで職安に通うのだった。



                        2



 職安での進展はなかったが、帰りにコーヒーを買ったコンビニで目に止まったのは薄っぺらな就職情報誌だった。それを買い求め、浩二は誰もいない家に戻ると、リビングのソファーに座り、暇つぶしのつもりで開いて眺めた。職安でも感じたことだが、求人は飲食業の多さに圧倒される。しかも若い人の求人が多い。浩二は自分が飲食店で働く想像をしたが、やはり想像だけで終わってしまうのは当然とも言えた。

大学を出て以来、メーカーの工場勤務しか経験のない自分が、どこかの飲食店内であたふたと接客業とかは絶対に無理だろうとしか思えない。いや絶対ではないかもしれないが、限りなく「絶対」に近いことだろう。ページにはスタッフの顔写真も掲載されていたが、まるで娘の美香を見ているようだった。他業種も似たようなもので、若い笑顔が弾ける写真ばかりだったのである。


「ああ・・・・」とため息が出てくるのは、無職の現状と四十五歳という若くない年齢に対してだった。

 美香の大学進学。家の住宅ローン。食費や雑費や公共料金もろもろ・・・・

浩二は自殺など生まれてから一度も考えたことはなかったが、今初めて自殺志願の人の気持ちがわかる気がした。もし私が事故で今死ぬと保険金はいくら出るんだ?「あっ」思い出した。月々の支払いに生命保険料もあったのである。頭をぶるぶると振り、つまらない妄想を振り切るように再び求人誌をぱらぱらとめくったその時、ある求人に目が止まった。以前も見たが気にも止めなかった内容dだった。


「正社員、社保完備、有給有り、定年65歳、月収30万可」


 浩二は最後の収入の「可」の部分が妙に気になったが、家の中にいても何もわからないので、とりあえず求人誌に付いていた履歴書に記入することから始めることにした。そしてその会社に面接の電話を恐る恐る(株)Sタクシーにすると・・・・

電話に出た男の年配者らしき野太い声の人は、明るく「いつでもウエルカム」と言ってくれたのだ。

 職安で求人票を見て、妥協しながらも職員に問い合わせてもらった企業からは、浩二の年齢を職員が告げると電話で全て断られた。やはり四十五歳という年齢は大きな壁だったが、その会社では全然OKだったのである。

浩二はその会社に面接に出かけた。

採用担当者は若い人が来たとむしろ喜んでいるのが不思議なほどだった。

初めての職種なので浩二はいろんな質問をしたが、担当者は何でも笑顔で答えてくれた。ただ収入のことだけは曖昧なのが気になったが、もはや仕事を選ぶ立場にない浩二は概要の説明を聞くと、わかったようなわからないような疑問を打ち消すように「よろしくお願いします」と大きな声で言ったのである。


 あれだけ職安に通っても決まらなかった仕事が、帰りにコンビニで買った薄っぺらな求人誌であっさりと決まってしまったのには笑える。

この日浩二はこの会社(Sタクシー)に「養成社員」として採用されたのだ。

浩二が選んだ仕事とは「旅客運送業」早い話が「タクシー乗務員」だったのである。


 夕方、家で沙織と加奈に事後報告をすると二人はことのほか驚いていた。

「お父さんにできるの?」「本当に大丈夫っ?」「事故とかしないでよっ」

とかなんとか言いたい放題だが、浩二は「私だって不安だよっ」と大きな声で言いたかったが、やっとの思いでごくりと飲み込んだ。

                         

                         3



 タクシー営業は国が認める旅客運送業なので、決められた資格が必要である。

それは「普通二種」という免許証だが、浩二はその免許を取ることから最初の仕事が始まる。(免許の取得期間でも日当は出るのだ)普通二種免許は普通免許取得から三年の経験が受験資格となる。

養成社員というのは、二種免許を持たない新人が二種免許を取り、そのままその会社で仕事を継続するからそういう名称を付けられた経緯がある。二種免許を取得するには二十数万円(地方で異なる)の費用がかかるが、その費用は入社したタクシー会社が全額負担するので個人負担はないが、タダで免許を取らせてもらうので二年から三年(会社による)は個人の事情で辞めることはできない規則がある。要するに丁稚奉公である。この養成社員制度は人手不足に悩むタクシー会社の苦肉の策でもあった。



 「ふう・・・・」

 浩二はうんざりしていた。免許はあるのに、この歳でまた免許を取るため自動車学校に通うことになるとは・・・・学科は法令の復習なので簡単な暗記で良いが、苦労したのは実地試験の練習と本試験だった。とにかく二種の実地試験は「安全確認」が恐ろしく厳しいのである。見たフリでは全然ダメで、助手席にいる試験官からは浩二は目の玉の動きまでじっと見られることになり、その緊迫感は尋常ではなかった。学科は一回でパスしたが、実地本試験は何度も落ち、やっと六回目で合格した時は嬉しさで涙が滲んだ。苦労したが浩二には「二種免許証」が交付され、やっとプロとしてのスタートとあいなったのである。

続いて行われたのは会社での新人教育である。Sタクシーでは山本さんという人が新人の教育係だった。山本さんは五十代半ばだろうか、この会社ではそれでもやや若いほうで、性格も明るく好感が持てる人だったが、教育はやはり厳しかった。それも当然で、乗務員は人の命を預かることになり、同時に

お客様に決して迷惑をかけないことは絶対だからである。

浩二はタクシーのことなど何も知らなかったが、この業界に足を踏むみ入れることでその世界を垣間見ることになる。Sタクシーは創業四十年の、M市東部では歴史あるタクシー会社だった。

そのおかげで個人は元より、営業地域内においては企業や病院も大口の顧客であり、信用は揺ぎ無いものを誇っていた。


「へえー知らなかった。タクシーは市内をクルクル走っているだけじゃないんですねー」

浩二の浅い考えの軽い言葉に山本が呆れる。

「当たり前だろ、竹内さん。一日中「流し」じゃ疲れ果ててしまうじゃないか。第一危ないしさあ」

「ところで流しってなんですか?」

「あのねえ・・・・」山本は浩二の無知ぶりに気を重くしたが、子供に言って聞かすようにゆっくりと説明を始めた。


「流しとは」 人の多い所を手を上げるお客を捜しながらタクシーをゆっくり走らせること。

       車は常に動いているので疲れるし、事故も起こしやすいが、人が多い大都会では一般的       な営業である。

「付け待ち」 駅やデパートやビジネスホテルのタクシーレーンで順番にお客が乗ってくるのを待つこ       と。車は止まったままなので疲れないし、事故の心配もない。

「配車待機」 決められたタクシー駐車場でじっと無線指令(配車)を待つこと。

       楽だが、ある程度地理を知らないと難しい。浩二のような、ど素人では無理である。


Sタクシーは顧客が多いので基本は「配車待機」だが、山本は素人の浩二のことを思うと頭痛に拍車がかかりそうだった。日が変わり、二人は顧客(個人宅、企業や病院等)の位置確認のため地道な教育が続いたのは言うまでもないことだった。位置確認はその後三日も続いたのである。



 びっしりと顧客の簡略な地図を書き込んだ自分のメモ帳を見るとイヤになるぼどだが、浩二は会社の勤務時間を山本さんに聞くとそれにも驚いてしまった。朝は八時からだが、終業は日の替わった午前一時までだと言う。「えっ」と思ったが、タクシーの仕事は一日が終わると次の日は休みなのだ。

「隔日勤務」と言うらしい。つまり月に十五日働き、十五日は休みなのである。一日の勤務は長いがその間、休憩も自由、短時間なら私用もOK、眠たくなれば寝ててもかまわないらしい。労働基準監督署の指導もあり、眠たい時にはむしろ事故防止のため、ゆっくりと休むことと各社に通達されている。


 これがタクシーの勤務状況かと浩二は初めての世界に驚愕するばかりだった。そして何よりも肝心なこと、気になる収入のことを山本さんに尋ねると、彼は微妙な笑顔で言った。

「あなたの頑張り次第だよ」と。「・・・・・」浩二は求人誌で見た内容を言った。

「三十万円以上可と書いてましたけど・・・・」

「嘘ではないよ。そんな人もいるにはいるけど。ま、免許もタダで取れたんだし、とりあえず頑張りなさい、竹内さん」

それで山本さんとは収入の会話は終わってしまった。何とも曖昧な言われ方だが、考え込んで躊躇する立場ではないのでやるしかないのだが、拭いきれない一抹の不安も浩二にあるのは確かだった。


ここでおさらい。

タクシー乗務員の給料は会社員にも関わらず、珍しいことに「歩合給」である。

歩合給とは月の売り上げに比例した給料のことである。乗務員に固定給制度は存在しない。(バスは別)さらに歩合率は会社によって異なる。利用者が多い都会では歩合率は高いが、逆に地方は低いのは、会社は利益を出さないと潰れてしまうので当たり前のことである。

ちなみに浩二が入社したSタクシーの歩合率は税抜き売り上げの50%である。

浩二が気にしていた三十万円の給料を貰おうとしたら、税抜きで月に六十万円の売り上げが必要だが、果たして新入りぺーぺーの浩二に、果たしてそれは可能なのだろうか?

そして彼の行く末は?・・・・



                       4



 そして十年後。右も左もわからないままタクシーの乗務員になった浩二だが、その仕事は意外なことに現在も続いていたのである。

経験十年といえば一見冷静沈着なベテランドライバーだと世間から思われがちだが、そんなこともなかった。今でも勘違いでよく道を間違えるし、あろうことかタクシーを運転していて違反し警察のお世話になったこともある。要するに浩二はそそっかしいのである。それでも自過失事故だけは何とか回避できており、今ではすっかりこの世界で呑気にあぐらをかいていた。


 十年前、当時教育係の山本さんに月の収入三十万円をこだわって聞いたことなどとっくに忘れていた。何故ならそのためには六十万円の売り上げが必要なのだが、たった十五日の隔日勤務ではほぼ無理な数字であることは間違いないからだ。浩二の住む町は大都会ではなく、たかがローカル都市でそれほど人も多くないのに三十万円の給料を得るのはほぼ不可能に近い。

 あとでわかったことだが、その乗務員は多分「日勤」なのだろう。日勤は隔勤とは違い毎日乗務しなければならない。勤務時間は夕方から次の日の朝までとなる。その毎日を繰り返す。休みは日曜だけ。

これじゃ疲れも取れないだろうし、聞くと日勤者は確かに稼ぐが事故率も高いらしい。

そんなタクシー漬けに「私はイヤだ」と感じた浩二は、月に十五日も休みがある今までの勤務をのんびりとゆったりと続けていたのである。

よって給料はそれなりだが、すでに五十五歳になった浩二はお金の執着など薄れてしまったのは、数年前に住宅ローンも完済したことが理由だった。


 妻の沙織は今でもパートで働いてるが、住宅ローンが終わったことで、以前のように「お金お金」と言わなくなったのは浩二にとって気が休まることだった。

我が家で最近で一番のニュースは、娘の加奈が去年結婚したことである。

昔、加奈が大学進学前に浩二がリストラされた時はどうなることかと心配したが、夫婦二人が働くことと奨学金のおかげで何とか乗り切ったのだ。その結果今はスッカラカンだが、何とかなるさと浩二は気軽なものだった。

休みも多く勤務中でも時間に余裕のある浩二の今の趣味は小説を読むことだった。

図書館に通いだしたのもこの仕事を始めてからだから、面白いものである。

というのも昔のように営業車の車内で住宅地図を熟読する必要がなくなったからだ。


 配車システムがデジタル化されたことにより乗務員の負担が大幅に軽減され、それにより自由になる時間が増えたのである。デジタル配車とは。以前はお客からの電話を配車係が受けるとモニターを見て、近い待機場所にいる数台のタクシーに順番に音声で配車の指令を出し、配車を無線で聞いた乗務員は手持ちの地図(知らない場所の場合)を見て急いでお客を迎えに行くのだが、ベテランであればとにかく、地理に疎い浩二のような新人では大変だった。

もし迷いでもしたらまた配車係に無線で聞き直さなければいけなかった。タクシーが遅れれば再びお客から苦情の電話が会社にかかるのである。浩二も昔は紙の地図を見ながら苦労したものだ。


 現在配車係はお客から電話を受けると場所を確認し、配車室のモニターの地図にマークを付け、キーボードでお客様情報を打ち込むと順番に待機車に送る。待機車には受信する端末と小さなモニターが装備されていて乗務員には画面による迎車(お迎え)情報が伝達される。

その画面にはお客の待つ地図までも添付されているから知らない場所でも、乗務員は難なく目的地へ到着できるのである。

ある意味TVゲーム的だが、おかげで浩二も紙の地図とは縁が切れたのである。

しかも車載の端末は多機能なので、お客を乗せた後、わかりにくい目的地も検索できるのである。

仕事に慣れたうえ、負担が軽くなった浩二は、もはや普通の仕事に戻りたいとは思わなくなっていた。

                       

 

                       5



 ある日浩二は待機場所で待機しながら車内で推理小説を熱心に読んでいた。

真昼間、公園で人を刺した犯人が走って警察から逃げる途中、通りかかったタクシーに強引に乗り込んだのだ。犯人の男は血の付いたナイフをかざし運転手を恫喝する。

「急いで走れ。警察を巻くんだ!」「あわわっ」

驚いた中年の運転手は犯人を後ろに乗せたままアクセルを強く踏み込むと、サイレンを鳴らして猛然とパトカーがタクシーを追う。

「もっと早く走るんだ。もたもたするな」犯人はナイフが触れるほど運転手の顔に近づける。ありがちなカーチェイスが始まった。なかなか面白い小説だった。非力なタクシーが大馬力のパトカーから逃げ切れるわけないが、創作物としてはよく書けている。「ピンポーン」その時浩二の車に配車指令が入信した。いいところで仕事が入った。

「あーあ・・・・」と浩二は仕方なく読みかけの文庫本を置くとゆっくりと車を出した。


 某科学系企業の事務棟にお客を迎えに行くと男性二人が待っていた。

浩二が「お待たせしました」と言って男性たちを乗せ、向かった先は駅だった。

お客の男性たちは出張者らしく、仕事としてはいつもの日常だった。駅に着き、タクシーチケットを貰うと浩二は「ありがとうございました」と明るく言った。再び待機場所に戻れば待機設定し、順番を待つことになる。この繰り返しの仕事だ。

 

 今読みかけている推理小説のように事件に巻き込まれたことなど今まで一度もないし、巻き込まれたい訳でもないが、あまりに平凡な人生は退屈である。今の会社に入社した十年前は何もかもが新鮮で、しかも慣れない仕事には苦労も多かったが、今では怠惰的ともいえる毎日を過ごしている。

仕事はしているが人より休みが多いので、時間つぶしに魚釣りや山の散策もしたがすぐに飽いてしまった。時間はあるがお金はないので、休みを取って旅行という贅沢もできない。第一相手が妻の沙織では何よりも心が弾むわけがない。浩二は戻るなりすぐに待機設定すると、先ほどの小説の続きを読み始めるのだった。浩二の今の趣味は読書である。


 長い勤務が終わり、やっと深夜の二時に家に戻るといつものように家は真っ暗で静まり返っていたが、浩二は仕事が終わった開放感に包まれていた。沙織はとっくに寝ているので安心してリビングでPCの電源を入れると氷を入れたグラスにウィスキーを注ぎ、一気に飲み込む。喉を焼くようにウィスキーが胃へと流れ落ちていく。「うまい!」

 今ではこの酒が飲みたくて仕事をしているようなものだ。PCでとりあえず今日のニュースに目を通すと「お気に入り」に取り込んでいる好きな女性歌手の楽曲を聴く。

心引かれるメロディに乗せられた叙情的な歌詞は何度聞いても心が揺さぶられる。酒に酔い、歌にも酔う。この時間こそ浩二にとって至福のひと時だ。じきに眠くなり、沙織とは別の自分の部屋に行くと、制服を脱ぎ捨てベッドに寝そべりながら明日(すでに今日だが)は何をしようかと何をするわけでもないのに夢の世界に浩二は静かに落ちていった。


 翌々日、浩二はいつものように仕事をしていた。

昨日は休み(明け休み)だったが充実した日々などとはかけ離れていた。

妻の沙織と二人だけの今の生活はどよんだ空気に包まれているようで、多分沙織も思いは浩二と変わらないことだろう。

夫婦になって三十年の年月は、二人を互いに空気のような存在へと染めている。

どこの夫婦も同じだろうが、出会った頃、付き合っていた頃がおとぎ話のようにさえ思えるのは空しいことだ。去年嫁に行った娘の加奈も三十年後は同じ心境になるのだろうか?

休みの日も浩二は何もすることがなく、図書館に行くことだけが唯一の楽しみになっていた。

そして借りた本は仕事に持っていき、待機している間に読みふけるのである。

普通は仕事中に読書するとかサボッているとしか思われないが、タクシーの場合待機中は自由にしていていいのだ。そして配車係からの指令を待つのである。

浩二は家にいても鬱々としているが、むしろ仕事に出ているほうが気持ちが充実していた。読みたい本を読み、接客となる仕事は軽い緊張と新鮮さに溢れている。加奈は嫁に行き、沙織は同居とはいえすでにどよんだ空気と化している。

近頃浩二は、最後まで(定年まで)この仕事でいいやとさえ思い始めていた。


 浩二は一昨日読んでいた推理小説はすでに読み終えていた。

人を刺して通りかかったタクシーに飛び乗った犯人はパトカーに追われていたが、タクシーがパトカーから逃げ切れるはずもなく、車は渋滞にはまり、焦った犯人はタクシーからナイフを手にしたまま走って逃げ出すという設定だったが、その後は思いもしない話に発展し面白い小説だった。しかし平凡過ぎるほど平凡に生きる自分にとって、非凡にまみれた犯人がうらやましくさえ思えてきたのはおかしなことだった。



                        6



 今までタクシー車内の忘れ物は結構ある。

傘、携帯電話、キー、帽子、財布、小さな手荷物などである。何であれお客の忘れ物はお客に返さなければならないのだが、面倒なことでもあり、乗務員は時間と労力を無駄に消費させられる。

どうしても降りたお客が見つからない時は、会社に持ち帰り、社で預かることになるが、それでもどうしても気になってしまうのは少しは良心があるからだろうか。


 ある日の勤務の夜。浩二はお客を目的地で降ろすと空車で待機場所へと急いで戻っていた。

この時点での売り上げはそこそこで浩二の気持ちは明るかったが、その気持ちはあることで急激に暗転することになる。誰もいないはずの後ろの席から「ピピピ」と聞きなれない電子音らしき音が響いたからだ。

 嫌な予感がした浩二はタクシーを急いで左に止め、ハザードを点滅させると一度車から降りて外から後席に乗り込み音源を捜す。電子音はするものの肝心の「モノ」が見つからない。

電子音はまだ続いている。ふと窓ガラス越しから見る外は暗く、車があわただしく走り去っていくが、歩道に人の姿はほとんどない。寂しい夜の風情だった。電子音はリヤシートの中から聞こえる。浩二はシートの角の隙間に右手を突っ込み、電子音を発する「モノ」を捜すと、手に硬い感触を感じた。

「見つけた!」

浩二が手にした「モノ}はシルバーの携帯電話だった。それもかなり古いタイプで驚く。

一体型だ。よく見るとムーバと表示があり、しかも液晶画面は小さくしかも白黒である。年代物というより歴史的な古さを感じる。一体何十年前の携帯電話だろう。マニアのコレクターが忘れたのだろうか?。浩二はそれをしみじみと眺めたが呼び出しの電子音はまだ続いていた。

画面を見ると非通知だったが、浩二は慌てて通話ボタンを押した。誰の忘れ物かわからないが、無くしたことに気づいた「落とし主」が電話をしてきたのだろう。こういうことは以前にもあったが、その時は薄いスマホだった。超古い昔の携帯とは珍しいことだが、どちらにしても大事なものだ。

何処何処へ持ってきてほしいとお客の懇願する言葉が予想できた。


「はい、もしもし。私Sタクシーの竹内です。この携帯はお客様の忘れ物ですね。すぐにお返しに行きますよ。どこへ行けばいいでしょうか?」

浩二は一方的に話したのは、この古い携帯は今日何十人か乗せたお客の誰かが忘れたものに違いないからだ。(ああ、面倒なことになったなあ・・・・)浩二は心で呟いたが、仕事上仕方がないことである。ところが電話からの声は・・・・


「わたし。わかるコーちゃん?・・・・」

「えっ?」


 電話からは明らかに若いと思える女の可憐な声が聞こえた。しかも浩二のことを「コーちゃん」などとなれなれしく呼ぶではないか。誰だ?浩二はあまりのことで言葉が詰まる。

「えーと・・・・」この女は一体誰なんだ?

「コーちゃん、今仕事中なの?じゃまた電話するね。その携帯必ず持っててよ・・・・」


「あ・・・・」浩二が何も言葉を返す間もないまま、通話がぷつりと切れた。唖然とする。

頭がひどく混乱したまま運転席へと戻ると念のために日報用紙を見直した。

日報用紙とはその日の大切な記録であり給料の基本となるものである。お客を目的地に送り届けるたびに記録を書き込むのだ。移動場所、人数、売り上げ、男女の別など。万一事件が発生し容疑者がタクシーを利用した可能性があれば、警察がこの日報を閲覧することもある。


 浩二はあたかも刑事のように今日の日報をじーっと見ると、同時に乗せたお客の様子を思い出していた。今まで(午後八時)のご乗車回数は十五回だったが特に気になる人はいなかった気がする。

会社員の男性、高齢者、おばさん、遊び人風の男女、学生などのおぼろげな記憶があるが、どうにもこうにも・・・・何がなんだか・・・・

お客の忘れ物としか思えない古い携帯。

ところがこの携帯が平凡にまみれて生きる浩二を、読み終えた小説の犯人のように、非凡な世界に引きずり込まれるとは、まさかにも思ってもいなかったのである。


 その後の浩二の仕事は集中力に欠いていた。

車内で拾い、胸ポケットにしまった古い携帯が妙に気になるからである。

いつ呼び出し音が鳴るのだろう。鳴ったとして私は電話に出るべきなのか?

あの若い声の女は私を気安く「コーちゃん」などと呼んだが、一体誰だろう?浩二は待機中に本を読むことが多いが、謎の携帯のことが気になり、今夜はとても本など読む気にはならなかったが、気を紛らすために読み終えた推理小説の話の一部を思い起こす。


 公園で人を刺し、走って逃げていた犯人は通りかかったタクシーに飛び乗ると、ナイフを運転手にかざし、追ってきたパトカーから必死に逃げた。ところがタクシーは渋滞にはまると、焦った犯人は飛び降り、走ってさらに逃げる。それからの展開はこうだった。


 逃げる途中、犯人はポケットから携帯スマホではなくガラケーだを取り出し、ある親しい女へと電話をする。もし自分が警察に捕らえられたら実刑は免れないから、自分のアパートの自室にある重要な書類を女に預かってもらいたいからだった。部屋のキーは女も持っている。犯人は逃げながらも必死で女へと電話する。女の名はマユミだ。普段は「マユ」と呼んでいた。コール音が響く。

「マユ早く出ろ!」犯人はイライラしたがやっと女が出た。

「はいマユでーす。りんちゃんだね。どーしたの?」

電話した犯人の名前は林太郎だ。知人からはいつもりんちゃんと呼ばれていた。


「お、おいマユ。時間がないからよく聞くんだ。アパートの俺の部屋の机の上に封筒に入った大事な書類がある。頼む、お前が預かっていてくれ!」

それだけ言うと林太郎の携帯が突然手から吹っ飛んだ。追いついた刑事に取り押さえられたからだ。

それでもぎりぎりで「マユ」に伝えることはできたはずだったが・・・・「マユ」はポカンとしていた。「なーに今の電話。声はりんちゃんみたいだったけど、あたし彼のアパートなんて知らないし。へんなの・・・・」

 林太郎は逃げるのに焦るあまり、登録者番号の選択を間違えた。悪いことに「マユ」という名の女は二人いて、めんどぐさがりな林太郎は、Aマユ、Bマユなどと間違いやすい名で登録していたのだ。

林太郎の本命の彼女はAマユで、Bマユは飲み屋で引っ掛けた女だった。林太郎は間違えてBマユに電話をしてしまったのである。林太郎は大事な情報伝達において自分の手抜きとはいえ大きなミスを犯したが、小説ではこのミスが新たな展開を生むことへとなる。


 要するにこの小説の話にあるようなことではないのだろうかと浩二は思った。

電話の女が似たような登録者名で複数の登録をし、何故か間違えたのだ。「コーちゃん」と彼女が言ったのは、たまたまの偶然なのだ。古すぎる携帯もたまたまで、シートの中に落ち込んでいたのもたまたまで、非通知なのも・・・・

たまたまばかりだなと浩二は悩んだが、長く生きていればこういうこともあるだろうと自分を納得させるしかなかった。


                       7



 たまたまな偶然にいつまでも翻弄されるわけにはいかないと思った浩二は、気持ちを切り替え仕事に専念した。とはいえタクシーは一回お客を乗せて走れば、再度待機して仕事を待つというシステム上どうしても空き時間(待ち時間)ができる。

 今夜は本を読む気になれない浩二は胸ポケットに入れた古い携帯を興味深く手にした。今だに浩二も古いガラケーだが、車内で拾った携帯はそれよりも明らかに相当古い。

不思議なことにバッテリーは満タンだった。浩二は悪いこととは知りながら登録している番号を覗いたが、これまた不思議なことに登録者番号はゼロだった。

この携帯の持ち主は人に電話する時、紙のメモでもいちいち見ながら電話するのだろうか?ありえないことである。浩二はもしまたあの女性から電話がかかればこう言おうと予習していた。


「あのー私は竹内浩二ですよ。一応コーちゃんにはなりますが、あなたはどちらのコーちゃんにおかけですか?というか、この携帯はすぐにでもお返しに行きますからお宅の住所を教えてもらえませんか?」

持ち主不明の携帯など、持っているだけでも落ち着かないものだ。だれの物か知らないが早く返してスッキリしたいと浩二は心の準備を始めていたのだが、ところが・・・・


 今か今かと待っていたのだが、結局、古い携帯がその夜は鳴ることはなかった。

週末でもありタクシーは忙しく、やっと家に帰り着いた浩二は疲れ果てていたが、いつものようにウィスキーをロックで飲み干すと、その疲れも次第に癒されていった。浩二は着替えもせずに一人で食卓に腰掛けている。時間はすでに午前二時を過ぎていた。妻の沙織はとっくに部屋で休んでいる。浩二は二杯目のグラスを傾けながらぼんやりと考え事をしていた。

 

 浩二の両親は三年前に相次いで亡くなり、沙織の両親は存命だがすでに介護施設で世話になる身だ。一人娘の加奈は去年嫁に行ってしまい、妻の沙織とはすでに冷めた関係で、ほとんど会話らしい会話もない。「夜の生活」いや「夜の性活」も十年以上はご無沙汰だが、いまさら沙織を抱きたいなどとは思わないし、沙織もきっと同じ思いだろう。

それでいうと娘の加奈は二十四歳だから、夫婦としてはこれからだ。いずれ子供もできるだろうし、若さゆえ将来は夢と希望に溢れていることだろう。


「うらやましいな・・・・」浩二はウィスキーを飲みながらぼそりと呟く。

「私は・・・・」浩二の目が憂いを帯びる。

(私はこれからも運転手を続けていくことだろう。今からも沙織は妻であり続け、私は夫であり続ける。新妻の加奈は家庭を持ち、夢はあるだろうが私たち熟年夫婦にはさしたる夢などもなく、寂しく老いていくだけなのか。人生は空しいことだな・・・・・)


 今夜の浩二はPCで好きな音楽も聞かず、一人で物思いに漬かっていたのはふと将来のことを考えたからだったが、考えてもどうにもならないとは頭でわかっていても、時にはこんな夜もある。

考えてもどうにもならないことは、行き詰まりも早く、濃いアルコールが浩二のまぶたを急激に重くしていた。部屋に行き、着替えて寝ようかと浩二がふらりと立ち上がった時、すでに存在を忘れてかけていた上着の内ポケットに入れていた例の古い携帯が「ピピピ」と鳴ったのである。


 思いもかけないことで慌てた浩二は急いで電話に出る。

多分いろんな偶然の間違いが重なったのだろう。すでどう言おうかとは復習しているので、浩二は落ち着いて言葉を繰り出した。やはり着信は非通知だった。

「あ、あの私は運転手の竹内ですよ。オタクはどちらの「コーちゃん」におかけですか?私は竹内浩二ですが・・・・」「あっごめんなさい。私の間違いでしたその古い携帯返してもらえますか?本当にごめんなさい」と若い女が言うだろうと浩二は自信を持って予測したのだが・・・・


 「やだ、コーちゃん私だよ。私の声を忘れたの?久しぶりだから無理もないか」

予想外の女の反応に浩二の思考回路はショートした。

「オ、オタクはどなたでしょうか?」

そう聞き返した浩二は女の次の言葉が信じられなかった。

「コーちゃん、山科恵美子を忘れたの?」

「恵美子?・・・・ま、まさか・・・・嘘だろう・・・・」



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  「山科恵美子」は若い頃、浩二が前の職場で彼女だった女性だ。それは随分と昔のことである。

当時浩二は二十七歳、恵美子は二十二歳だったが、浩二は恵美子との交際で将来の婚約を予感していた。恵美子との交際は一年経っていたが、恋愛の熱い感情は冷めることはなかった。

デートは食事に始まり、ラブホに通うことになるまで時間はかからなかった。ベッドで恵美子と浩二が合体すると恵美子は浩二の背中にいつも生々しい爪あとを残していた。

「コーちゃん!もっとよ!」と歓喜の声を発しながら。


 そうだ、やっと思い出した。

恵美子は交際当時、浩二のことをいつも親しげに「コーちゃん」と呼んでいたのだった。

ならばこの古い携帯は?当時まだ携帯電話など普及していなかったはずだが。

そして燃え盛る二人に割り込んできたのが妻の沙織だった。

高卒で派遣社員という身分の恵美子に対し、大卒、正社員という強力な武器を持つ沙織は積極的に浩二にアプローチを仕掛けてきたのである。最初は拒んでいた浩二だっが、プライドのある沙織はその手を緩めなかった。ついに浩二は女二人を結婚という名の天秤に乗せてしまい、悪いことにすでに今は亡くなった両親も、沙織のアプローチを応援したのである。

結果、浩二をモノにしたのは、今の妻である沙織だったのである。


 その後、恵美子は失意のあまり退社してしまい、連絡も途絶えた。そして現在、浩二の両親はすでにこの世にはいず、恵美子のことはとっくに忘却の彼方へと消えていたのだが・・・・

その恵美子からの深夜の電話に浩二は溢れる動揺を隠せなかったのは当然だった。


「恵美子、今までどうしてたんだ。何故私に電話など。一体どこから・・・・」

浩二はあまりのことで言葉がしどろもどろだった。とはいえ、遠い昔に恵美子と付き合っていた頃の懐かしさがこみ上げてくる。それはとっくに中年となり、感動やら感激やらををすっかり忘れた男の非日常ともいえる初々しい気持ちだった。

 

 浩二は食卓の椅子に座り、耳に当てた古い携帯を握りしめる。その手の内側に汗がじんわりと滲んでくる。しかもその手は細かく震えていた。

「私とコーちゃんが昔、付き合ってた頃、楽しかったよねー」

恵美子は浩二の質問を無視するように話しだしたが、その声は明るく、なぜか若く聞こえた。

声が若い?疑問を感じた浩二がゆっくりと声を絞り出す。

「え、恵美子。私はもう五十五だよ。君も五十になったんだろう?」


 浩二と恵美子の歳の差は五歳だから当たり前のことだが、そうだとすると電話からの声があまりにも若いのは不自然としか思えなかった。

「ふふふ」恵美子は含み笑いをして、少し間を空け自分の歳を言ったが、それはにわかには信じられないことだった。


「私二十四だよ。コーちゃん、驚いたでしょ?」


「二十四!」悪い冗談かと思った浩二はこの電話はどこからしていると尋ねると、恵美子は平然と

「天国からだよ」と言った。

「天国!」

昔から恵美子はくだらないジョークを言わない女だったが、私とさほど変わらない歳のはずなのに、なぜか二十四で、しかもこの電話は天国からしているという。しかし声は確かに恵美子の声だった。


 紺色の制服を着たままの浩二は一人食卓に腰かけ、テーブルの上には飲みかけのウィスキーグラスが汗をかいていた。部屋には照明がこうこうと灯り、一切の音声は遮断され静寂に包まれている。

窓の外は黒い絵の具のような暗闇で塗り潰され、朝はまだ遠い。

「二十四」「天国」という単語が浩二の頭から離れ、このダイニング内をふわふわと浮遊しているようだった。頭を整理しようとしたが、ブラックジョークとしか思えない話は整理できるはずもなく、混乱したままで受話器から恵美子に問いかけた。


「私はそんな冗談嫌いだよ」浩二は恵美子に毅然と言った。ところが。

「私も下界の人には信じられないかもと思ったけどさ・・・・」

恵美子のトーンが下がり声質が低くなる。下界? 意味がわからなかったが浩二は少し慌てて謝る。

「気を悪くしたらごめんな、恵美子・・・・」

それは浩二が恵美子と付き合っていた頃、よく口にした言葉だった。浩二は自分の失言で彼女が気を悪くしたと感じたらすぐに謝っていた。その点は素直だったのである。恵美子は思わず笑った。

「あーコーちゃんのその言い方、昔と変わってないねー。ふふっおかしい」

浩二もつられて笑った。「ふふふ」「あはは」「ふふふ」「あはは」


 笑うと浩二は気持ちが少しだけ落ち着いてくる。改めて神妙に言った。「本当に?」

その問いかけは愚問でしかない。しかし恵美子はその問いに軽い笑い声など出さなかった。

恵美子は付き合っていた頃のように浩二に神妙に話し出す。それはファンタジーノベルでさえも足元にも及ばないような驚愕の内容だったのである。


 「私はあなたと別れてから会社を辞めたのは知っているでしょ?つらかったけど、再就職した会社である男の人と出会ったの。心を許せる人でやっとコーちゃんのことが忘れられると思った。何度目かのデートの時飲みに行ったんだけど、彼は車だった。

昔は飲酒運転に警察も甘かったから飲んだ後二人で車で帰ったのよ。彼は酒のせいでうっかり信号無視をしてしまった。そして大型トラックと衝突して乗っていた二人はその場で死んじゃったの」

「・・・・それで?」としか浩二は言い返せなかった。何故ならこの話は最初から信じられるとは到底思えないからだ。

「私はその時二十四で天国に行ったの。だから今でも二十四のままなの。天国での歳は死んだ時のままなのよ」

「・・・・・」浩二は無言で彼女の話を聞いていた。笑いたいのを必死でこらえていたのは、それを信じるほうが異常な精神状態だと思ったからだ。

電話は確かに恵美子の声だし、若くも感じるのだが何よりも確約したものが乏しい。電話でのもっとらしい話など「オレオレ詐欺」と五十歩百歩ではないだろうか。その不可思議な疑問を何と言葉で返せばいいのだろう。浩二の口は貝のように閉じ、体は石のように固まっていた。

「あーコーちゃん、私の話信じてないねー」

「当たり前だろ」と言いたかったが浩二はその言葉をぐっと飲み込む。これはきっと夢だ、夢に違いない。私は疲れて仕事から帰り、家でウィスキーに酔ったのかもしれないと思った。誰かこのおかしな夢を見ている私を揺り動かし夢から目を覚まさせててくれ。古い携帯を握ったまま、浩二はそう思った。


「やっぱり信じてもらえないのね・・・・」

恵美子は悲しそうだったが、思い出したように古い携帯のことを話し出す。

「コーちゃん。その携帯はね、私が死んだ時に持っていたものなのよ。死んだ人が身に付けていたものは天国だけには持っていけるの」

「え?」浩二はふと疑問を聞いてみる。

「恵美子はどうやって私に電話してるんだ?天国からの携帯か?スマホもあるのか?」

「ふふふ。天国に電話があるわけないでしょ。私がコーちゃんを想う「念」だけでこうしてお話ができるのよ」ますます浩二の頭が混乱してきたが、逆に開き直る気持ちも次第に芽生えてきた。


「じゃあ聞くけど、運転していた当時の「彼」はどうしたんだ?ひょっとして傍にいるんじゃないのか」浩二は恵美子の話で嫉妬をその男に覚えていた。それは昔、恵美子を本当に愛していたからにほかならなかったからである。

「彼も死んじゃったけど、ここ(天国)にはいないのよ。飲酒運転で私を死なせた報いで彼は「地獄2」にいるもの。」「地獄2?」「何だそれ?」恵美子は続ける。

「下界の人は知らないでしょうけど、本来天国や地獄には死ぬまでの経歴で「ランク付け」されているのよ。「地獄1」はすごく悪いことをして死んだ人が行く所。「地獄2」は過失や不可抗力で人に迷惑をかけた人が行く所。「天国1」は超善人だった人が行く所だし、私のいる「天国2」は普通に生きていた人が行く所なの。ここには多くの人が平和に暮らしているわ」

疑問だらけの浩二がまたも疑問を恵美子にぶつける。


「そ、その君は天国2とやらのどこに住んでいるんだよ?」

浩二は思いっきり現実的なことを聞くと・・・・

「巨大な公営団地みたいな所かな。何十万戸もあるのよ」

「病院やスーパーは?・・・・」

「ばかね、コーちゃんは。死んでいるのにそんなものあるわけないでしょ。おなかが減っても死ぬことは絶対ないの。もう死んでいるんだもの」

「どうしてもおなかが減ったらどうするんだ?」

「その時は天国の空気を思いっきり吸うのよ。それだけでここでは空腹は満たされるんだから」

へえーいい所だなーと浩二は思った。思わず冗談で言った。

「私も住みたいなー」「ばか」途端に恵美子の可愛い声が飛んできた。


 浩二は恵美子の言葉で天国の想像を巡らしたが不可能だった。言えることは彼女はことのほか元気そうなことだった。天国の話はともかく、こうして彼女と話していると遠い昔、二人が付き合っていた頃が懐かしく蘇る。浩二はいいおじさんだが、恵美子は驚くことに二十四歳だという。しかも永久に。

娘の加奈と同い年ではないか。彼女の声は若い女性特有の甘さと活気がある。それはすっかり萎んでいた浩二の心を若者のようなときめきを蘇らせていた。恥ずかしいことに浩二は勃起していたのである。


「ひまな時は何してんだ?」「散歩したり絵を描いたり、コーちゃんのことを思ったり」

(可愛いヤツ)と浩二は頬がだらしなく緩んだ。

「地獄2に行った彼のことは?」またも嫉妬だったが恵美子はあっさりと言った。

「彼のことはもう忘れた。飲酒運転の車に私を平気で乗せるような人だもの」

確かにそうかもしれない。そのせいでかって愛していた恵美子が死んだのだから。浩二はその男が次第に憎く思えてきた。恵美子は天国に行ってから、直前の彼に失望し、浩二のことを想ったのだった。

 

 天国から下界の人への連絡は資格審査があるらしい。天国にきて二十五年間まじめに暮らした人にだけ、その権利があるという。しかしその権利を持つ人は天国2で多いのに、意外にも希望者は少ないという。その理由は死んで二十五年も経って、かっての肉親や友人知人と話すことなどないし、直接会えないことへの不満もある。どちらにしてもその人たちもいずれはここに来るのだから。

それまで待って顔を突き合わせて「積もる話」をしたい人が多いと言う。そんなものなのか・・・・死んでいるのに人間の心理とは不思議だなと浩二は心を揺らしたが、そんな中、恵美子はこうして私に電話してくれたと思うと嬉しくて仕方ない。電話をしながらも笑顔がこぼれた。

浩二は夢でも何でもいいから恵美子とこのままいつまでも話したくなっていた。

浩二はいろんなことを聞きたくなった。


 天国に四季はあるのか?電気製品は使えるのか?海や川や山などの自然はあるのか?天国での人との交流は?

取り留めなく浩二は話し続ける。付き合っていた時もこうだった。いつも恵美子は笑顔で浩二の話に付き合ってくれ、浩二は心がほんのりと癒されるのだった。時間が経ち窓の外が微かに明るくなりかけていた。「じゃコーちゃん。また電話するね」と恵美子が言ったので浩二は悲しい気持ちに陥ったが、元気を出して「恵美子、本当にまた電話してくれよな」



                       9



 その時リビングのドアが静かに開き、驚いたような顔を見せたのは沙織だった。青いパジャマを着て黒いままのショートヘアは寝癖のようになっている。窓からは朝日の光が差し込んでいた。

「あなた、何してんの?もう朝だけど」浩二は古い携帯をすでにしまった後でよかったと胸をなでおろした。慌てて言い訳を口にする。

「飲みながらPCで音楽聴いていたらこんな時間になったんだよ。もう寝るよ」

そう言うと沙織は「ふーん。随分とご熱心なことねえ」とさほど気にする様子もなく皮肉を言った。

 昔はこんな嫌味な女じゃなかったのに。浩二は沙織と付き合ってた頃を思い出す。

昔の沙織は可愛かったが、プライドも高く勝気な女だった。

浩二は今はともかく以前の会社では上司の評価も高かったのだ。評価とはあらゆることに対応できる能力をいう。それは浩二の素直さが認知されていたからだった。その時すでに恵美子と付き合っていたのだが、目をつけた沙織は浩二に急接近してきた。正社員という強大な武器をかざして。当時存命だった両親も沙織の味方だった。身分を気にする両親は「正社員」の沙織に惑わされたのである。正社員の浩二は三人に洗脳され、最初は抵抗したが、陥落するのに時間はさほどかからなかった。負け組となった派遣社員の恵美子はその後会社を辞めた。


結婚式は社員同士ということで上司や同僚などの出席も多く宴は盛り上がり、両家の親たちも満足そうだった。一年後に加奈が生まれたが、皮肉にも加奈の性格は母親の沙織そっくりだったのである。

美人だが勝気でプライドが高い。それは決して悪いことではないが、少なくとも浩二にとって決してプラスとなることではなく、むしろ恵美子のように控えめで素直な女性のほうが自分の波長と合うなと思っていた。


 社員などいう勲章は会社が倒れれば何の価値もないことに気づくべきだった。

今は平凡なタクシーの乗務員でしかない浩二は古い携帯での恵美子との会話を思い出す。

昔と変わらない恵美子の明るく屈託ない話し方は浩二にとって太陽のように魅力的だった。沙織のように皮肉も言わずケラケラと笑う恵美子。沙織との結婚は失敗だったのか?

浩二の心には、沙織を選んだことは間違いではなかったのかという深い後悔が今更ながらに芽生えていたのだった。


 朝まで起きていたので浩二が目を覚ますとすでに昼を過ぎていた。

沙織は仕事に出かけていて家には浩二だけだった。パジャマのまま二階から一階のリビングに行き、食卓の椅子に腰掛けるとアイスコーヒーを飲みながら新聞に目を通す。例の古い携帯は当然ながら持っている。 古い携帯を改めて見つめる。傷だらけの昔の携帯は見つめるほど恵美子が傍にいる錯覚すら覚える。

「恵美子・・・・」と浩二は静かに呟いた。本当はこちらから電話をしたいのだが、物理的に下界から天国には連絡できないのだ。浩二は恵美子の電話を待つしかなかった。今日は休みなのに何もすることがない。もし恵美子と今日会えたならと想像が膨らんできたが、それは夢のように楽しいことばかりだった。

浩二は今では推理小説が好きなので想像力は作家並みだが、うっかりと大事なことを忘れていた。

 それは年齢差のことだ。浩二は今五十五歳だが恵美子は二十四歳である。親子ほどの歳の差カップルを世間はどう見るのだろうか?嫉妬や妬みの集中砲火だろうか。それとも不倫カップルだと誤解されるだろうか。芸能人ならともかく、こんなくたびれたおじさんの元彼女が若い娘とは恥ずかしい。


 第一恵美子も、昔付き合っていた頃の若かった私しか知らないはずだ。仮に再会したとして私の変貌振りに驚くのではないか?若い人ばかりのカフェでも行ったらそのアンバランス振りに店から浮いてしまうことだろう。

 考えるほど人が多い所でのデートは無理があるから、やはりラブホだろうか。ラブホなら二人きりだから人と会うこともないが心配なことがひとつある。昔のように男らしく元気に「勃起」するかという心配だ。恵美子を女として喜ばせたいのだが。「うーーーん」とここで浩二は頭を抱えてしまう。

「それはやっぱり自信がないなあ・・・・」



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 隔日勤務のタクシーの仕事は休みが多いので時間をつぶすことが案外大変だ。

浩二の場合最初は一人で魚釣りに出かけたが、岸からの釣りでは大物は針に掛からずじきに飽いてくる。それでも釣り糸を垂らしながらぼんやり考えていると、今の仕事も魚釣りと同じだなあと思った。釣りの場合、仕掛けである程度狙った魚を釣ることができるが、それでも海から何が釣れるかなどわかるはずがない。

 タクシーも同じである。浩二の会社では市内に三箇所のタクシー待機所があるが、どこで待機するかは乗務員の自由だ。ここでいう待機所は釣りでいう「ポイント」になる。そこでは常時数台のタクシーが順番に仕事を待っている。

この時間こそ浩二が好きな推理小説を読む時間となるのだが、いずれ配車指令が入信する。タクシーを必要とするお客はウチの会社に依頼の電話をし、電話を受けた配車係は、目の前のモニターを見ながら、お客から最も近い待機所を捜し、順番通りにその営業車に指令を発信するのだが、配車係の仕事はそこまでで乗務員がどんな仕事に当たるかはまさに「運」次第なのである。


 長いこと待たされてやっときた仕事は、ソコからソコまでの超短距離の仕事もあるし、考えられないほどの長距離の仕事もあるが乗務員に仕事は選べない。成り行きに任せるしかないのである。

だから魚釣りみたいだなと思ったのだが、その業務内容でこの仕事は濃いギャンブル性を含んでおり、浩二は退屈な魚釣りよりも、自由に本も読め、ギャンブル的ともいえる仕事に出たほうが楽しいとさえ思っていた。


 今日も浩二は車内でぼんやりしていた。

他の乗務員は車外に出て煙草を吹かしながら世間話に興じているが、その輪に入る気はないのは本を読むほうが楽しいからなのだが、ところが今日は様子が違っていた。浩二は古い携帯が鳴るのを心待ちしながら物思いにふけっていたのだ。少し前の懐かしく楽しかった恵美子との会話を思い出しながら。


 信じられないがネットで調べると、この携帯の機種は恵美子が交通事故で死んだ頃に確かに発売されていたものだった。不思議なのは何時間も恵美子と話したのにバッテリーが少しも減らないことだ。

それと大きな疑問がある。この携帯は誰が浩二のタクシーに置いていったのだろうか?

これは忘れ物ではない。恵美子が浩二と連絡するためにわざと見えにくい所に誰かが置いていったのだ。一体誰が?そのことを天国の恵美子に聞き忘れたのは失敗だった。


 再び携帯を拾った日のことを念入りに探った。不審なお客、不審なお客、不審なお客・・・・・

 一人だけ変わったお客を乗せたことを思い出す。あの日の夜のことだった。

待機していると指令が入信し文字情報を見ると近くのK総合病院の正面玄関で「女性のお客様」と表示してある。すぐに病院に行くとすでにおばあちゃんらしき人が待っていたが、妙な格好をしていた。

サングラスをかけ、白いマスクをし、大きな帽子を被っている。マスクはともかく夜なのにサングラスはいらないのでは。夜にお年寄りがサングラスなどかえって危ないのでは。当然その人の顔はまるでわからなかった。ご乗車されたので行き先を尋ねると最寄の駅だったが、おかしかったのはそのあとだ。

 走り出してすぐにそのおばあちゃんは、

「あっ忘れ物した。運転手さん悪いけど病院にまた戻ってくれんかねえ。もうタクシーはいいからねえ」ええっと思ったが仕方なく浩二は病院に戻ることを余儀なくされた。

料金は初乗り料金の六百四十円なり。

あーあ。しかしその人が恵美子の古い携帯をタクシーに残していった証拠など何もない。やっぱり違うか・・・・


 浩二は暇なので読み終えた推理小説のことを思い起こしていた。何故かというとその本のありえない 話に笑えたからである。

 人を刺して警察から逃げていた林太郎は間違えてBマユに電話してしまい直後に追ってきた警察に拘束される。本命彼女のAマユに頼みたかったことは林太郎の部屋にある書類を持ち出しててほしかったのだ。実はこの書類はある企業の不正経理(脱税)の証拠書類のコピーだった。林太郎はそれをタネに経理部長を公園に呼び出し口だけで脅していたのだ。

「証拠のコピーは俺の部屋にある。国税局と警察に知られたくなければ一千万円出せ」と。

ところが林太郎は経理部長と一緒にいた部下の男に逆に殴られる。激怒した林太郎はその男を刺して逃げる。こういう状況だと林太郎の部屋に警察の家宅捜査が入るのは必至である。書類は簡単に没収され、林太郎は金づるを失い、恐喝と殺人未遂で服役となる。そうなると林太郎の人生は終わりだ。

ところが終わりではなかった。この先の展開に苦しんだ作者がとんでもない話を進めていた。


 林太郎は逮捕され警察で取調べを受けていた。林太郎の考えることはただひとつ。Aマユがちゃんと部屋の大事な書類を持っていったかだ。ところが勘違いでBマユにそれを頼んだ。ところが林太郎の大ピンチを救ったのは「天国」の母親だった。

その日の深夜、林太郎の町を放火犯がうろついていた。放火する建物を物色していたが、天国の母親は放火犯に「念」を送り、息子(林太郎)の部屋がある木造アパートを火事にした。アパートは全焼し書類も燃えて無くなった。つまりリセットされたのである。

いい歳をしていつまでも働かず、悪いことばかりする林太郎を母親は天国に行っても心配していた。証拠の書類が燃えてしまったので林太郎の罪は殺人未遂だけとなったが、大家が火災保険金を借主に見舞金として出してくれた。林太郎はその金を保釈金に使い早々に娑婆に戻るとまたも悪事を考えるのだった。懲りないヤツ・・・・推理小説なのに途中でファンタジー風に変わる珍しい小説だったのである。

                      


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 浩二の妻の沙織は悩みを抱えていた。去年一人娘の加奈が嫁いだことが原因である。

沙織は美人だが昔から気が強くプライドも高かった。中学、高校、大学では文化部の部長だったし、何かほしいものがあれば実力で手中に収めることに自信もあった。

就職した会社では先輩にあたる浩二に目をつけ、契約社員の彼女がいるのに自慢の美貌と押しの一手で奪い取った。

浩二の両親も正社員の沙織を応援してくれ、ついに結婚までこぎつけた。今考えると若かったとはいえあんなオッサンのどこが良かったのか忘れたが、当時の浩二はキラキラと光っていたような気がして、ヒカリモノの好きな沙織は人の宝石を盗んででも手に入れたかったのだ。


じきに加奈が生まれ、すくすくと育ったが大きく育つほど沙織に似てきた。と同時に浩二から沙織の心は離れていき、逆に加奈へと強く寄り添うことになる。二人の絆は強く、高校の三者面談では担任の先生に「まさかお姉さんですか?」と驚かれたほど二人は歳の離れた美人姉妹の様だった。

「加奈は私のもの、私は加奈のもの」

その思いが強くなるほど浩二の存在は希薄になった。沙織の心情は加奈にも以心伝心し、二人が浩二を見る目は冷たくなるばかりだったが、決定的となったのは浩二がリストラされた時だった。それでも浩二はタクシー会社に就職し、沙織はパートで働く。楽ではなかったが何とか加奈は大学を卒業した。加奈は就職し、社内恋愛で去年結婚した。夫となった人は良い人で問題はないが、一心同体の加奈を奪われた沙織の失望は大きかった。

浩二の家では夫婦二人きりとなり、お互いがまるでどよんだ空気のようで、二人とも心の中には北風がぴゅうと冷たく吹きすさぶように現在へと至るのである。


 天国の電話から一週間後。昼、家で一人でいた浩二に待ち望んでいた電話がやっとがかかる。

沙織は仕事で留守だ。浩二の邪魔をするものは誰もいない。

「恵美子だ!」まるで恋する中学生男子のように胸を弾ませ古い携帯を手にする。

しかし電話の相手は想像を超える人物だったのである。


 去年嫁にいった加奈は二十四歳で結婚する予定ではなかった。

まだ仕事を続けたかったし、気軽な独身者として時間とお金を好きに使いたかった。

夫となる祐一は三十三歳で、彼も加奈の意思を尊重していたのだが、彼の親がそれを許してくれなかったのだ。祐一は長男なのでどうやら彼の両親は、初孫を早く見たかった素振りがある。従って加奈は予定を早めて結婚したのだが、それはそれで良かったとも思っていた。なぜなら実家から通勤していた加奈は、この家を早く出たいという気持ちも少なからずあったからだ。


 母は好きだが、父も好きだった。ところが加奈はその気持ちを表面的に表すことをためらった。なぜならそうすることで母が露骨に不機嫌になるからだ。

家の中にいると常に母が加奈にまとわり付いてくる。母の口からは「加奈、加奈」と彼女を呼ぶ声が途絶えることがない。幼い子供が母にまとわりつくように。まるで親子の逆の状況に加奈は、

(私はお母さんのお母さんじゃないよ。私はあなたの娘だよ)と何度思ったことか。加奈が子供の頃、学校行事で親の出席が必要な時、顔を出すのは100パーセント母だった。父は仕事が忙しかったこともあるが、休もうと思えばいつでも休めたはず。

それを阻止したのはやはり母だった。入学式、PTA総会、授業参観、運動会、文化祭、卒業式、父兄懇親会など。いつも全て母だけが出席してくれた。それは嬉しいことだったが、とはいえ父親の顔を見られない寂しさも感じた。それでも加奈に寄り添う母はいつも笑顔に溢れていた。


 加奈は母に対する感謝の気持ちと、父に寄り添えてもらえない寂しい気持ちもある。それは美人だが気の強い母の影響が多大だったが、それを突破できない自分の気持ちの弱さもある。

我が家にはピンチに陥った時がある。加奈が大学に進学する前に父が長く勤務する会社が倒れた時だ。慌てた母も働きに出たが、父がタクシーの運転手に転身したのには驚いた。


 父は言葉には出さないが、加奈の進学や生活のため、ちゃんと行動を起こしてくれたのだ。それなのに加奈は父に態度で感謝を表現できなかった。母の影響により・・・・

そのジレンマがあり加奈は家を早く出たかったのである。結婚をより早めたのもこの二つの理由によるものだった。

                       

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 その加奈の気持ちなど知るはずもない浩二は、浮き立つ気持ちで古い携帯を耳に当てていた。

待ちかねた恵美子からだ。ところが聞こえた声は想像を超える人からだったのである。

「浩二、久しぶりじゃねえ」と老人のような女の声が耳に響いた。

「だ、誰ですか?・・・・」

てっきり恵美子からだと思ったので飛び上がるように驚いた。

「わからんのか浩二。お前の母の君子じゃよ」

「ええーーーーっ」浩二は絶句する。亡くなった母がどうしてこの電話に。一体なぜ?なぜ?なぜ?


「私の傍には恵美子さんがいるんじゃ。恵美子さんは「念」でお前とで話ができるが、私には天国の居住不足で「念」はまだないが、恵美子さんに体の一部が触れてさえいればお前と話ができるんじゃ」

母は天国で恵美子の手をしっかりと握って話しているという。恵美子は中継の役回りらしい。


「・・・・」浩二は言葉もない。

「ただし天国じゃこれは違反になるんじゃよ。住民課の神様には絶対内緒だがな。うひひ・・・・」

「・・・・」

「ところでお前、タクシーの運転手やってんのか?」「えっ?」

「何で母ちゃんが知ってんだよ」浩二は初めて言葉を口にする。

「私がどこにいると思っているんじゃ。パラダイスの天国じゃ。天国からは何でもお見通しなんじゃよ、浩二」「・・・・」浩二は再び言葉に詰まる。今更天国にいる母と何を話せば・・・・


「私がお前のタクシーに乗ったのを知らんじゃろ?」「えっうそだろ、母ちゃん」

「ふはは。やっぱりわからんかったかい。私は変装の名人じゃのう。夜にサングラスをしたのは歩きにくかったがなあ」「えっ」やっぱりあの夜、病院で乗ってきたのは母の君子だった。しかし何の目的で?


「恵美子さんの携帯電話をお前に渡すために決まっとるじゃろ。恵美子さんだと気づかれやすいからのう」そうか。そのために母ちゃんは浩二のタクシーを呼び、車に乗り込むとすぐにシートの隙間に恵美子の携帯を押し込んだのだ。何とも姑息な母である。ところで父は傍にいるのか?。

「母ちゃん。父ちゃんはどこだよ?」「あの人にはこのことは内緒じゃ。今頃、どこかをふらふら散歩でもしとるんじゃろ」

 浩二はあることに気づく。「母ちゃん、何だか元気そうだなあ・・・・」

約三年前に父は脳梗塞、母は心筋梗塞で亡くなっている。亡くなる前は、それは変わり果てた姿だった。ところが電話の母の声はそれを微塵も感じさせないほど元気そうだ。よく考えると恵美子は交通事故で死んだのだ。それこそ直視できない悲惨な遺体だったはずだが。

そのことを母に聞くと。

 死んだ時の状態はどうであれ、天国に召された時点で健康体へと復元される。

それは天国に行った者だけの特典だ。天国には病院も葬儀社もない。みんな風邪すらひかず健康体で一生を過ごせるからだ。

ところが地獄に行った者は死んだ時のままをキープされ地獄で過ごすことになるので、それは死にたくなるほどの苦痛と屈辱だという。しかしすでに死んでいるのでもう死ぬことはできず、地獄は一生続く。浩二はぞくっとした。絶対に地獄へ行かないようにしないと。

乗務中にぶつけられて死ぬのはまだいいが、過失などで絶対に他人を死なせないようにしないと。

それこそ死後、本当の地獄が待っている。浩二はこのシチュエーションで交通安全を誓うのだった。


君子が嬉しそうに浩二に言った。

「浩二、恵美子さんとココで会って良かったよ。私ら」

「え、母ちゃん、どういうことだよ?」

「私らがココに来た三年前、まだ環境に慣れなくてぼんやりと二人で外にいたら、どこかのオネエちゃんが声をかけてきたんじゃ。よく見るとそれが恵美子さんだったんじゃ。私らをどこかで見た人だと思ったんだと。誰も知らない人ばかりじゃったから、私らは嬉しかったねえ。ただ恵美子さんが若いままだったのはビックリしたがな」

「ふーん・・・・」

「それから部屋も教えあってお付き合いが始まったんじゃよ。三人で散歩したり、花を鑑賞したり、神様のうわさ話をして笑ったり」

「ふーん・・・・」と浩二は相槌を打つしかなかった。恵美子は生前何度も浩二の家に行っていたが、その時は存命の両親とそれほどの付き合いもなかった。そのうち沙織が家に来るようになるが、沙織のわざとらしい笑顔やしぐさで両親は沙織をすっかり気に入ることになる。


「おまえ沙織さんとはうまくいっているのかい?」

突然母がこんな話を切り出したので、浩二は取り繕うように答えた。

「当たり前だろ。そんなこと」すこし嘘を言った。すると母が言った。

「じゃ何で浩二はあんなに嬉しそうに電話に出たんじゃ?」母は浩二の痛い所を指摘した。

「そ、それは・・・・」浩二は言葉に詰まる。母はゆっくり一言一言、言葉を繰り出した。

「私たちはお前に悪いことをしたと思っているんじゃ」「え?」

それは天国に行った母の浩二への後悔の言葉だった。


「お前の嫁さんの沙織さんも悪い人じゃないが、その強引さに私たちは翻弄されたんじゃよ」

浩二は黙って聞いている。

「今考えると正社員とかそうでないとかどうでもいいことだったんじゃ」

母は結婚前の仕事上の立場のことを言っていた。沙織は正社員を結婚の絶対条件のように両親に吹聴していたのだ。両親はそうなのかと簡単にだまされてしまった。

「お前の気持ちも尊重せずに、嫁になるのは沙織さんだと思い込んでしまったんじゃよ」

「それがわかったのはココに来てからじゃよ。恵美子さんは私たちを見ても過去を根に持つこともなく、最初から親切に接してくれたんじゃ」

「・・・・・」

「それに沙織さんは加奈にかまってばかりで、私が生きていた頃、入院していても人事みたいだったじゃろ」

確かにそうだったかもしれない。沙織は加奈を何より大事にしていたからな。沙織は自分の親の具合が悪くても、加奈の腹痛に気を取られてあたふたとしていたもんな。浩二は過去の出来事を振り返る。

「お前の嫁はほんとうは恵美子さんが良かったのかも・・・・」と母が言いかけたところで浩二は言葉を返す。


「母ちゃん、もうやめなよ。今更どうにもならないしさ。それより傍に恵美子がいるんだろ。恵美子に代わってくれよ」君子はぶつぶつ言いながらも恵美子に代わってくれた。恵美子の声は思いのほか明るかった。「ふふ、コーちゃん。元気ー?」

浩二は恵美子のその声で途端に元気になった。二十四歳の恵美子の艶のある声は浩二をわくわくさせた。「恵美子。よく私の親を憶えていたな」

「だって昔、何度か会っているもの」

「携帯を母に持たせたのか?」

「うん。だってお母さんが私に任せなさいと言うんだもの」


 生前とは違い、恵美子は両親と天国でうまくやっていることが伺えた。浩二は前から不思議に思っていたことを尋ねる。「恵美子。何でこの古い携帯はいつまでもバッテリーが減らないんだよ?」

「天国に持って行った電気製品は永久に使えるのよ。それも天国にいる人の特権なの」

「へー便利だなあ。じゃ地獄にいる人は?」

「知らなーい。私行ったことないもの。コーちゃん、行きたいの?」

「ヤだよ」それから二人のとりとめのない会話が続く。


 浩二は妻の沙織とこんなに長く話をしたことはなかった。それが恵美子だと時間を忘れるほど話が続くのはどうしてだろう。しかも恵美子は死んだ時の二十四歳のままだ。浩二は付き合っていた当時、何度も恵美子を抱いているが、再びその思いがめらめらと首を持ち上げてきた。

「恵美子」「なーにコーちゃん?」

「私たち会えないのか?また君に会いたい」ふふふと恵美子は笑う。

「ばかね。そんなのダメに決まってるでしょ。私、死んでるのよ」それでも浩二は食い下がる。

「だけど母は地上に来たじゃないか」

「あれは特例よ。亡くなった場所に限り三十分だけならと神様が私の願いをやっと聞いてくれたのよ」

思い出した。浩二がタクシーで迎えに行ったあの総合病院。かって母と父が長期入院し、治療の甲斐もなく旅立った病院だった。



13



 浩二の日常が大きく変わったのは、恵美子からの電話を待ち望むからに他ならない。

こちらからは連絡できない不満はその分、電話が鳴ると喜びが倍増するようだった。

恵美子とは昔のように明るく会話が弾むが、話題はことの他、天国のことが多かった。


 実は天国には神様がたくさんいて、神様の身分も幅があり、まるでこの世の公務員のように役割分担も多岐に渡るという。天国にいながら万一悪事をする人がいれば、天国区裁判により罰として地獄行きを命じられることもあるが、地獄の恐ろしさは皆が知っているので、天国法を犯す人などいない。天国の規律は完全に守られているのである。当然ながら意味がないので死刑制度はない・・・・

「へえー」と浩二は恵美子の話に夢中になる。

「それでさ、コーちゃん・・・・」恵美子は自慢するように話す。その内容には驚くばかりだった。

下界の「この世」においても法を守る人ばかりなら犯罪もなく、人々は皆、幸せに暮らせるに・・・・


 「この世」では戦争や凶悪犯罪が昔から今でも絶えることはないが、恵美子が伝える天国の現実は決して秘密情報の漏洩とはならない。むしろ大神様(首相みたいな神様)からは機会さえあればこの世の人々に宣伝するごとく伝えてほしいとさえ言われている。

悪事をすると天国には行けず、罪に後悔するばかりの恐ろしい地獄が待っている事実。これが人々に満遍なく浸透すれば、この世で悪事をする人は消滅し平和に溢れた楽園になるのに。

 この世では宗教が数多く存在するが、多分大昔、稀だが浩二のようにその「世界」に住む人から生の声を聞いたリーダーとなるべき人が最初の宗教を創ったのだろう。イエス・キリストのように。信仰は自由だが、少なくともほとんどは信ずるに値するはずである。浩二は今の歳まで無宗教だったことを恥だと思った。


古い携帯からの電話は恵美子からばかりではなかった。

「浩二。元気にしとるかあ?わははは」「親父・・・・」唐突に亡き父の野太い声に驚いた。

君子は親父には内緒だと言っていたのに、この世の息子と話ができた嬉しさのあまり、そのことを親父にぽろりと喋ってしまったのだ。親父は仰天し、ワシも浩二と話したいと言い出し、無理に恵美子に頼み込んだのだ。「浩二。加奈(孫)は嫁に行ったみたいだな。嬉しかっただろ?」

「まあね・・・・」「何だ、浮かない返事だな。お前嬉しくないのか」「嬉しいに決まってるさ」


この話をしている親父は「念」の中継役の恵美子と体のどこかが触れているはずだ。

(まさかヘンな所に触ってないだろな)浩二は余計なことを考えてしまうが親父は嬉しそうだった。

「浩二。こちらでわしら楽しくやってるさ。恵美子さんのお陰でな。恵美子さんは若くていい娘だよー」すると「いやだ。きゃはは」と恵美子の笑い声が聞こえた。

アチラでは両親と恵美子は仲が良いらしく、羨ましかった。もっとも私もこの古い携帯のお陰でおすそ分けを頂いているが。


 いつも天国の恵美子からの連絡は沙織のいない時ばかりだった。

天国からこの世の様子が見えると以前母から聞いたが、そうであれば私と沙織が冷めた夫婦であることも知っているのだろうか。天国での三人は楽しそうだったが、私たち夫婦はどう見えるだろうか?

もし、昔、沙織に強引に言い寄られても強い意志で跳ね返し、あのまま恵美子と結婚していたら?

当然、娘の加奈もいないことになる。

外観も性格も沙織とよく似た娘だが、しかしいないとなると・・・・悲しい・・・・


 浩二は休みの日でも特にすることがなく、パートの仕事が休みの沙織が家にいる時は部屋に篭って本ばかり読んでいた。沙織との会話もほとんどないので恵美子の電話を待つことが唯一の楽しみだった。彼女が天国から「念」で浩二に電話するのは、かなりのエネルギーを消費するらしく、頻度としては週に一度くらいだった。浩二は休みで家にいるより仕事をしているほうが気持ちが明るくなる。

今日も古い携帯と文庫本を車内に置き、気楽に仕事をしていた。



                         14



 浩二が待機中に「天国への誘い」という文庫本を読んでいたら軽快な電子音とともに配車指令が入った。車内の6インチ液晶モニターにお客様情報が表示される。確認し画面を切り替えると目的地をナビゲートする画面に変わる。お得意様であれば地図は必要ないのだが、そのお客は初めてだった。

経験十年といえども、初めてのお客の迎えはどうしても気を使う。果たしてどんな人やら。

タクシーは接客業になるので相手がどんな人でも失礼は許されないのだ。

浩二が勤務する(株)Sタクシーは大口となる企業が多いので尚更である。とはいえ非常識極まりないお客などまずいないのだが、それでも少しは緊張しながら目的の家にタクシーを付けた。


 昼間に個人がタクシー呼ぶ場合、経験上病院行きが多い。

この町には病院が多いので近場の病院かと思いながらお客が家から出てくるのを待った。

筑後三十年位と思われる古い家のドアがギギッと開き中年の太った男がよたよたと出てくる。よれた灰色のスエットを着てサンダル履きだった。

なぜか怒っているように見える。その険しい顔は浩二をさらに緊張させ、身構えさせた。

後部ドアを開くとその男は乱暴に座り、車がぐらぐらと揺れた。浩二は緊張を隠すように冷静に言葉を男に向ける。


「お待たせしました。どちらまで行きましょう?」「海!」「は?」「海だよっ!」「は、はい」

浩二はゆっくりと車を出し海へと走ったが、内心変なお客に当たったと嘆いていた。

タクシーを家に呼び、目的地は固有名詞で指定するのが普通だが、漠然と「海」と言われても・・・・

浩二の営業地区は海が近く、企業やら港やら多くの施設がある。いったいどこに行けばいいのだろう。

すでに料金メーターも可動している。これからは走るほど料金は上がるばかりだが、そんなことより浩二はこの怒った男を早く降ろしかったのである。

「お客様、海と言われてもどこの海に行けば?」

なるべく穏やかに聞いたつもりだったが、途端に後席から怒声が響いた。

「海ならどこでもいいんだよっ。金のことなら気にするなっ。もう俺に話しかけるなっ」


 これはピンチである。こんなお客は浩二でも初めてだった。

行く先は漠然と「海」 しかも男はなぜか怒っている。服装はだらしない部屋着にサンダル姿。しかも何だか酒臭い気がする。まさか・・・・浩二はあらぬ想像を巡らすのだった。


 誰もいない海にタクシーを停めさせ、ナイフで脅し金を奪う。浩二が以前推理小説で読んだ話だが、その結果たいした金は奪えず、それでも犯行のしやすさから犯人は短時間にタクシー強盗を繰り返し、警察から逃げ切れないと思った犯人はあろうことかタクシーで警察に出頭するが、そのタクシー代さえも踏み倒す話だった。ふざけた小説だが面白かった・・・・などと考えている場合でない。

車内は相変わらず重い沈黙と緊迫感に包まれている。

浩二は海と漠然と言われ、目指したのは一番近いと思われる港だった。そこには近くの製鉄会社へ鉄を作る原料を積んだ貨物船が待機しており、人もまばらだがいる。万一の時でもどうにかなるだろうとそこに決めたのだ。ルームミラーでお客の様子を見ることをしなかったのは、もし目が合うと怖いからだ。車は流れるように進む。重い沈黙に窒息しそうだったが、もう少しで港に到着しそうな時に突然、男の声が響いた。


「おい。自販機の前で停めてくれ」

男はさっさと降り、自販機で何か買うとすぐに戻ってきた。

「ほらアンタも飲めよ」浩二に渡されたのは冷えた缶コーヒーだった。

「ありがとうございます・・・・」男の気遣いに浩二の緊張の糸が少しだけ緩む。じき港へ着く。

「待っててくれ」そう言って男は缶コーヒーを持ったまま車を降りると岸壁に立つ。見ると貨物船が着岸しており、釣り人もいてゆったりとしたのびやかな光景だった。浩二は車のガラスを下げる。海の香りを濃く含んだ潮風が鼻を心地よく刺激した。


 男は海に向かって立ったままコーヒーを飲んでいる。深刻に何かを考えているようだった。

浩二も男からもらったコーヒーを開け口に持って行きごくりと飲む。静かに音もなく時間だけが過ぎていく。料金メーターへ目をやると少し加算されていた。タクシーの料金メーターは、車が止まっていても時間により上がるのだ。コーヒーのお礼とばかり浩二は「支払い」ボタンを押した。こうすれば時間の経過に関係なく料金は上がらない。男を見る。彼は煙草を吸っていた。やはり何かを考えているようだった。

浩二は待つしかなかったが、男は吸っていた煙草を海に投げ捨てると、ゆっくりした足取りで戻ってきた。やはりどしんと乗り込むので車が揺れた。

「今からどちらへ・・・・」と言いかけた言葉を断ち切るように男が言った。

「アンタ・・・・」「は?」男は落ち着きを取り戻したように穏やかだった。

「アンタ嫁さんはいるのか?」と聞かれたので「はい」と答えるとさらに男は言った。

「夫婦仲はいいのか?」最悪ですとは言えないのでいいですよと言うと男は苦笑いをする。

「そうかい。そりゃ結構なことだな。俺んとこは最悪だよ、アンタ」


 タクシー車内において乗務員とお客との会話には規制がある。政治や宗教の話はダメ、個人的な家庭の話もダメなのだが浩二は無視した。

「最悪とはどういうことですか?」恐る恐る聞き返したが、男の反応は最初とは違い、やや落ち着いた口ぶりだったのは意外だった。

「最悪は最悪だ。俺は家族のために毎日きつい夜勤で働いているのに、昼に少し酒を飲んだくらいで女房はぶーぶーとうるさいんだ。酒代がもったいないとか言ってな。ふざけんな。誰が働いていると思ってんだ。俺はずっと我慢してきたんだ。ついに今日、俺の我慢が限界を超えた。女房のツラなど見たくねえと思いタクシーを呼んだんだ」 

 何だそういうことか。なら海に来たのはどうしてだろう。


「海を見たくなったのは昔を振り返りたかったんだ。女房と知り合う前の昔をな。女房と知り合う前に付き合っていた「女」は青い海が好きだった。

どんな海でもいい。潮風に吹かれ、海をぼーっと見ているとあの「女」を思い出し心が癒されるが、逆に今の女房がますます憎くなる。殺したいほどにな」

それはおだやかではない。人を殺したら自分が死んだ後が大変だよと浩二は言いたかったが、黙っていた。どうせ天国や地獄の話など信じてくれないだろうし。ふざけんなと逆上でもされたらか適わない。

浩二は更に突っ込んだことを聞いてしまう。

「あの、前の彼女とはどうして別れたんですか?」「・・・・」

男は一瞬沈黙する。しまった。余計なことを聞いてしまったと後悔しかけた時、神妙な顔の男の口がゆっくり開く。「病気で死んだ・・・・」

「えっ!」

それは衝撃だった。この中年男が独身の頃、好き合う仲だった彼女は難病で急死する。男は失意のどん底で今の奥さんと知り合い、時が経ち二人は結婚するが、平穏な生活も長く続かず、時が更に経つほど奥さんは厚かましく、ケチなおばさんへと変貌し、ご主人に平気で汚い言葉を向けるようになった。

浩二はウチと似てるなと思ったが、同時に思ったことは、この男の女々しさだった。


 奥さんがいるのに死んだ昔の彼女のことを、奥さんとケンカするたびに思い出し感傷にふける。

これを女々しいと言わず何というのだろうか。

という問いを浩二は自分自身に向けた。この男と自分は似てないか?


 誰が悪い?誰も悪くない。悪いのは自分だけだ。浩二は必死に男を傷つけない言葉を選んでいた。

そして後席に座る男に振り向いて言った。

「お客さん。メーターは止めてますから、いつまでもここにいてもいいですよ。静かに海を眺めていてください。気が済むまで昔の彼女のことを思い出して下さい。私はいつまでも待ちますから・・・・」


 男は驚いた顔になると車から出て、再び岸壁に歩み寄った。浩二はその後姿を見る。男は立ったまま、また煙草に火を付ける。後ろからなのでその表情は見えないが背中が何かを訴えていた。

それは言葉にできない叫びとも思え、何か聞こえた気がした。

数分経ち、男は煙草を投げるように海に捨てた。それは煙草と同時に何かを捨てたようにも思えてならなかった。

男はゆっくりと浩二のいるタクシーに体の向きを変え、歩いてくる。顔を見る。僅かな笑みをたたえ、吹っ切れたような顔つきに変わっていた。男は穏やかに浩二に言った。


「アンタには迷惑かけたな。また家に戻ってくれ」

帰りも車内は沈黙のままだったが、空気感がまるで違っていた。息が止まりそうだった緊迫感が見事に消え失せたからだ。男の家に着き浩二は料金を言った。「ありがとうございます。3340円です」

男は5000円札を出し「釣りはいらん」と恥ずかしそうに言うと、そのうえ名まで聞いてきた。

「今度アンタを指名させてくれ。アンタの対応が気に入った。じゃあな」


 男は静かに自宅に戻って行ったが、浩二の心情は複雑だった。

というのも男の家庭の状況は自分と似ていたからだ。男に対し「女々しい」浩二はこの単語が頭に浮かんだが、私は違うと否定したかった。何よりも恵美子との会話の魅力には勝てないからだ。

昔のままの明るい話し声と若く弾けた雰囲気は、浩二をいとも簡単に独身時代へと引き戻していた。

電話での恵美子との会話はまさに「天国」にいるようだった。


 あの「女々しい」お客を降ろしたあと、急いで待機場所へ戻っていた。

急ぐあまり多少スピードオーバーだった。そんな時に限り古い携帯電話が「ピピピ」と鳴り、浩二は焦って携帯を手にするが、慌てていたので助手席の床に落としてしまった。浩二はスピードを落とさないまま、上半身を屈め左手を落ちた携帯へと伸ばす。古っぽい着信音がまだ鳴っている。

「恵美子すぐ出るからな」やっと手に取り通話ボタンを押す。浩二は「恵美子・・・・」と言いかけ前を見た。信号は赤だった。



                      15



 目の前にはそびえ立つ山のように超大型の集合住宅が立ち並んでいる。

一棟の階数は五十階はあるだろうか。超高層マンションが何百棟も壮大に立ち並ぶ光景は東京ですらありえないことだ。ここに何万人もの人が平和に暮らしているのだろう。

同じような建物が溢れるようにあるので、もし自分が住む部屋がわからなくなれば、広大な砂丘上で一個の十円玉を捜すようなものだ。浩二は生まれて初めて見る大迫力の光景に唖然と目を輝かせた。


 しかも建物と道路以外の土地には色とりどりの美しい花が溢れ、これでもかというほどに咲きほこり、良い香りが漂っていた。そしてその花に見入る多くの人々は穏やかさと笑顔を絶やさず、ゆっくりと静かに歩でいる。かって「この世」にありがちだった神経質そうな早足の人など皆無だ。子供から年配者までその年齢幅は広く、共通するのは幸せの表情に満ち溢れ、平和を心から謳歌していることだ。


 「竹内浩二さん。きょろきょろしないでちゃんと私に付いて来てくださいね。はぐれたら迷いますよー」そう言ったのは浩二を部屋に案内している「天国2区住居管理協会」の入居者案内担当の下っ端の神様だ。彼は白いポンチョみたいな服を着、白い髭を生やしてているのでいかにも神様の雰囲気満載であるが、田舎の公務員っぽいことに妙な親近感を憶える。

浩二の部屋は256棟の1352号室と決まったが、ここには来たばかりなので「天国での規則」説明のあと入居手続きを終え、彼に部屋を案内されていた。


 浩二は自身の過失の交通事故により不幸にも死亡したのである。

原因は車内に落ちた携帯を慌てて拾おうとしたことの信号無視なので、本来は重大な過失だが、幸い相手がダンプカーだったので運転手が無傷だったこともあり、「天国地獄審査委員会」からは大目に見られ、何とか天国2へと行くことになったのである。浩二はラッキーだったのだ。


 元「この世」にいた時、恵美子から電話で「天国2」の様子はだいたい聞いていたが、実際に来てみると(つまり死ぬと)その驚くべき光景は目を疑うほどだった。

ここには巨大な住居ビルと美しく咲き誇る花以外に何もない。

スーパー、銀行、病院、コンビニ、タクシーやバスさえない。もちろん葬儀社も。

わずらわしい日常は微塵もなく、ここで永遠に静かに暮らせということだろう。

確かに平和かもしれないが何だかとてつもなく退屈そうである。しかし、浩二は楽しみにしていることがある。それはもちろん「恵美子」に会うことだ。


 恵美子から電話で特例を除き「天国」から「この世」には行けないと言っていたが、ここは天国なので愛しい彼女に会うことに何も障害はなく、昔のようにきっと甘い生活(性活)が待っているに違いない。しかも恵美子は亡くなった時の24歳の若さである。

案内担当の神様の注意事項の説明など耳に入らず、浩二はそわそわと浮き足だっていた。

入居予定ビルの前に来ると懐かしい顔の三人が浩二を出迎えてくれた。浩二の目が光を帯びる。

その三人は浩二の入居を突然に知った両親と恵美子だった。


 母親がさっと浩二の手を握り、「よく来たなあ、浩二」と笑顔を向け、父も嬉しそうに笑ってくれた。両親と会うのは三年振りだったが、亡くなった時とは違いここでは二人ともすこぶる元気そうだった。そして浩二は誰よりも会いたかった恵美子を見る。


 恵美子は溢れる笑顔で浩二を見つめる・・・・のはずだったが、笑顔は笑顔でも困惑するように、浩二を見ていた。そして小さな声で一言。

「・・・・コーちゃん。こうして近くで見るとあなたずいぶん歳取ったのね・・・・」

「え・・・・」

両親も恵美子に同調するように、「お前、いくつになったんだ?」

「五十五だけど」そう言うと両親は「そうか・・・・」と頷くだけだったが、恵美子の反応は露骨に表情に出ていた。生前を更に遡ると、浩二が恵美子と付き合っていたころは彼は二十代の若者だったのである。「コーちゃんはもうそんな歳なの。私たちもう親子ほどの歳の差だね」

浩二は自分を弁護するように恵美子を説得する。

「君が先に二十四で死んじゃったからそれは仕方ないことだよ。君は亡くなった歳のままかもしれないが、私はその後も長く生きて最近死んだんだよ。そんなこと言わず、ココで昔のように仲良く付き合おうよ、恵美子」恵美子は浩二の言葉に何も言わず、彼をじっと見続ける。そして深い溜息をついた。


「・・・・悪いけどコーちゃんをこうして傍で見ていたら、もういいかなって思えてきちゃった」

「もういいかなってどういう意味だよ、恵美子」

「だからあなたとはもういいかなって意味だよ。あなたは歳を取り過ぎたよ。第一昔、コーちゃんは私を捨てて「沙織」さんを選んだじゃない。たまたま事故で死んで天国に来たからって、私とまたヨリを戻そうってのはどうかな?」


 恵美子の思いもしない言葉に浩二は強い衝撃を受ける。

「恵美子。なんでそんなこと言うんだよ。私はこんなに見苦しいおっさんになったけど、昔はあんなに愛しあったあったじゃないか。またココで仲良くやろうよ」浩二は執拗に説得したが。

「イヤ!」恵美子は拒否する。

「私のことが嫌いになったのか?」恵美子は浩二の目を見つめたままだった。

「私たち、付き合っていた頃よくケンカもしたじゃない。だけど私がココに来て時間が経つほどケンカしたしたことなどは忘れ、楽しかったことだけが思い出として残ったの。それは過去への美化となり私の心を揺らし続け、あなたとどうしても話したくなったの。だから携帯をあなたに・・・・」


「それで?」浩二は恵美子の言葉に僅かな希望を見出した。しかし・・・・

「何十年振りにこうして会ったコーちゃんはすっかり歳を取り、しかも奥さんもいるのに(生きているが)ココに来て、また私と付き合いたいと言う。私はあなたにとっていったい何なの・・・・」

恵美子は言葉を一旦止めると、息を吸い込んでゆっくりと次の言葉を吐き出した。


             「それは女々しいことだよ。コーちゃん」

                    「!」


16


 ココには治安担当の警官のような神様もいる。それらしく制帽も被っているが天国ではヒマな存在だった。その治安担当の神様が浩二を必至で制止していた。

恵美子の「女々しい」の言葉に激怒した浩二は恵美子に汚い怒鳴り声を上げ、今にもつかみかからんとしていたからだ。傍にいた両親も浩二を夢中で止めたが浩二の怒りには無力だった。父は浩二に、

「こ、浩二聞きなさい。生前確かにワシたちは契約社員の恵美子さんより正社員だった沙織さんの結婚を後押ししたが、本当に浩二が恵美子さんが好きだったら、周りが何と言おうと自分の意思を貫き通せば良かったじゃないか」

母も口を出す。

「そうだよ。アンタの気持ちが揺れていたのはわかっていたけど、自分で決めたことじゃないの。ココに来て今更恵美子さんと元の鞘に収まろうってのは息子ながら根性が汚いよ。あー情けない」

母の言葉に浩二は更に頭に血が上る。


「何だって。親のくせに何て言い草だ。ふざけやがって」

浩二は親にさえつかみかからん勢いだ。その時恵美子が泣きそうに言った。


「やめてコーちゃん。あなたに携帯を渡した私が悪かったのよ。思い出のあなたは思い出だけに留めていればよかった。あなたはすでに昔私が好きだったコーちゃんじゃない。すっかりおじさんになり、奥さんだった沙織さんのことすら忘れた女々しいだけの男よ」

その言葉はさらに浩二の怒りが増すばかりだった。

「何だと恵美子。私が女々しい男だとー」

それは浩二が以前タクシー乗せ、過去に拘るお客の男に感じたことだ。その男と自分が同じ?

女々しい?「ふざけるなーっ」

怒り狂い暴れる浩二を治安担当の神様がついに天国の権力を行使した。


「あ、あなたは天国に来たばかりなのにココの平和を著しく乱しています。従って追放ー!」

浩二は神様に開き直る。

「ああ?私をココから追放だと。願ったりかなったりだよ。こんなつまらん天国など私もいたくねーよ」そう言った途端、浩二の姿は天国から忽然と消え、空中を舞い、はるか彼方の地上へと落ちていった。落ちながらも思ったことは天国に行ったことへの深い後悔だった。

「ああーーーーーーーーー」

天国から追い出された浩二は、夢を砕かれ「この世」に向かって落ち続けるのだった。


 ハッと目が覚めた。

浩二は病院のベッドで寝ていた。夢を見ていたのだろうか?ああ、イヤな夢だった・・・・


 それにしても体のあちこちが痛い。白い天井から横に視線を向けると誰かいた。

見ると沙織と香奈が寄り添うようにパイプ椅子に座っていた。二人とも心配そうに包帯を巻かれた浩二を見ている。落ちた古い携帯を拾いかけた浩二は赤信号で交差点に突っ込み、ダンプと衝突したのである。幸いダンプの運転手は無傷だったが、浩二は全身打撲で気を失い救急車で病院に担ぎ込まれたのだ。浩二のタクシーは全損となり、無残な姿を公道にさらしていた。


 家にいた沙織は警察からの電話に仰天し、加奈にも連絡しタクシーで病院に急行したのだ。

浩二は病室で体のあちこちに包帯を巻かれ、痛々しい姿で眠っていた。医師からは「打撲のみで致命傷はないから大丈夫ですよ」と言われ二人は胸をなでおろした。

悪夢からやっと目を覚ました浩二は不安そうな二人に言った。


「悪かったな。心配かけて・・・・」沙織は静かに言った。

「本当に心配した・・・・あなたが死んじゃったらどうしようかと・・・・」横に座る加奈がそっと沙織を見る。浩二は冗談のように問いかける。

「私が死んだらどうするつもりだったんだ。沙織?」

「私も死ぬ!」「えっ嘘だろう」「バカ。嘘に決まってるでしょ」

何だ。びっくりした。加奈がくすくすと笑っている。

 

 思わず浩二は想像した。天国には浩二の両親と恵美子がすでにいる。もし今、私と沙織が天国に行けばどうなるのだろう?きっと複雑で気まずい人間関係に悩まされることだろう。それは天国とは言えず、むしろ間接的な地獄とさえ言えるかもしれない。そんなことをぼんやり考えていると沙織が思い出したように言った。

「あなた。さっきあなたの会社の人が廃車になったタクシーに落ちてたってこれを持ってきたわ」

 沙織はバックから古い携帯を浩二に渡した。浩二はその携帯を白い包帯を巻かれた手に持ち、ゆっくりと眺めた。

 天国いる恵美子と溢れるように話し続けた古い携帯電話。その時はいくら話してもバッテリーは不思議と無くならなかったのに、見るとバッテリーマークが完全に消えていた。もうこの携帯は使えない。いや恵美子が使えないようにしたのだろうか。夢かもしれないが一時的でも天国に行き、三人と言い争った浩二はすっかり嫌気が差し、もう天国の興味は消えうせていた。加奈が驚くようにその携帯を見る。「ひゃーこんな古い携帯、お父さんよく持ってたねー。何に使うの?」

沙織も目を白黒させている。浩二は慌ててゴマかした。


「私のタクシーの忘れ物だよ。落とし主はわからないので私が預かっていたんだ。超レアだろ」

「この携帯二十年以上前のだよ。骨董品だね。どんな人が持っていたんだろ?」

加奈は自分のスマホを取り出すと見比べた。二つの携帯をしみじみと見る病室の三人。

それ以上の会話が広がらず静かになった時、急に沙織が言葉を発した。

「・・・・あなたさっきあなたが死んだら私はどうするかと聞いたわね」

「うん」浩二はベッドから頷く。

「私、あなたを追って死ぬことはないだろうけど、きっと死んだような気持ちに陥ると思うわよ]

「どういう意味だよ」浩二は沙織に疑問を向ける。美香も沙織の言葉を興味をそそられた。


「だってあなたは私にとって空気みたいなものだもの。空気がなくなれば誰だって苦しいに決まっているでしょ。たとえその空気がどよんで汚れた空気でもさ。ふふふ」

「沙織。最後の言葉は余計だよ。ひでえなー」浩二は苦笑したが、その皮肉は沙織らしく不快ではなかった。「ははは」と病室に三人の笑い声が広がる。家族三人がこうして笑いあうのは久しぶりだ。


加奈がぽつりと言う。

「お母さんはいつも言い方がきついのよ。私は昔からそう思っていたんだけど、気が付くと私までお母さんに似てしまったの。主人からもよく言われるの。加奈は話し方もお義母さんにそっくりだなって」

「ま」今度は沙織が苦笑した。浩二は笑いそうになったが、加奈の話には続きがある。

「主人は言ってくれたの。美人でも気が強い加奈にはそれでもほっとする一面がある。主人はそこに惚れたんだって。ひゃあ恥ずかしいよ」加奈は父親を見舞いに来たのに両親の前でのろけていた。

「多分それはお父さんの血だよ」そう言う娘を沙織は考え深げに見つめる。


 加奈が去年結婚したのは「二人」の娘だからである。ご主人は加奈にはもったいないほど誠実な人だった。「私、性格きついからね。あなたはイヤな思いもしたでしょう」

沙織はそう言ってくれたが語尾に「ごめんなさい」と言わなかったのは歳取っても彼女なりのプライドがあるからだろう。浩二はまあいいかと聞き流したが、加奈が神妙な顔をした。

「私、今まで言い出せなかったけど、特にお父さんには感謝している。昔、お父さんがリストラされた時、お父さんは畑違いのタクシーの仕事で私たちの生活を懸命に支えてくれた。お陰で私は大学も出してもらったし、主人にも出会えたの。お父さん、ありがとう・・・・」


 浩二は加奈の言葉にぐっときた。今更わかったことは加奈はやさしい素直な娘だったのだ。

ところが。「ま、加奈。あの時は私だってパートに出て働いたのよ。私にも感謝しなさいよー」

相変わらずきつい言い方の沙織だが、その顔は笑顔が溢れていた。浩二も加奈もつられて苦笑した。


 次の日、浩二はこっそり病院を抜け出すと一番近い川へと向かった。

病院の杖を着きながら歩道をゆっくりと歩く。周囲にはさまざまな家やマンションが林立し、国道には多くの車が行きかう。歩道を歩く人も、歩く速度も遅かったり早足だったりする。やはりここは天国とは違う「この世」だと思った。

現実の「この世」の世界には想像もしないこともあるが、苦労しながら乗り越えることで、生きている証が得られる。


 浩二は橋の中ほどに来ていた。橋の上から川を見下ろすと案外深く、川底も見えなかった。古い携帯を右手に持つ。

「恵美子。私に夢を見させてくれてありがとう。私は年甲斐もなく夢を見たが、新たな現実にも気付かされたよ。それは家族のことだ。沙織も加奈も本当は私にやさしい家族だった。気付いたのが少し遅かったけどな」浩二は古い携帯をぎゅっと握り締める。その表情には決意が見えた。


「さよなら恵美子。いずれはソチラにも行く時が来るだろうが、私はしがみついてでも「この世」に留まるつもりだ。まあ私と沙織を天国から見て嫉妬しないようにな、ははは」

浩二は古い携帯を川へポイと投げる。携帯は宙を舞う。しばらくしてポチャンと水音がした。


 浩二の過失事故はその重大性により「免停処分」となる。タクシーも廃車となったのでしばらくは仕事もできないだろう。怪我は打撲だけだったので一週間の検査入院で済んだが、家にいても何もすることがなく、浩二は沙織の顔色を伺いながら聞いてみた。

「しばらくヒマだから二人で温泉でも行かないか?」珍しく沙織は「え?」と微笑んだ。

「それもいいわね。ただし安い宿にして。そうねえ、一日一人六千円以内ね、あなた」

「・・・・・・」


 相変わらず沙織は渋ちんだが、その表情は晴れやかだった。これも私が事故ったことの副産物である。円満夫婦とまではいかないが、以前のような冷めた夫婦関係からはあきらかに抜け出ていた。

 どうしても不思議なことは、天国から浩二の様子が見えているはずなのに、車を急いで走らせていた浩二に、恵美子は彼の危険を顧みずにどうして古い携帯を鳴らしたのだろう?


 恵美子は自分より沙織を選んだ浩二に、過去の自分など、もう忘れてほしかったのではないか。だから一時的とはいえ天国に来た浩二に冷たかったのかもしれない。天国など「この世」の人が妄想するほどの楽園などではなく、「この世」にも楽しいや感激することはたくさんあるのだ。


「この世」で一生懸命仕事して、奥さんや娘さんと仲良くしてほしい。それが恵美子が昔愛し、愛された浩二へのお返しではなかったのか。浩二は橋から青い空を見上げると呟やいた。

「さよなら。恵美子。今まで夢を見させてくれてありがとな。私の愛する家族はやはり沙織と加    奈だけだったよ」

 恵美子の古い携帯を飲み込んだ川は静かに流れる。空には白い雲が浮かんでいる。

 浩二はゆっくりと病院へ戻った。



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 二ヶ月後。浩二の体は回復し、免停期間も終わった。被害者のダンプカーの修理代も運転手の休業補償も会社の任意保険で賄ったが、浩二のタクシーは全損となり廃車するしかなかった。会社は大損害だったので社長からえらく怒られた。免責の五万円は給料引きとなる。


 しばらく休みだったので浩二は沙織と「安価」な温泉旅行に出かけた。二人での旅行は新婚旅行以来だったが、そこそこ楽しかった。というのも事故による入院で、離れていた沙織の心が浩二に接近したからだが、それでも相変わらず物言いはキツかった。安くといったくせに、泊まったホテルに不満があるとブーブーと文句だけは言う。「恵美子」は浩二の記憶から消え去るのに時間はかからなかった。

平凡だが平穏な日々が繰り返される。再び浩二は待機中に推理小説を熱読する平和な毎日が始まるはずだった・・・・ところがそうはいかなかったのである。それは沙織の驚愕の一言から始まった。


 浩二が休みの日の朝。自宅の食卓で夫婦は向かい合っていたが、浩二はわが耳を疑った。

沙織は真顔だが口元が妙に緩んでいる。

「沙織。今、おまえタクシーの乗務員になると言ったが、冗談で言っているのか?」

「冗談じゃないわ。私本気よ」「・・・・マジか・・・・」

あろうことか沙織はタクシーの乗務員になりたいと言い出した。沙織はスーパーでレジのパートが長いが、何時間も立ったままの仕事なので最近になり体がきついと言う。沙織は五十歳である。


「沙織。タクシーをなめるなよ。神経を使う大変な仕事だぞ」

一応先輩となる浩二は沙織には無理だろうと止めるつもりだった。ところが・・・・

「あなたにもできる仕事だから私にもできるわ」ときた。ちっ私もなめられたもんだ。

 沙織がなぜこの仕事に興味を持ったかと聞くと、二人で旅行に行った時、話題がないので浩二は人間観察として、今までタクシーに乗せた印象深いお客のことを面白おかしく話した。


急いで乗ってきたのに、行き先を忘れた痴呆っぽいおじいさんとか、

仲良くラブホに行った高校生カップルとか、

電車の時間に余裕があるのか、ゆっくりと市内見物した出張中の会社員とか。

以前乗せた「女々しい」男のことも当然含まれている。沙織は珍しく、目をきらきらと輝かせながら浩二の話に聞き入っていたのである。

沙織はこの仕事は面白いと思ったのだ。


 しかも沙織は浩二を無視して浩二の会社に直接問い合わせをしたらしい。

「いつでもウエルカム」上司のこの軽い言葉で沙織の心はぐらりと動いた。

沙織は一人で面接に行き、「竹内ですぅ。いつも主人がお世話になりますぅ」とか言って愛想を振りまくとその場で「養成乗務員」として採用された。浩二には事後承諾だったのだ。

座ったままで仕事ができ、休みが多いのが沙織には魅力だったらしい。


 タクシー業界は慢性的な人手不足だ。希望者がいれば男女の別なくまず採用される。

浩二の同僚にも女性はいるが、皮肉なことに売り上げは浩二より上である。その理由はいろいろあって、タクシーを呼ぶ時、女性の運転手を希望するお客も少なくないのだ。特に高齢者や妊婦さんが多いと聞く。

「まさか沙織に売り上げで私が抜かれることはないよな・・・・」

浩二が危惧するのは当然で、仮に売り上げで新人の沙織に浩二が抜かれれば、強気で勝気な沙織は、

「何だ。タクシーって意外に簡単な仕事ね」と失笑し、ことさら調子に乗ることだろう。十年選手の浩二のプライドはズタズタになるのだ。今沙織は、二種免許取得のためにせっせと自動車学校に通っている。晴れて免許が取れれば沙織は浩二の同僚となる。

 「夫婦でタクシーの乗務員」沙織は浩二のライバルとなる。こんな日が来るとは夢にも思わなかったが、少なくとも「天国」で平和ボケしているより、「この世」のほうが起伏があってで面白い。互いにどよんだ空気のような存在だが、そのどよんだ空気を車で二人が切り裂く仕事をするとは・・・・

浩二は天国の恵美子に呼びかけた。


「おい恵美子。私たちが見えるか?天国なんかよりこの世のほうがよっぽど刺激的で楽しいよ。私はしばらく天国なんかには行かないからな。いや絶対に行かない」

浩二の「この世」の強い執着は「天国」の恵美子もただ驚くばかりだったのである・・・・



 (了)








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