目醒め
遅くなり申し訳無いです‥‥‥。
ツン、と鼻につく消毒の様な匂いがした。目を開けることができる事に気付き、ぼんやりとした光が目に入った。
「あ、気付きましたか?」
女の人の声がした。汚れた作業服を着ているとても小さな女の子。不思議な事に、目を合わせるとNの文字が浮かんだ。
「あ、ここは私のお店です。大変だったんですよー。急に倒れたみたいで。霧崎さんも慌ててましたよ」
‥‥‥霧崎?
「霧崎って、誰ですか」
自分でもびっくりするくらいのかすれ声が出た。
その小さな女の子はクスクスと笑って言った。
「何の冗談ですか〜?そこで寝てるじゃないですか。ずっと目がさめるのを待ってくれていたんですよ」
その女の子の目の先に一人の女子がいた。その女子は自分のいるベッドの側の椅子に座っていた。長い黒髪が印象的だ。この人にはNの文字は出現しない。
その目は閉じられていてかすかに寝息が聞こえてくる。
小さな窓からは、すでに日は暮れ、薄暗くなっている外が見えた。
「霧崎さーん。高坂さん目が覚めましたよー」
小さな女の子がその女子の肩を揺すった。
「あ‥‥‥すいません。寝ていました‥‥‥。あなた、やっと起きたのね」
溜息をつきながらこっちを向いた。
「は、はあ」
「まあ、無事で安心したわ」
その女子は安堵したように顔を緩めた。
「あ、あの」
「何かしら。別に心配をしていた訳では」
その女子がほんの少し早口になったのと同時に口が開いた。
「どちら様ですか?」
その瞬間、この部屋に静寂が訪れた。
「あなたねえ、こんな状況で冗談は良いものではないわよ」
また、冗談。その言葉の意味が分からない。
「冗談って、どういう事ですか。俺、おかしい事言いましたか」
その女子は無表情だ。整ったその顔から冷たい声が出る。
「いい加減にしなさい」
冷たい、冷たい声が自分に刺さる。
「ま、待ってください」
小さな女の子が慌てた様に、何かを察したように言った。
「あ、あの。自分の名前、分かりますか?」
「‥‥‥名前。俺の名前‥‥‥」
‥‥‥何だろうか。思い出すとかそんなものじゃない。元から無かったような、そんな感じがする。
それを聞いた霧崎さん、という女子は俺の目を正面から見据えて言った。
「俺、ではなく僕、でしょう?」
「‥‥‥そうなんですか?」
彼女は唇を噛んだ。とても強く。その悲しげな顔は見てるこっちが辛くなる。
「高坂咲人。あなたの名前よ」
「高坂、咲人‥‥‥」
これが俺の名前‥‥‥。そう言われても何も分からない。
「記憶喪失‥‥‥ですかね。あ、私はローイです」
小さな女の子、改めローイは言った。
「ローイさん、この辺りで病院はあるかしら。ゲームだった頃は無かったはずなのだけど」
「はい、いくつもありますよ。ですが、スルトはあまり技術的に発達していなくて‥‥‥」
技術的に発達していない‥‥‥?
そうなのかと思い、口を開いた。
「街によっても違うものなんですか?」
その言葉は霧崎さんを少し驚かせた。
「あなた、ここがどこだか分かるのかしら?」
「‥‥‥スルト、でしょう?」
「そういう事ではなくて。この世界が何処か、という意味よ」
「世界‥‥‥とは?」
この世界が、とはどういう意味だろう。ここは、ここだろう。スルトだ。
「そう‥‥‥そこからなのね」
「どういう意味ですか‥‥‥?」
この人の話していることは分からない。まるで、他に世界があるように話す。
「いいわ。とりあえず痛いところはない?」
そう言われて腕を、足を、首を軽く曲げてみた。痛みは無く、思ったよりも重症では無いようだ。
「多分大丈夫、です」
「そう。なら戻るわよ」
霧崎さんは
「戻る‥‥‥どこにですか?」
「いるべき所へよ」
そう言って霧崎さんは椅子から立ち上がり、着衣がジャージから真っ黒な防具に変わった。
「やり方、分かるかしら」
「わ、分かりません」
教えてもらって自分もメニューを開き、装備を変更した。パーカーと部屋着にブラックシーズ、という物しか無く、ブラックシーズの上下を装備した。
それにどうやら、俺は記憶が無くなっているらしい。だが、無くなっているのは「思い出」の記憶だけの様で、ものに対する記憶は消えていない。例えばハサミを出されて使い方が分からない、と言うことはないみたいだ。
俺が装備を整えると霧崎さんはローイに向き直った。
「ローイさん、お世話になりました」
「あ、いえ。とんでもないです‥‥‥。何もしてあげられないですいません」
申し訳なさそうにローイは頭を下げた。それを見ると自分のせいだ、と実感してしまう。
「すいません‥‥‥」
その顔を見るとつい言葉が出てしまった。自分がこんなことを言っても、仕方がないのに。
「いえ、お大事に‥‥‥」
「‥‥‥はい。ありがとうございました」
「ローイさん、お元気で」
霧崎さんが少しだけ微笑み、外へと歩き始めた。俺もそれに続くように進んだ。
外に出ると日が沈み、人通りが少なくなっている。
「今からレイクヘッドまで全速力で戻るわ。カーキフードの方がAGIは高いけれど、日が暮れた今は装備は黒い方が良いわ。それで行くわよ」
「は、はい」
何を言っているのかよく分からなかったがこのままでいいということだろう。
「ちなみに、走れるかしら?」
そう言われて足踏みしてみる。また痛みも無く、むしろ体は軽かった。
「はい。大丈夫です」
「そう。なら、着いてきて」
そう言って霧崎さんは猛スピードで走り出した。
「そ、そんなに速く走れないですよー!」
もう100メートル近く先にいる霧崎さんに向かって叫んだ。
そこで帰ってきた返事は、早く来い、と招く手だけだった。
無理だよ、と心の中で思いながら何回か足踏みしたあと、地面を思い切り蹴って走り出す。
「え、うわっ」
体の内側から引っ張られるように、通常じゃありえない速度で走れる。なんとも不思議な感覚だ。あっと言う間に霧崎さんのところまで追いついた。
「大丈夫そうね」
「はい」
そう言うと、霧崎さんは無表情のまま走り出した。俺もそれについていく。
現在地点はカフト。走り始めて1時間半程経過した。
もう辺りは完全に暗闇に覆われ、道の途中途中にある街灯が無ければ走る事もままならない。
「ちょっと待って」
急に前を走っていた霧崎さんが止まったので、危うくぶつかりそうになった。
「どうしたんですか?」
「何か、聞こえるわ」
そう言われて耳をすますも、特に何も聞こえない。
「何も聞こえないですけど」
「‥‥‥」
そう言うも、霧崎さんは目を閉じて動かなくなった。そこで暗闇と霧崎さんってなんか画になるなぁ、などと思ってしまった。
「西に約600メートル。ごめんなさい、寄ってもいいかしら」
その顔はどこか引きつってるように思った。
「え?ええ、そりゃ良いですけど‥‥‥」
そう言うと霧崎さんは一目散に走り出した。早すぎる。全力で走っても全く追いつかない。
「‥‥‥がい‥‥‥て」
近づいてきたのか、声が少し聞こえるようになった。が、内容までは分からない。
建物と建物の間を縫うように走っていくと、声がちゃんと聴き取れるまで近くに来た。
「お願いします!止めて!」
その時、絶叫に近い女の人の声が聞こえた。その後にとても低い怒声が響いた。
「うるせえ!NPCのクセに!黙って言う事聞けよ!」
「お願い‥‥‥イヤッ」
最後の曲がり角を高速で曲がると、少し先に男女二人が見えた。女性の方は服が破れ、もうほとんど裸に近い。声の主はこの人達で間違い無いだろう。
少し先を走っていた霧崎さんが男の顔の高さまで飛び、足を横に思い切り振った。
「がっ!」
もちろん顔面に吸い込まれるように当たり、男は4メートルほど吹っ飛んだ。
「何を、しているのかしら」
とても冷たく霧崎さんが言った。その手にはいつの間にか拳銃が握られている。
「そ、そうですよ」
俺も便乗する様に言う。デュホークブレイドという武器を両手で持ち、弱く見えないように構える。
「うるせえよ。うるせえ!NPCなんだろそいつ。だったら言う事聞けや!」
そのNPC、という言葉の意味は分からないけど、この女性のことだろう。その女性にもNの文字が出現した。歳はおよそ僕たちと同じか少し上くらいだろう。
「で、でも、嫌がってるじゃないですか」
腹が立っているというのにどうしても怖くて強く言えない。そんな自分が情けなかった。
「はあー?お前ぶっ殺
「話をそらさないでくれるかしら」
男が言い終わる前に霧崎さんが割って入った。その言葉で霧崎さんが怖いと思ってしまった。
「何をしようとしたのか、聞いているのよ」
「みりゃ分かんだろ?襲ってやったんだよ。そんな格好してんだから誘ってんだろ?ああ?!」
ほとんど裸のその女性は、いわゆるウェイトレスの格好をしていた。
それに今気づいた‥‥‥この人、酒臭い。相当酔ってるな‥‥‥。
「はははっ!それによぉ、その手に持ってる拳銃も剣も街ん中じゃ使えねえよなぁ!」
‥‥‥何故?
「なんで、使えないんだ?」
「はあ?ここが街ん中だからだろうが!」
「だ、だから、何の関係があるんだよ」
この人の言っている意味がわからない。ここが街だからなんだっていうんだ。俺が持っているのはモンスターも斬ることのできる剣だ。関係無いだろう。
「メンドくさ。なら斬ってみろよ、オラ!」
男はそう言って両手を広げた。
「そ、そんなのできるわけないだろ」
「できねえのか?このチキンがぁ!」
グイッと首元を掴まれ、男は拳を振りかぶった。
やばっ、と思った瞬間霧崎さんが動いた気がした。が、とても遅かった‥‥‥タイミングがじゃない。
動作自体が、だ。
男を見るとまだ振りかぶったままだ。ゆっくり、とてもゆっくりその拳は動いている。
「なん‥‥‥だこれ」
体も嘘みたいに軽い。武器なんて使わない方が闘えるんじゃないかと思えるほどだ。
『カク セイ ハ チカ イ』
「っ?!」
頭の中に響く様な声がした。まだ世界は遅いままだ‥‥‥いや、止まっている‥‥‥?
『マ オウ ノ チ カラ ノ フツ カツ』
「ま‥‥‥おう‥‥‥?」
『ノミ コミ ヨビ サマセ』
「やめ‥‥‥ろ‥‥‥」
『トキ ハ イマ フタタ ビ ヨミ ガエル』
「‥‥‥くそ‥‥‥」
『メザメヨ マオウ』
「‥‥‥」
『シメ イヲ ハタセ』
「‥‥‥あぁ‥‥‥久しいなぁ‥‥‥オモテは‥‥‥」
その声の主は高坂咲人である。もっとも、他の者が知る彼ではない。
「‥‥‥にしてもどういう状況だぁ?なんで殴られかけてんだよ‥‥‥」
その目は赤く、声も低い。
「こっちはえらい美人だな‥‥‥持って帰ってもいいんだがぁ‥‥‥あいつに怒られんのも厄介だ」
チッ、と舌打ちして持っていた剣を放し、地面に落とした。
「まあ、戻るとするかぁ。とりあえずこいつらにゃ、忘れてもらおうか」
そう言って指をパチンと鳴らし、高坂咲人はニヤリと笑った。
「そこの女にゃまた会う気がするなぁ‥‥‥」
そう言って足のつま先で地面を二回軽く踏み、その姿を消した。




