凛月
山の上空に、浮かぶ凛月。
星は不思議なぐらい見えなくて、月だけがこうこうと輝いている。
人が居ない、一人の世界。
下を見下ろせば人々の毎日の営みが見えた。
車が通り、バスが走り、明かりが点々と落ちている。
きっとあそこには、子供の笑い声や優しい笑顔が満ちて居るのだろう。
唇を押し上げるように、ふっとため息が出る。
静かな静かな静寂だけが、私を包み、ここを支配していた。
どこか冷たい空気が気持ち良い。
そのまま寝転ぶ。
地面は空気と同じようにひんやりとしているのに、少し暖かくて、優しかった。
いつまでそうしていただろう。
突然、隣から声がかかる。
「君も一人なの?」
見上げると、小学校低学年ぐらいの背の、少年が立っていた。
青いTシャツにジーパン、ポケットから銀色の鎖が出ている。
「誰?」
「人に名前を聞く前に、自分の名前を教えてよ。」
幼い声で案外手厳しい事を言う。
でも、正論だ。
「ユホ。」
「僕はハノイ。」
日本人離れした名前。
「じゃあ、ハノイ。家に帰りなよ。もう夕飯の時間だよ。」
一人にして欲しかった。
「僕には帰る家なんて無いよ。」
そう言って、浮かぶ月を見上げたその横顔は、幼い少年だと思えない何かがあった。
まるで長い年月を生き抜いてきたみたいな。
ハノイの瞳が光を弾いて綺麗だった。
ゾッと身震いしてしまう程に。
「ユホは帰りたくないの?」
黙り込んだ私に声をかけてくる。
呼び捨てにされたのに嫌な気はしなかった。
「ここに居たい。」
心からの思い。これしか言えなかった。
「でも、いつかは帰るしかない。・・・でしょう?」
この少年は鋭い所を突く。
何も返せない。
「僕は君をここに、居させてあげる事が出来る。でも、それ相応の代価が必要なんだ。どうする?」
帰りたくない。
ここに居られるなら、何だってしてやる。
「ここに居させて。」
ハノイは少し寂しそうに笑った。
「じゃあ、僕は君が外に通じている物を、少しずつもらっていく。それを媒体として君の代用品を作るよ。代用品は君と同じように生活していく。それで良いかな?」
一つ疑問が生じる。
でも、最初から答えは読めていた。
その答えが・・・・すごく怖い。
「でも、あくまで代用品には限りがある。代用品だから、すぐ崩れて薄くなっていって、消えちゃうんだ。ここにずっと居られる訳じゃない。いつか帰る時がくる。」
それでも、ここに残りたい。
その思いを見て取ったのか、ハノイは頷き、また寂しげに笑う。
「本当に良いの?」
本当にこれで良い。
黙って頷いた。
「分かった。最初は嗅覚をもらうよ。」
ハノイの少し冷たい手に目を塞がれる。
恐く無かった。冷たい手の平が、山の空気のように気持ちいい。
「終わったよ。」
手が離れる。
ハノイは寂しそうな顔をまたしていた。
日が上り、沈み、月は満ち欠けを繰り返す。
山独特の香りが消えたのは、少し残念だったが、それ以外何も変わらない生活だった。
狂った時間の感覚の中で、大体数日過ぎた。
ハノイが視界に入ってくる。
「もうすぐ君の代用品は消える。また何か犠牲にして、ここに残るかい?」
迷わず頷いた。
どうせここで生活するのに、外と通じる必要もない。
「じゃあ、始めるよ。」
また目を塞がれる。
少し時間が経った。
「今度は味覚をもらったよ。」
すっと手が離れる。
ハノイの表情は前よりも沈んでいる気がした。
良く晴れた日は、満天の星空も楽しめる。
いろいろ消えても、ここでの生活は充実していた。
日が何日も過ぎて行き、時々ハノイが来た。
媒体を取られるだけではなく、一緒に星空を眺めた日もあった。
言葉、感覚、手足の自由がもう消えていく。
また、今日もハノイが来た。
「まだ、ここに残るの?」
辛い物を堪えているような表情で、ハノイは聞く。
視線だけで訴えた。
今更だ。
「分かったよ。」
いつものように、手で目を塞ぐ。
「終わったよ。」
今回分の媒体は視覚だった。
毎日が楽しかったのに、今はもう音しかない。
あの星空も、あの月も
もう見ることはできない。
長い時間をただ、じっと何もせずに過ごして行く。
足音がする。
今日もまたハノイが来た。
「それでも、まだここに残りたいの?」
どうなんだろう。
でも、もうどうでも良いかな。
ハノイが脇にしゃがむ。
「本当にそれで良いの?」
今更だ。
「分かったよ。」
少し震えた声で答える。
それから、ゆっくり、もう使えない目を手で塞いだ。
これでもう、全てから切り離される。
皮肉な事に、今更のように恐怖が襲う。
ハノイの少し小さい手は細かく震えていた。
熱い雫が落ちて来る。後から、後から。
手が離れた。
ハノイが泣いている。
手で自分の服をぎゅっと掴んで。
泣き声を堪えるようにして。
え?見える?
「何で、何でそんなにここに居たがるんだよ!」
怒鳴られて、手を掴まれた。
力が伝わって来て、手が少し痛む。
人でいっぱいの世界で、周りに合わせながら、自分を捨てて生活していく事に疲れたんだ。逃げて、逃げて、逃げて。
気がつけばここに居た。
ごめん
その声が自分の口から出てくる。
小さな背中は小刻みに震えていて、頼りなく見えた。
「ユホの馬鹿!」
また怒鳴られた。
「ごめん。」
きっと辛かったのだろう。
安心させてあげたくて、そっと抱きしめる。
重い事させちゃったね。
ごめんなさい。ありがとう。
少し時が経ち、ハノイの涙も止まった。
「ユホ、そろそろ送って行くよ。」
静かにそう、大人びた雰囲気で言って山のふもとまで、私を送って来た。
一歩足を踏み出せば、元の世界。
「もう、戻って来ちゃダメだよ。」
優しく諭すように言う。
元の世界に戻ったら二度とハノイには、会えないような気がした。
「寂しそうな顔、しないでよ。君には帰る世界も、場所も有るのだから。」
そうだね
「頑張る。」
ハノイがポケットから銀色の長い鎖を出した。先端には深い青の石が着いている。
色は違うのに、ハノイの瞳を思わせた。
「これ、あげるよ。」
私の手に押し付け、握りこませる。
「ありがとう。・・・さようなら。」
ゆっくりと一歩踏み出した。
「行ってしまったな。」
久々に人に会えて嬉しかった。
また、寂しくなりそうだ。
でも、あれで良かったのだ。帰る場所が有る人を、引き止めておく訳には行かない。
「バイバイ、ユホ。」
少年の姿は風に揺らぎ、かき消えた。
まず、目を留めてくださり、ありがとうございます。
さらに、ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
感謝し足りません。
続編は希望されれば書いて見ます。
改めまして、本当にありがとうございました。




