8
強い雨が降る中、二人は向かい合いに立っていた。
「やっぱり、アヤミと別れたくない。」
シンは、真っ直ぐにアヤミを見つめた。アヤミは視線を逸らし、地面を睨んでいる。
「ごめんなさい。でも、もう一緒にいられないの。仕方がないのよ。」
アヤミの頬に流れた涙を雨が隠してくれる。
「俺と別れて、他のヤツと結婚して、それで幸せになれるのか?本当に、俺を忘れられるのか?」
「そんな問題じゃないの。シンだって、わかっているんでしょう?一緒にいてはいけないのよ。もう、私達、一緒にいられないの。」
「俺は、やっぱり理解出来ない。アヤミと一緒にいたいんだ。離れたくない。」
「シン…。」
アヤミの肩を強く掴み、抱き寄せる。
「でも、結婚を拒否したら、私達、この世界にはいられない。生きていられないのよ。」
「アヤミと離れるくらいなら、死を選んだ方がラクになれる。アヤミは、俺と別れても大丈夫なのか?」
アヤミは、シンの背中に手を回し、そっと瞳を閉じた。
「大丈夫なはずがないでしょう。私だって、同じ気持ちよ。でも…。」
「じゃあ、一緒にいよう。何も迷う事はないよ。俺以外の男と結婚なんかするな。」
「シン…。」
「何が遭っても離れないよ。ずっと、アヤミといる。約束するよ。」
「ありがとう。」
震える声で、シンを受け入れ、二人は口付けを交わした。
目を覚ますと、見慣れない天井が目に入る。
ここは何処だろう?何で寝ていたの?それよりさっきの夢は……。
色んな疑問が浮かんでくる。
「私…。」
小さな声で呟くと、薄いカーテンが開き、眩しいほどの光が飛び込んでくる。
「光さん、気が付いた?」
「…はい。」
保健の先生の優しい笑顔。
「体育の授業中に倒れたのよ。軽い貧血みたいね。気を付けてね。」
「すみません。ご迷惑をおかけしました。」
ベッドから起き上がり、軽く頭を下げる。
「彼が、すごい慌て様で貴女を抱えてきたわ。彼に心配をかけてはダメよ。」
「彼?」
「七海くんよ。貴方の名前を何度も繰り返して、大切にされているのね。」
彼女は、ウインクをして、笑った。
「そうですか。」
「もうすぐ、六時間目が終わるわ。放課後になったら、迎えに来ると言っていた。もう少し、横になっていなさい。」
「でも、もう大丈夫です。」
「ダメよ。もし途中で、また貧血を起こしたら、どうするの?彼に送ってもらいなさい。」
彩美の返事を待たずに、彩美をベッドに横にさせ、ベッドから離れていく。
彩美は、溜息を漏らし、天井を見つめた。
新と一緒に帰れるはずないのに。別れを決めきれずにいて、でも、本当は終わりにしなければいけない。もう一緒にはいられない。わかっているのに、それを口に出せずにいた。
「キンコーンカンコーン。」
チャイムが鳴り、六時間目が終わる。
「どうしよう。」
小さな声で呟き、落ち着かなくなる。逃げ出そうと布団に手を掛けると、ドアが開く音と共に新の声が聞こえてくる。時すでに遅し、らしい。
「失礼します。」
「七海くん。光さんは、気が付いたわよ。奥のベッドにいるわ。私、少し出るけれど、すぐに戻るから、少し待っていてくれる?」
「はい。」
新が近付いてくる足音が聞こえる。
彩美はどうする事も出来ずに、眠ったフリをした。
「彩美。」
カーテンを開ける音が彩美に届く。
「彩美、眠っているのか?」
髪に触れ、優しく頭を撫ぜられ、トクンと小さな漣が起こる。
「彩美。」
頬に触れ、唇が重なる。
「起きているんだろう。」
新の声で、彩美は瞳を開いた。
「やっぱり。身体が強張ったのが、わかったからね。」
楽しそうに笑う。彩美は、その顔を見る事が出来ずに、目を逸らした。
「今日一日、どうして、俺を避けた?」
「……。」
彩美は、言葉を探し出せずに、ベッドの上で握り締めた手を見つめた。
「俺の事を嫌いになったのか?」
無意識に首を横に振る。
「それなら…。」
「ごめんなさい。でも、もう、新と一緒にいられないの。」
「彩美?」
「ごめんなさい。」
ベッドから抜け出し、急いで上履きを履く。走り出そうとすると、腕を捕まれた。
「理由を言わなければ、離さない。」
「ごめんね。ごめんなさい。」
彩美の瞳から涙が零れ落ちた。
「彩美?」
「彩美の手を離してやってくれ。」
ドアの方から声がして、顔を上げた。そこには、一仁が立っている。
「奥山、彩美に何をした?」
「何もしていないよ。彩美は、お前じゃなく、俺を選ぼうとしているだけだよ。」
「そんなはずがないだろう!お前が何かしたに決まっている。」
「やめて!」
彩美が耳を塞ぐ。
「もう争わないで。お願い。」
「彩美…。」
二人は呆然と彩美を見つめた。
「私、帰るね。」
一人、保健室を後にした。更衣室で着替えを済ませて、学校を出た。
「私の帰るべき場所は、何処なんだろう?」
呟き、駅へ向かって歩き出した。
一仁の家は、自分の居場所ではないと感じている。
電車に飛び乗り、両親と暮らしていた街に向かった。車窓から流れる景色は、彩美の心を少しずつ和ませてくれる。懐かしい景色が見えてくると、窓の外に見入っていた。電車が駅に着き、下りると懐かしい匂いが彩美を包み込んだ。
「ただいま。」
少しだけ微笑み、歩き出す。街の彼処に懐かしい思い出が浮かぶ。
「彩美。」
「真事。」
「久しぶりね。元気?」
「真事こそ、元気そうね。」
「彩美に、あんな格好良い彼氏が出来たなんて、びっくりしたわ。」
彩美は、苦笑いを漏らした。
「元気ないね。どうしたの?」
「何でもないの。」
「そう?」
「うん。」
「俯いていたら、わかっていたものさえ、見失ってしまうわよ。」
「真事…。」
「お節介かもしれないけれど、私からの忠告。親友からの忠告は聞いておくものよ。」
「ありがとう。」
二人は顔を合わせて、微笑み合った。
「ゆっくりしたいけれど、哲大を待たせているの。ごめんね。」
「ううん、大丈夫。哲大とデート?」
「そんなはずがないじゃない。あのバカとデートなんて。」
真事は嬉しそうに笑みを見せる。
「じゃあ、今度、ゆっくり遊ぼう。」
「うん。じゃあね。」
「またね。」
真事に手を振り、歩き出す。心が少しだけ温かくなっているのを感じていた。
元の家の前で立ち尽くした。家の形はなく、ただの空き地になっている。囲いがしてある真ん中に大きく、売り地と看板が立っているだけ。
「私の帰れる場所はここでもないのね。」
大きな溜息を漏らし、俯いた。
「お父さん、お母さん。戻ってきて。また、三人で暮らそう。」
涙が地面に落ちた。
「彩美。」
振り返ると、そこに新が立っている。
「新…。どうして、ここに?」
「泣くなよ。」
両手を伸ばして、彩美を抱き寄せる。
「泣くな。大丈夫だよ。何が遭っても、俺は傍に居るから。」
「新…。」
声もなく、泣き続けるしか出来ない。聞きたい事はあるのに涙に負けてしまう。
新は黙ったまま、彩美の背中を撫ぜ続けた。しばらく経つと彩美は、涙を拭いて新の顔を見上げる。
「着いてきたの?」
「うん。彩美の様子がおかしかったから、心配で、さ。」
「心配してくれて、ありがとう。」
少しだけ微笑む。新は、嬉しそうに笑った。
「帰ろう。俺達の街に。」
彩美の手を取り、歩き出す。
「彩美。」
「何?」
「一緒に暮らさないか?俺達の隣の部屋が空いているんだ。」
「えっ?」
「彩美と少しでも一緒にいたい。」
「ありがとう。でも、どうして、私なんかにそこまで言ってくれるの?」
駅に着き、電車がホームに入ってくる。乗り込み、隣通しに座った。
「彩美が好きだからだよ。」
「どうして、私なんかを好きになってくれるの?私……。」
「彩美だから、好きになった。それだけの理由だよ。例え、彩美にどんな秘密があってもそんな簡単に気持ちを切り替えられない。」
「新…。」
彩美の心が揺れる。
全てを話してしまおうかと思った。でも、自分の中でさえ、理解出来ていないのに、新にわかってもらえるはずがない。
「もう、私達、一緒にいられない。」
「彩美?」
「私、高校を卒業したら、かずちゃんと結婚する事が、決まっているの。だから、ここで、さようならしよう。」
「どうして、奥山と?」
「前から決められていた事なんだって。」
「彩美は、それでいいのか?」
「仕方がないのよ。それに、かずちゃんとなら、上手くやれると思う。」
「もう、俺の事を好きじゃないのか?」
新の声が震えている。彩美は、何も言えずに俯いたまま、下唇を噛み締めた。頷くのは簡単なのに、それさえ出来ないくらい、胸が痛みを帯びていた。
「そんなに簡単な気持ちじゃないよな。俺だって、わかっている。それなのに、どうして、気持ちを誤魔化そうとするんだ?」
「ごめんね、ごめんなさい。」
堪えきれずに涙が手の甲に落ちる。電車が駅に停止し、彩美はバッグを抱えて走り出した。
「彩美!」
彩美の腕を握り締めようとする手は空を掴み、電車のドアが閉まる。新だけを乗せ、電車が発車した。
「新、ごめんね。」
ベンチにしゃがみこみ、バッグを抱えたまま、泣き続けた。
空が夜の準備を終えようとする時刻、バッグの中で携帯電話が、着信を知らせる。一仁からの電話。
涙を拭いて、ゆっくり通話を開いた。
「もしもし。」
「彩美、何処にいるんだ?」
駅名を告げて、黙り込んだ。
「すぐに迎えに行くから、そこにいるんだぞ。わかったな?」
「はい。」
電話を切り、呆然と前を見つめていた。泣いたせいで頭がぼうっとする。
また、電話が鳴る。新からだった。彩美は迷いながら、通話を開く。
「彩美。」
「ごめんなさい。」
「今日は、このまま、帰るよ。でも、もう避けないで欲しい。彩美の気持ちは、わかっているつもりだから。もう、嘘は聞きたくない。」
「ごめんなさい。」
「謝らなくてもいい。だから、素直な彩美の気持ちが欲しい。ただ、それだけだよ。じゃあ、またな。」
「うん。」
通話が切られ、電話を握り締めた。涙を拭いて、ただ一仁の到着を待っていた。