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少し重たい雲を抱え、今にも泣きだしそうな空模様。それでも教室に入ると、何事もない様な普通の日常が待っていた。
「おはよう。」
彩美は、バッグを机の上に置き、隣の席で話をしている新と行に挨拶をする。
「おはよう。」
二人の手首に視線が止まる。包帯が巻かれ、痛々しそうだ。
「どうしたの?」
「あぁ、これね。」
彩美の視線に気付き、二人は苦笑いを漏らす。気付かれてしまったと言わんばかり。
「昨日、ちょっと火傷をしただけなんだ。」
「火傷?」
「そう。薬を塗ってあるから、大げさに見えるけれど、どうってことないんだ。」
新がにっこりと微笑み、何かを誤魔化している。
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。」
「でも、二人揃ってなんて、何をしたの?」
「揚げ物をしていて、油が跳ねたんだよ。」
「そうなの?気を付けてね。」
「今度から気を付けるよ。」
三人の視線が重なり、微笑み合う。それぞれの気持ちをかくしたまま。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
彩美は、ポケットにとっさに隠した小さな紙を取り出す。今朝、靴箱に仕舞っておいた上履きに隠されていたモノ。開くとあまり綺麗とは言い難い字で、呼び出しのお手紙が書かれていた。
『午後四時。裏庭の銀杏の木の下で待つ。』
氏名も書かれていないし、性別もわからない。けれど、告白を連想させない。
彩美は小さく溜息を漏らし、自分も偉くなったものだと苦笑した。
放課後になり、教室にバッグを置いたまま、彩美は呼び出し通り裏庭に来ていた。
人通りが少なく静まり返っている空気。遠くで部活をしている人の声だけが聞こえるだけ。
大きな銀杏の木の下には、五人の女生徒が、彩美を待ち構えていた。真ん中には、目鼻立ちのしっかりしたウェーブの髪の美人が立っている。
「あの人が、川上瑤子さんなのかな?そうなのなら、本当に綺麗な女性ね。」
呟き、銀杏の木の下に歩み寄る。
「よく来たわね。」
「せっかく呼び出しを受けたのに、無視するわけにもいかないでしょう?」
五人の視線が彩美に降り注ぐ。好意的とは程遠い瞳。
「お話って、何ですか?」
彩美は、五人を交互に見つめた。
「あまりいい気にならない方がいいわよ。」
一番右の女性が口を開く。
「何の事ですか?」
呼び出しの理由はなんとなくわかっていたが、ここは逃げ切れるまで逃げるに限る。
「七海くんと微風くん、奥山くんを手玉にとって遊んでいるみたいだから、忠告してあげているのよ。」
その隣の女性が口を開いた。決められた順番があるのだろうか?
「手玉になどしていませんよ。かずちゃんは従兄弟だし、新は恋人だし、行は親友よ。仲良く過ごして何が悪いのかしら。忠告される筋合いですよね。」
「よく言うわね。」
一番左の女性が苦笑する。
「本当に。よくそんな言い訳出来るわね。転校したてだから、親切でよくしてあげているだけだって、わからないのかしら?」
「えぇ、皆、よくしてくれるわよ。それのどこが、貴方達は気に入らないわけ?ただの嫉妬じゃないの?」
彩美は、顔色一つ変えずに、平然としている。内心はひやひやでも。
一人の女性が悔しそうに、下唇を噛み締めた。真ん中の女性が高い声で笑い出す。
「瑤子、何を笑っているのよ。私達、バカにされているのよ。」
「参ったわね。」
瑤子が笑うのをやめ、彩美を真っ直ぐに見つめた。瞳の奥まで見抜くような強い眼差し。
「そうよ。ただの嫉妬よ。悔しいけれど、認めるわ。そう、一仁と従兄妹なの。」
「えぇ、貴方が瑤子さんね。かずちゃんから、話を聞いているわ。」
「私が、一人で恋人面しているのも知っているのね。」
言葉に困って、少し俯く。瑤子の綺麗な顔には哀しみの色。
「別に、気にしないで。私は嫌と言うほど、わかっているのよ。一仁の心の中にいるたった一人の女性の事も知っているの。貴方だって事もね。それが悔しくて呼び出したのよ。」
「瑤子さん…。」
「一仁が惹かれるのが、わかる気がするわ。もう、貴方に手出しはしないし、させない。それで、許してもらえる?」
「えぇ。」
「そう、七海くんと付き合っているの。一仁も失恋ね。でも、仕方がないわね。」
「かずちゃんには、悪いと思うけれど、私、新が好きなの。この気持ちを簡単に曲げられない。」
「これ以上、私達は何も言えないわ。幸せになってね。」
「ありがとうございます。」
「彩美!」
背後から慌てた一仁の声が聞こえる。
振り返ると、いつもの冷静な表情はなく、髪を乱し、駆け寄ってくる。
「かずちゃん、どうしたの?」
「瑤子、彩美に何をした?」
怒りを隠しもしない瞳で瑤子を睨み付けている。
「何もしていないわよ。ただ、お話をしていただけよ。ねっ、瑤子さん。」
「呼び出して、絞めようとしたのよ。でも、失敗に終わってしまったのよ。」
「瑤子さん!」
「瑤子。」
低い凄みを持つ声を発し、真っ直ぐに瑤子を睨んだまま、口を開いた。
「もう、彩美に近付くな。もし、彩美に何かするようなら、どうなるかはわかるだろう。」
「貴方が、女に手出し出来るとは思わないわ。違う?」
「彩美を傷付けるようなら、例え、女でも容赦はしない。」
「そう。でも、彩美さんは、貴方を愛していないわよ。それをわかって、そんな事を言っているの?恋人がいるのよ。」
一仁も瑤子も顔色を変えずに話をしている。
彩美だけが、落ち着かない様子で、あたふたと二人を交互に見ていた。
「恋人?」
鼻に掛かるように笑いを漏らす。
「一時の迷いだ。わかっていないだけだよ。」
「違うわ。」
彩美が視線を真っ直ぐ一仁に向けた。一瞬だけ血が騒ぎ出す。
何度も話を聞いてもらい、わかってもらおうとした。それなのに…。
今の彩美じゃない違う記憶が強く訴えている。その激情に流され、勝手に口が動いていく。
「一時の迷いなんかじゃないわ。私は、本当に新を愛している。」
「彩美、言っただろう。」
「聞いたわよ。しっかり憶えているわ。でも、この気持ちに嘘はないの。」
「今は、そんな事を言っていてもいいよ。一年後に同じ事が言えるか、わからないけれど、な。」
一仁が不敵な笑みを浮かべる。意味深な笑み。
彩美の中の何かが一気にしぼみ、口を閉ざした。
「瑤子、わかったな。帰ろう、彩美。」
一仁が瑤子を睨んだ後、彩美に笑みを見せる。
彩美は、言葉を発せないまま、一仁の背中に着いていくしか出来ない。
「瑤子、このままでいいの?」
「一仁に嫌われたくないの。」
瑤子は淋しそうに微笑み、一仁の背中を真っ直ぐに見つめた。