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チャイムが鳴り響き、賑やかな教室が静まり返る。少し経つと栗林先生が入ってきた。
「じゃあ、授業を始める。教科書十五ページを開いて。」
彩美は隣にいる新の存在を嬉しく想いながらも、黒板をノートに写し、先生の話を聞く。
ポトリと言う音と共に、手元に小さな紙切れが落ちてくる。何事だと顔を上げると、新が小さく手を振りながら、笑っている。彩美も微笑み返して、視線を落とす。
『放課後、暇なら家に遊びに来ないか?』
彩美は少し微笑み、返事を書き出した。
『いいよ。たくさん、お話しよう。』
手紙を投げ、二人で微笑みを交わす。
たったこれだけのやり取りがとても胸のワクワクさせている。
長い退屈な授業が終わる合図が校内に響くと、先生が出て行くより早く後ろのドアが開いた。
「彩美。」
一仁が顔を覗かせる。教室が少しだけざわめき立つ。
「かずちゃん、どうしたの?」
彩美は首を捻りながらも立ち上がり、一仁の傍に駆け寄った。
「ちゃんと挨拶出来たか?」
「大丈夫よ。」
「友達は出来そうか?」
「うん。私、もう子供じゃないのよ。そんなに心配をしなくてもいいわよ。」
「そうか。」
目を細め微笑んだ後、彩美の頭を撫ぜる。
「七海達と同じクラスだから心配だったんだ。近寄るなよ。」
「あのね、かずちゃん。」
「それと、放課後、生徒会の会議があるんだ。一人で帰れるか?」
彩美の言葉をかき消すように話を続ける一仁。
「大丈夫よ。」
「じゃあ、移動教室なんだ。またな。」
「うん。じゃあ、ね。」
一仁が慌しく、教室を後にする。彩美は小さく溜息を漏らし、席に戻った。
「彩美、奥山くんと知り合いなの?」
「うん。従兄妹なの。かずちゃんの家にお世話になっているのよ。」
「そっか。怖い環境にいるわね。」
「怖い環境?」
「そうよ。女子の嫉妬を集めている。」
「嫉妬?」
「人気者に囲まれているんだもの。仕方がないわね。」
「人気者?」
「奥山くんと七海くん、微風くんの三人よ。ルックスを見ればわかるでしょう?可愛い弟のような七海くん。優しいお兄さんのような微風くん。クールな奥山くん。私達の学校のアイドルよ。」
「そうなの?」
「それも七海くんの彼女となれば、余計ね。」
「どうしよう。」
「どうにも出来ないわね。まぁ、大丈夫だと思うけれど、川上さんには、注意をした方がいいわね。」
「川上さん?」
「そうよ。奥山くんの彼女。」
「あぁ、瑤子さんの事ね。」
「知っているの?」
「話だけね。かずちゃんの彼女ではないらしいわよ。」
「そうなの?」
「と、かずちゃんは、言っていたわ。」
「そう。」
「そうだったのね。」
智恵の背後から頷く女性がいる。
「美弥子。」
「どうも。始めまして。私、大槻美弥子。智恵の無二の親友なの。よろしくね。彩美。」
「よろしく。」
「おかしいと思ったのよ。確かに川上さんは、ルックスはいいけれど、性格は、ね。そんな人を奥山くんが選ぶなんて、ね。」
「いつからいたのよ。」
「うん。川上さんの話が出た辺りから。」
「彩美。美弥子は、奥山くんのファンなの。気を付けた方がいいわ。」
「えっ、何で?奥山くんと付き合っているの?」
「違うわよ。かずちゃんとは従兄妹なの。」
「何だぁ。親友になりましょう。」
「何か企んでいるわね?」
「失礼な言い草ね。何も企んでいないわ。純粋に友達になろうと思っているだけよ。」
三人の間に笑いが漏れる。
「楽しそうだね。」
新が彩美の肩を両手で持って、顔を覗かせる。彩美は驚き、新の顔を見上げた。
「新。びっくりするじゃない。」
「そうか?ごめん。」
「あら?七海くんと知り合いなの?」
「恋人だよ。」
新が嬉しそうに笑みを覗かせる。
「恋人?」
美弥子が驚きの表情をする。
「女の嫉妬を集めるような環境にいるわね。」
「そうなんだって?智恵に聞いて驚いたの。」
「大丈夫だよ。きっと、七海くんが守ってくれるわ。この顔を見る限りね。」
「女の嫉妬って?彩美が可愛いから?」
新の惚けた反応に笑いが起きる。自分が学校のアイドルだと言う事に自覚がないらしい。
「自分の事に関しては、鈍感なんだよな。コイツも。」
行が呆れたように笑う。
「そこが可愛いんじゃない?」
彩美は、真っ直ぐに新を見つめた。
「可愛いより、格好良いと言って欲しいね。童顔なのは認めるけれど、ね。まぁ、彩美の事はどんな事が遭っても俺が守ってやるよ。安心していいよ。彩美。」
新が彩美に笑いかける。彩美の頬が赤く染まった。
「ありがとう。」
小さな声で呟き、少し俯く。新は満足そうに微笑み、頷いた。
再び、チャイムが鳴り、行と美弥子は席に戻っていく。彩美達も教科書を出し、授業の準備を始めた。
けれど、彩美は、上の空で授業を聞いていた。ノートだけは取っていたけれど、頭の中では新の事を考えていた。
まだ何も知らない新と付き合い出した自分の不可解な行動。でも、それには答えが出ていた。
あの時、好きだと感じた。一目惚れ?何かが違う。けれど、確かに自分の中で新を求め、欲していた。それだけは認めている。まだ、躊躇いはある。でも、後悔していない。新の事をもっと知りたいし、近付きたい。
それに彼が口にしていた十八年前に出会っていた、と言う意味を知りたい。身体の何処かでそんな記憶が存在する。不思議だけれど、そう信じていた。
彩美は、小さく溜息を漏らし、隣にいる新を見つめた。彩美の視線も気付かずに、黒板とノートを交互に視線を移してる。
彩美の心の中で、懐かしいような気持ちが渦巻く。前にもこうしていて、横顔を眺めていた、そんな感覚がある。思い出したいのに、思い出せない。また、少し頭痛がして、頭を抱える。
校内に授業終了のチャイムが鳴り響く。ノートはとっていたが、内容は頭に入っていない。
「彩美、どうした?調子が悪いのか?」
隣に立ち、彩美を心配そうに見つめる。顔を上げ、少し微笑んでみせた。
「大丈夫。ちょっと、頭痛がしただけ。」
「そうか?保健室で頭痛薬を貰って来ようか?それとも少し横になるか?」
「本当に大丈夫よ。もう大分、良くなったの。」
「あまりムリをするなよ。」
「ありがとう。」
本気で心配してくれる新に、彩美の胸の中が温かいモノで満たされていく。
「じゃあ、お昼を食べよう。」
「うん。」
「お弁当?」
「うん。」
「じゃあ、お弁当を食べるのに、最適な場所があるんだ。そこに行こう。」
「うん。」
新と行に挟まれ、校内を歩く。女生徒の視線が刺さる。彩美は、居心地が悪くて、少しだけ俯きながら歩くしか出来ない。
芝生が綺麗に整えられた中庭の片隅、大きな木の下に座り込む。周りにも何組かの生徒がお弁当を広げている。太陽の日差しが、優しく木の間から差し込む。
「風が気持ちいいわね。それに、太陽の日差しも木の陰で優しくなるみたい。」
「彩美は変わらないね。」
新と行が微笑み、彩美を見つめる。
「えっ?」
「何でもないよ。」
二人は微笑んだまま、何も言わない。
「彩美は、従兄妹と一緒に住んでいるんだよな。優しくしてもらっているのか?」
「うん。皆、良い人よ。かずちゃんも優しいし、妹の一紗ちゃんも慕ってくれる。もちろん、おじさん達もよくしてくれるのよ。」
「かずちゃん?奥山と暮らしているのか?」
「うん。よく、かずちゃんでわかったね。」
「大丈夫なのか?」
「えっ、何が?かずちゃんは、とっても優しくしてくれるよ。それに、小さな頃から仲が良いのよ。」
「そうか。」
溜息混じりに頷く。彩美は、首を捻った。
「なら、いいけれど。」
言葉を押し殺すような口調。
「新達とかずちゃんは、仲が悪いの?」
「別に、何の関係もないよ。」
重たい口ぶり。
「そっか。」
まだ何も話せない、暗にそう伝えられ、話題を変えようと言葉を探す。
「新と行は仲がいいのね。」
「そうかな?産まれた時から一緒にいるから、そんな風に感じた事はないな。」
「二人で暮らしているのよね?いいの?今日、私がお邪魔しても?」
「彩美なら、大歓迎だよ。」
行が微笑む。
「ありがとう。」
三人の間に穏やかな空気が流れた。
「彩美、校舎を案内してあげるよ。」
「うん。」
お弁当箱を仕舞って、新につられ立ち上がる。
「お弁当箱は、俺が教室に置いておくよ。しっかり、校内を案内してやれよ。」
「ありがとう。」
新が、彩美の手を握り締め、歩き出す。
「俺達の教室があるのが、第一校舎。移動教室がまとまっているのが、第二校舎。第二校舎に行こう。」
第二校舎は、静まり返っている。
「ここが音楽室。で、そっちに行くと美術室。」
「新。」
彩美は、足を止め、新を見上げた。思い切って、口を開く。
「どうした?」
「私の覚えていない記憶の中で、行も一緒にいたの?」
「うん。俺達は、いつも三人だった。俺と彩美は、付き合っていたけれど、行はいつも一緒にいた。」
「行も憶えているの?」
「行も忘れていた。でも、俺達の両親を焼き尽くした火事の時、思い出した。」
「そう……。私も思い出せるかな?」
「どうしたんだ?」
「私だけが記憶がない。それが、新の重荷になっているように感じて、罪悪感がある。」
「重荷になんてなっていないよ。俺は、ただ彩美と一緒にいられるだけで満足しているんだよ。彩美が気にする事じゃない。」
「でも…。」
「それに、俺を好きになってくれた。それだけで思い出しているんだよ。」
「新…。」
「俺は、どうしようもないくらい、彩美が好きだ。彩美もそのくらい、好きになって欲しい。俺の望みはそれだけだよ。」
「ありがとう、ごめんね。」
新が腕を伸ばして、彩美を抱き寄せる。彩美は一瞬硬直したが、次の瞬間には新に身体を委ねた。
「泣き虫なのも変わらないな。それに、優し過ぎるんだよ。」
彩美の頬を両手で包み込み、上を向かせる。ゆっくりした速度で顔を近付け、口付けを交わす。新はもどかしそうに、強く唇を押し付ける。彩美も精一杯、新を受け止めた。
「新…。」
「彩美は、俺の事、好き?」
「好き、だよ。」
恥ずかしそうに頬を染める。
「俺も彩美が大好きだよ。」
新が嬉しそうに笑い、彩美の手を握り締める。
「そろそろ、教室に戻ろう。」
「うん。」
二人同じ歩調で歩き出す。二人が離れる理由は、もうない。