15
一仁が来てから、一か月が過ぎた。あれから一仁が現れる事もなく、穏やかな時間が流れている事に、彩美は胸を撫で下ろしていた。
「帰ろう。」
仕事を終え、夕日に向かって歩いていく。
今夜の夕食は冷蔵庫にある物で済ませようと、頭の中で献立を考えながら、歩みを進めていると、道路を挟んだ反対側で目が留まる。
「ダイ?」
彩美の手が自然に震える。
「そんなはずがないわね。」
呟き、自分を落ちつけようと大きく息を吐き出した。
天上球で同級生だった笠原代に似ている人が、何人かの男性を連れ、歩いていた。
クラスメイトで仲良しというわけではないが交流がある、その程度の友人。十八年もの月日が流れているはずなのに、数年成長した程度の外見とか有り得ない。違う人だ。彩美は自分に言い聞かせ歩き続けるが、やけに心に引っかかっていた。
「TRRR。」
携帯電話がバッグの中で着信を知らせ、彩美は身体をびくりと震わせる。
「あぁ、メールか。」
ただの着信に怯えるような反応をしてしまった自分に苦笑しながら、一仁からのメールを開く。
『天上球で一緒だったダイが、俺達を連れ戻すために来ている。彩美達の町に向かった。今すぐ、逃げろ。なるべく遠』
途中で文字が切れている事に、嫌な予感が増大する。
「かずちゃん…。」
彩美は携帯を握ったまま、走り出した。
「大変なの。」
家のドアを勢いよく開くと、テレビを見ていただろう新と行が同時に振り返った。彩美は息切れを治めるために、大きく息を吐き出す。
「どうした?」
「ダイが、ダイが、私達を連れ戻すために地球に来ているの。多分、かずちゃんは捕まってしまった。」
「奥山が?」
「かずちゃんがメールをくれたの。今すぐ逃げろって。だけど、メールが途中で切れていて、だから、きっと、かすちゃんは…。どうしよう。」
「彩美、落ち着け。大丈夫だ。力を使わなければ、正確な場所はわからないはずだ。大丈夫だよ。」
今にも泣きそうな顔をする彩美の肩を抱き、新が優しく微笑みを見せる。
「…うん。」
小さく頷き、深呼吸。促されるまま、リビングのソファーに座った。
「彩美、何も心配しなくていい。例え、ダイ達が追ってきても彩美だけは命を懸けても守ってやるから。」
「イヤ。」
即座に否定する彩美に、新と行は驚いたように目を見開く。
「命を懸けてなんて、言わないで。私だけが守られるなんて、絶対に嫌よ。私だって、新や行を守りたい。三人で楽しく暮らすんでしょう?」
「彩美…。」
新と行は顔を見合わせ、呆れたように肩を竦める。
「そうでしょう?行。」
「あぁ、そうだな。約束したからな。」
三人の視線がぶつかり、微笑み合った。
「夕食の準備をするわね。こうしていても仕方がないものね。」
彩美が気を持ち直し立ち上がると、二人も同時に立ち上がった。
「手伝うよ。」
「うん。」
三人で今日の出来事などを話しながら、食事を用意して食べる。追われている事実から目を逸らし、今の時間を楽しむ事に全力を尽くす。今は、今だけはそうしたい。三人の気持ちは同じだった。
「どうして、かずちゃんだけ見つかってしまったのかしら?」
食後のコーヒーを飲みながら、テレビを見るでもなく眺めていると、彩美が遠慮がちに言葉を発した。
「奥山は二つの力を持ち合わせ、それに両方の力が強い。だから、居場所を見つけやすかったんだろうな、きっと。」
「これから、かずちゃんは、どうなってしまうの?」
「そうだな、天上球に連行されたら、忘却処理だろう。」
「忘却処理…。」
罪を起こした事柄に対して、その関連事項だけの記憶を消す。それが強制忘却処理。
天上球の罪の罰し方は二種類、この忘却処理と。存在自体を消す、つまり死刑と同意の強制消却処理。彩美と新はマザーの意に反し結婚を拒否した重罪人、強制消却処理を執行される事は決定されている。そして、それに巻き込まれ協力した行は、強制忘却処理。同様に結婚を拒否され、彼女を追い続けた一仁も行と同様に忘却処理がされるだろう。
「やっと穏やかな生活が出来ると思っていたのに、どうして、こんな想いをしなくてはいけないのかな?だって、ここは地球なんだよ。私達は違う生活をしているんだよ。」
「本当に、な。」
三人同時に溜息を吐き出した。沈黙が降臨し、重たい空気が流れ始める。
「そんな落胆していたも仕方がない。前向きに頑張ろう。それしか出来ないだろう。」
大きく首を横に振った後、新は笑みを二人に向けた。
「そうだね。」
「あぁ、その通りだ。」
二人も新の笑みに応え、気持ちを奮い立たせた。
「ピンポーン。」
突然のチャイム。三人は顔を見合わせ、表情を引き締めた。
「新、彩美。ベランダに出て、逃げる用意を。俺が出る。」
「でも、行…。」
「俺は捕まっても忘却処理、二人はそれでは済まされない。生きていなければ意味がないだろう。」
行の真っ直ぐな優しい瞳に、彩美は息を飲み込んだ。
「ごめん。」
新に引っ張られ、ベランダに出る。
「はい。」
「お届け物にあがりました。」
行が少しだけドアを開けると、ダイが立っている。
「行け!」
行の声が二人の翼を羽ばたかせた。ダイは咄嗟に行の身体を抑え込み、大声を出す。
「追え!追うんだ!」
ダイの叫び声を聞くと、外で待機していた仲間が飛び立つ。
彩美と新は手を繋いだまま、翼を広げ、空高く飛んでいく。自分達には追い風を起こし、相手には向かい風を吹かせる。新も相手の頭上だけに雨を落とす。
空が闇に包まれると、追っ手の存在を感じる事もなくなり、二人は山の中腹に降り立った。荒くなった息を整えるように、深く呼吸をする。
「彩美、疲れただろう。」
「久しぶりに飛ぶと疲れるわね。でも、感覚は憶えているものね。」
「あぁ。こう暗くなっては追っ手も俺達を探せないはずだ。今のうちに休もう。」
「うん。」
新は彩美の手を取って歩き出す。十五分ほど歩くと、舗装されている道路に出た。車も人も通っていない暗い道に明るいネオンが目に飛び込んでくる。
「ここで休もう。」
煌びやかな電飾で飾られたホテル。小さなプレハブが並んでいて、その一番奥の部屋に入る。大きなダブルベッドとテレビ。小さなテーブルとソファー、壁際には冷蔵庫とレンジが置いてある。電気は薄暗く、外の電飾とは正反対な佇まい。
「烏龍茶、飲むだろう?」
「ありがとう。」
大きなベッドに座り、冷蔵庫に入っていた烏龍茶で喉を潤す。
「新、話があるの。」
彩美は両手で握った烏龍茶の缶を見つめたまま、顔を上げずに口を開いた。
「何?」
「あのね、今、話すべきじゃないかもしれない。でも、今しか言えないと思う。」
「話して。」
新が優しい瞳で彩美に話を促す。
「私、私ね、妊娠したみたいなの。」
「妊娠?」
「最近、気持ち悪くなったり、その、つまり、ちょっと調子がおかしかったの。だから、検査をしたの。そうしたら、陽性になった。まだお医者さんに行っていないけど、間違いないと思う。…ごめんね。こんな時に、こんな話して…。」
「謝る必要はないだろう。すごく嬉しいよ。ありがとう、彩美。」
「新…。」
「そうか。ここに俺達の子供がいるのか。」
新が愛しそうに彩美のお腹に触れる。
「この子のためにも落ち着いた生活を取り戻さないとな。」
「産んでもいいの?」
「当たり前だろう。俺達の子供なら、絶対に可愛い子だよ。楽しみだ。」
新が彩美の身体をぎゅっと抱き締める。
「そんな顔するな。大丈夫だ。俺達は必ず幸せになれる。」
「うん。」
「さぁ、お風呂に入って、もう眠ろう。明日、早く起きて、新しい生活場所を探さないと。」
「そう…ね。」
彩美はぎこちなく笑い、新は彩美の髪を撫で微笑みを零した。大丈夫と伝えてくれるその微笑みに、彩美も大きく頷き応える。
抱き合い眠りについた二人は、朝方、まだ陽も昇らない時刻に目を覚ました。外で物音と小さな人の声。
「彩美、追っ手だ。逃げるぞ。」
「うん。」
確認するように頷き、手を繋いだ。その時、ドアの隙間から白い気体が入り込んで来る事に気付く。
「彩美、吸い込むな!」
新が叫ぶと同時に、彩美が先ほどまで眠っていたベッドに倒れ込む。
「彩美!」
新は彩美を抱き起そうとするが、力尽き倒れてしまう。
「運び出せ。」
白い気体が空気と同化するのを待って突入してきた者達の手で、二人は運び出された。
「新、彩美。」
行の声で二人は目を覚ました。頭が重く、ぼんやりしている。
「ここは?」
「天上球に向かう船の中だ。もう、飛び立っている。」
「そうか。」
彩美が落ち着かない様子でお腹に手を当てたり、立ち上がったりしている。そして、自分が寝かされた場所に視線を落とした後、小さくため息を零した。
「彩美、大丈夫か?」
「平気、みたい。」
「よかった。」
彩美と新が顔を合わせ、少しだけ微笑みを交わす。
「食事を持ってきたよ。」
ダイとキイチ、キイチも同様にクラスメイトだった男だ。が、堅そうな金属で出来た扉を開け、中に入ってくる。外から鍵を掛け直してもらい、二人は四人の前に座った。
「ごめん。」
二人が同時に頭を下げる。
「ダイとキイチが謝る必要はないだろう。罪を犯し、マザーから逃げていたのは俺達なんだ。二人はマザーの命令で来ただけだろう。」
「そうよ。二人は気にしないで。最初からマザーから逃げ切るのは難しいってわかってはいたのよ。それでも一緒にいたいと願った私達が間違っていたのかもしれない。」
彩美が泣きそうな顔のまま、苦笑を零した。
「でも、最後まで戦うつもりよ。子供には何の罪もないもの。」
「子供?」
一仁が呆然と彩美に視線を向ける。
「私、妊娠したの。」
「……そうか。」
一仁が唇を噛み締めながら、小さく頷いた。
「子供、か。」
ダイが痛々しいほど辛そうに眉を寄せ、言葉を零した。
「食事をして、ここで大人しくしていてくれ。また来る。」
ダイとキイチはそれ以上言葉を残さず、静かに部屋から出て行った。
「とりあえず、食事にするか。」
「そうだな。」
残された四人で顔を見合わせ、同時に溜息を零した後、食事に取り掛かった。
「どのくらいで天上球に着くんだろうな?」
「一週間くらいかかるんじゃないか?」
「一週間も?こんな何もない部屋で過ごすのか?退屈だな。」
「話をしてるくらいしか出来ないわね。せめて、トランプやボードゲームくらい差し入れしてても良さそうなものね。」
「今度来たら、リクエストしてみよう。」
「賛成。」
四人の間に穏やかな空気が流れる。
お互いに覚悟を決めた表情。これからマザーとの戦いが待っている。
それでも四人は笑っていた。