10
「ただいま。」
一日の授業を終え、一仁の家に辿り着いた。
「おかえりなさい、お姉ちゃん。」
玄関の横を通りかかった一紗が、微笑みながら、彩美を見上げる。
「ただいま。」
どうにか微笑みながら挨拶を声にした。
「早かったのね。」
「そう?かずちゃんは、まだ?」
「うん。まだだよ。」
「そっか。」
一紗と別れ、部屋に入った。窓を少しだけ開け、空気の入れ替えをする。着替えを済ませ、ベッドに腰掛けた。立っているのさえ辛いほど疲れていた。
「新…。」
唇に触れ、新のぬくもりを思い出していた。
「これで、よかったのよね。」
自分を納得させるように囁き、溜息を漏らした。瞳を閉じ、何気なく風の音に耳を澄ませる。
急に風が変わり、何かを伝えようと音を鳴らす。それと同時に、強力な力を感じ取り立ち上がった。
ぼんやり、燃え盛る炎と新の姿が瞼の奥に映る。
「新!」
部屋を飛び出し、瞼の奥に映った映像の場所、砂浜に向かい走り出した。さっきまで晴れ渡っていた青空が雲を呼び、泣き出した。雨の中を必死に走り続ける。砂浜に近付く毎に雨は強さを増していた。
それによりますます普通じゃない事を実感出来る。
「新!かずちゃん!」
砂浜に二人の姿を確認すると、大声で叫んだ。一仁が口を動かすのがわかるが、何を話しているのか、聞こえない。砂浜に下り、砂に足をとられながら、走る。二人の間にあった緊張した空気が解かれると同時に、雨が止み、雲が散る。
「じゃあな。」
新が、彩美の肩を叩き、歩き出す。
「新?」
新の背中を見つめてから、一仁を見上げた。
背中に雲の切れ間から光を降り注ぐ夕陽を浴びながら、彩美に微笑みかける。
「どうしたんだ?」
何もなかったような表情をしている。彩美はとっさに言葉が思い付かずに視線を泳がせると、黒い物が目に飛び込んでくる。足元に転がっていたのは炭と化した木片で、それを手に取り、一仁を睨み付けた。
「かずちゃん、新に何をしようとしたの?」
「別に何もしていないよ。」
「嘘よ。じゃあ、この燃えた木片は何?かずちゃんが、力を使ったんじゃないの?」
「どうして、わかった?」
「風が教えてくれたの。」
「風が、ね。」
一仁が口元だけ笑みを作る。
「新に手出しをしないで。新には力がないのよ。かずちゃんや私とは違うの。」
「そんな怖い顔をするなよ。」
「茶化さないで。」
「わかったよ。」
諦めたように微笑む。
「帰ろう。」
一仁が歩き出す。
「待って。」
「何だよ。」
「新と行が手首に火傷をしたの。まさか、かずちゃんの仕業なの?」
「もし、そうだとしたら?」
「許さないわ。」
「具体的に、どうするつもりだ?」
「絶対にかずちゃんと結婚なんてしないわ。もう、話をするつもりもない。今すぐに、家を出るわ。そして、かずちゃんに会わない。一生、ね。」
一仁は呆れ果てたように溜息を漏らした。彩美は真剣な表情を崩さない。
「どうして、俺がそんな事をすると思うんだ?何か確証でもあるのか?」
「何も証拠はないわ。」
「じゃあ、俺の仕業じゃないよ。そんな事をしても何の得もない。」
「……。」
「七海達は、俺達の力を知らない。それでは脅しの意味がないだろう。」
「…そうね。疑って、ごめんなさい。」
彩美は、肩の力を抜き、溜息を漏らす。
「かずちゃん。もう、新に手出しをしないで。どんな事があっても、私が新を守るわ。かずちゃんと敵対するなんてしたくないの。だから、お願い。」
「あんな怖い顔で睨み付けられたんじゃ、仕方がないね。わかったよ。でも、どうして、そんなにヤツを守ろうとするんだ?」
「好きだから。傍にいられなくても、彼だけを愛している。この気持ちだけには、嘘を付けないのよ。」
「変わらないな。」
空気に消えてしまう位の声で呟く。
「えっ?」
「何でもないよ。もう、帰ろう。」
「うん。」
一仁の後を着いていく。肩幅が広く、大きな背中は、まるで知らない人みたいに遠く感じさせる。
沈黙だけが二人の間にあった。
「彩美。」
「はい。」
「もう少し、考えて行動したら、どうだ?」
「どういう意味?」
「俺は、彩美より力が強い。早い話が彩美を殺す事さえ簡単に出来る自信がある。その俺に逆らい、七海を守ろうとするのは、無謀な話だ。それだったら、俺の言う事を聞いた方が、七海を守る事になる。」
「私は殺されてもいい。でも、新だけはどんな事をしても守るわ。例え、かずちゃんを殺す結果になっても。」
「俺を殺す?彩美にそんな事が出来るのか?そんな覚悟が出来るのか?」
「そんな状況になったら、やるわ。出来る、出来ないじゃないの。遣って退けるわ。」
「普段の彩美からは、想像も出来ない言葉だな。わかったよ。彩美に殺されたくないから、もう何もしないよ。」
胸の前に両手を上げ、苦笑いを浮かべる。
「わかってくれれば、いいのよ。女はいざとなったら、強いのよ。覚悟しておいてね。」
「わかりました。」
二人で顔を合わせて、少しだけ笑う。
「彩美は、普段はお嬢様のように見えるけれど、化けの皮を剥がすと鬼のような顔になるんだな。」
「失礼な言い草ね。」
「本当の事だろう。」
「じゃあ、せいぜい、化けの皮が剥がれないように、行動する事ね。」
「わかりました。」
二人の間に穏やかな空気が戻る。二人の背中が夕陽に消えるように遠ざかっていった。
けれど、彩美の中には大きな塊のような何かが胸に痞えたまま…。