しおひがりなつみかん
①
筆で刷いたような薄い雲が浮かぶ冬空に、警報のようなサイレンが鳴り響いた。
気にした様子もなくナツミは洗いたての白いタオルを広げ、力強くはたいた。パンッ!という乾いた音と共に細かな水しぶきが顔にかかったが、冷たさよりも、澄んだ空気の清々しさを感じた。
確か寒い時は音が大きく響くって誰かが言ってたっけ……。
全く同じ色合いをした平屋建ての仮設住宅が建ち並ぶ空き地の一角で、ナツミは鼻歌まじりに手際良く洗濯物を干していく。あちこちで洗濯機の回る音や、ラジオやテレビから流れる声、それらを動かす電気を供給する発電用モーターの駆動音が聞こえてきた。
「時報代わりだって、何もあんなけたたましい音流さなくてもいいのに。いくらなんでも時計くらい皆持ってるわよ」
非難区域の各所に設置された灰色のスピーカーを、傍らのエミコは不満げににらみつけた。
ナツミは作業を続けながら、
「でも結構便利な時もあるよ。外にいる時とか、うっかり昼寝しちゃった時とか。慣れれば気にならないよ」
と言っても、
「そんなもの携帯電話のアラーム使えば済む話でしょう。役所のやる事ってホーント、どん臭いわ」
冬だというのに以前にまして体格の良くなったエミコは、額に浮かんだ玉のような汗を拭きながら不満を続ける。自分は震災で壊れた一戸建てを建て直した両親の元に二ヶ月前に引っ越し、仮設住宅地区とは無関係だというのに……。
「旦那さんに頼んだら何とかならないの? 役職なんでしょ?」
「うーん」
白いワイシャツに洗濯バサミを付けながら眉間に皺を寄せつつナツミは小首を傾げる。
「そういう仕事の担当じゃないと思うし……」
「日曜にも出勤しなくちゃいけないほど忙しい部署の管理職なら力あるんじゃないの?」
「どうかなー」
歯切れの悪いナツミの反応に、エミコは大袈裟なため息をついてみせ、ナツミの顔の前に人差し指を突きつける。
「アンタねー、会社クビになってまで結婚した旦那なんだから、フル活用しなきゃ!」
「だからクビじゃないって、何回も言ってるのに……」
古い付き合いながらもエミコの勘違いと極端な意見に、さすがのナツミも辟易し、顔をそらして小さくごちた。
一年前。クリスマスイブの夜。
二年前の半島戦争勃発時より緊張が高まっていた半島に隣接する共和国南東部の大都市で、共和国人民軍のクーデターが発生。同時に、数発の長距離弾道ミサイルが海を隔てた「仮想敵国」の首都に向けて発射された。
最初に海上で警戒中だった合衆国海軍艦艇のレーダーがそれを捕らえ、ついで知らせを受けた国防軍のイージス艦が迎撃行動に移り、空軍の迎撃機が緊急発進した。
ほとんどの国民にとって寝耳に水な非常事態の発生は、ラジオやテレビで緊急放送が流れるよりも早く、以前から駐留する合衆国軍との間で共同開発し共有化していた最新鋭の防空システムによって、何度と無く多彩にシュミレーションされた通りに撃ち落され、たった一発だけが首都圏を西へ離れた沿岸部へ落下しただけで済んだ。
問題はその直後、首都圏の端から西の沿岸地域を、マグニチュード七、震度六強の地震が襲ったのだ。ミサイルの落下が要因となったのか、はたまた驚くほどの不幸な偶然だったのか、一年経った現在も依然として発生の原因は突き止められていないが、とにもかくにもその天災はミサイルとは比べ物にならない甚大な被害をもたらした。
津波によっていくつもの漁港が、地割れと揺れによって首都圏から中部地方へ向かう高速道路が寸断され、沿岸都市の多くの建物が倒壊して死傷者が出た。
ナツミの住む街も、深刻な被害を受けた。
震災で、ナツミの勤めていた街中の酒屋は、三階建ての店舗と事務所を兼ねた母屋は充分な耐震建築によって施工された建物だったので無事だったが、古かった倉庫は全壊し、配達用のトラックも四台中三台が廃車になった。
幸い火事は起きず社長夫妻と息子である専務家族に人死には出なかったが、古参の番頭さんは自宅の下敷きになり亡くなってしまい、一人暮らしの若い従業員はアパートが潰れ、アルバイト配達員の男の子は行方不明となった。先輩事務員のセーコさんは一人息子と共に街から離れた実家にいた為無事だったが、同じ郊外のナツミの家は木造で古かった事もあり半壊してしまった。
人だけでなく会社としての被害も大きかった。失った倉庫、商品、車などは保険で補償は効いたが、取引先である飲食店が軒並み潰れ、仕事をしたくても買ってくれる相手がおらず、商売にならなくなった。
元々斜陽な業界でもあったし、まして震災前には近い将来の廃業の話もあった会社である。何にせよ、続けるには色々と整理する必要があった。
アパートが潰れ住む所を失った若い社員はそれを察したのか、自分から退職を願い出て郷里へ帰っていったが、問題はナツミだった。
ナツミは十年近く勤めてきたし、社長は孫のようにナツミを可愛がってくれた。従業員は勿論、問屋の営業マンや馴染みのお客さんたちにも人気があり、仕事に関してはドライな専務も、さすがに面と向かって辞めて欲しいとは口に出せなかった。
だからといって女手一つで一人息子タイチくんを育てるセーコさんを解雇するのはもっと難しい。ナツミが自発的に身を引くのが最善ではあったが、ナツミとて収入の当てを無くすわけにはいかなかった。
震災後の後処理に追われる体力的疲労と、余所余所しい空気が漂いだした職場に勤める精神的な疲労が全員のピークに達しようとした時、解決策は思いもしなかった方角からやってきた。
ナツミは、プロポーズされたのだ。
「不自由は絶対させません。一生、アナタを守ります」
半年ほど前、銀縁メガネの奥にある角ばった顔つきに似合わない小さくつぶらな瞳で、真っ直ぐにナツミを見据え、モチダさん~~今の夫はプロポーズしてきた。
中背だが痩せているせいでひょろ長い印象がある三十代半ば。ナツミの十歳年上で、駅の南側に建っていた古いマンションの一室に一人で住み、週に一、二度のペースでナツミの勤める酒屋に珍しい洋酒やワインを買いに来ていた常連客の一人であった。ナツミも何度と無く接客した事があり、上品な身なりや落ち着いた物腰から堅い仕事に就いている人間という印象が初めにあった。
やがて少しづつ会話を交わすうちに親しくなって役人である事が分かり、仕事終わりに食事に誘われるようになり、休日に遊びに出かけるようにもなった。
しかし、恋愛対象として、まして結婚対象として見た事は一度も無い人だった。穏やかで博識で包容力があり、兄弟といえば弱弱しい姉しかいなかったナツミにとって頼れる優しい兄のようなもので、向こうにとっても自分は妹みたいなものだろうと、歳の差もあって一方的に思っていた。役所に勤めているのは聞いていたが、どんな仕事をしているのかは詳しく知らなかったし、それほど入り込んだ会話は無かった。つまりその程度の関係だったのである。
だからこそプロポーズは唐突に感じ、ナツミには戸惑いしかなかった。いつまで経っても子供っぽいと言われる見た目と重なる「君はどこか浮世離れしているね」と笑いながら社長に指摘された性格のせいか、モチダのそれらしい話を聞き漏らしていた可能性は大きかったが、それを差し引いても突然すぎた。
しかし、周囲の反応は違った。
あの歳で副課長ならエリートって事だろう、役人は不況に強いからねー、世の中が安定するまではまだまだ時間がかかりそうだしな、良いご縁だと思うよ~~。
モチダからプロポーズを受けた話を社長に告げると、社長夫妻は勿論、結婚なんてするものじゃないと公言していたバツイチのセーコさんだけでなく、普段プライベートにはほとんど口を出さなかった専務までもがナツミに結婚を勧めた。
それが遠まわしな退社勧告である事は、のんびり屋のナツミにも十二分に理解できたが、なんとなく自分が花街の女郎にでもなった気がし、子牛を荷馬車に載せて市場へ運んでいく様子を描いた曲が頭の中で流れ、その時は言いようのない寂しさを感じた。物静かな専務の奥さんに「ごめんね、ナツミちゃん」と言われた時には、本気で泣きそうになったものだ。
唯一の肉親である父親もまた、もう大人なんだからナツミ自身が良ければ構わないよと、あっさりしたものだった。もっとも、母を亡くしてからの父は、残った家族に対して少しづつ関心を失っていった気がするが。
ともかく、勧める者はいても否定する者は周囲に一人としていなかった。確かに、悪い話ではなかった。モチダに対して胸を焦がすような思いは無かったが、嫌悪する気持ちも生理的な拒否感も無かった。
それでも事が事だ。その時のナツミは人生で最も悩んだと言って過言ではなかったが、「嫌なら別れればいいじゃん?」という親友の一言が答えに繋がった。
「向こうがアンタにお願いしてきたわけで、アンタはまだ向こうにお願いするカードを残しているわけだし」
その親友はまるでゲームのアドバイスのように軽く言い放ったが、その軽快さがかえってナツミの悩みと不安を吹っ切った。
結果として、ナツミの選択は今のところ世間一般的に正解だった。
家庭で仕事の話はほとんどしない。ただモチダはそれなりに有能な役人らしく、復興を急ぐ街の事情もあって毎日多忙を極めているようだが、知り合った頃からの鷹揚で優しい態度は一緒に暮らし始めてからも何一つ変わらなかった。逆に仮設住宅暮らしでナツミにストレスが溜まっていないか心配してくれるほどである。当然ケンカなど一度も起きていない。老け顔で色白な線の細いモチダだが、体はいたって健康で精神的にもたくましかったし、適度に明るく茶目っ気があって二人の生活は平凡ながら順風であった。
火花の散るような熱さではなく、炭火のような温かさを感じさせる人だとナツミは思った。そんな人柄を反映するかのように交友関係も広くて多彩だった。人脈の豊かさも能力の一つである。モチダは社会人としてまぎれも無く優秀で、絵に描いたような理想的家庭人でもあった。
二年前の戦争から自分の周りにはドラマチックな出来事が多かっただけに、それに慣れてしまったナツミには、今の平々凡々な生活が逆に非現実的なように感じ、わずかな戸惑いが心の片隅にいつもあるのだった。
自分自身に直結する二年前と変わった事といえば、歳を取った事、髪が伸びた事、結婚した事くらいだ。しかしどれも劇的な変化とは言い難い。夏に二十六歳になったが歯が生え変わるとか背が伸びるとかあるわけもなく、髪は切るタイミングを失って伸びたもののほとんど誰も気に留めない。自他共に気付く分かりやすい違いは、薬指に付けていた指輪が変わったくらいだろうか。右手から左手へ、安物から高級ブランド品へ。そんな程度だった。
幸せな結婚生活って、こういう事なのかな……?
モチダから贈られたプラチナ製の結婚指輪は、シンプルながら飽きのこない細かい意匠が刻まれており、装着しての日常作業にも全く支障を及ぼさない値段相応の逸品だった。
贈り物には選者のセンスが如実に表れると言うが、モチダのそれは完璧に近い。派手過ぎず地味過ぎず、装着者を浮かせるのではなく際立たせ、それでいて機能的でもある。首都圏の下町で古くから続く玩具問屋に生まれ育ったモチダには、自然と審美眼が備わったのかもしれない。実感がわかないと言いながらも、普段の生活の中で指輪を眺める時間が何度となくある事に、かつては婚約指輪を贈られニヤついていた姉の姿を気味悪がっていたナツミは若干の照れ臭さを感じていた。
あの指輪は、もっとゴツゴツして派手な感じだったっけ。
姉がしていた婚約指輪は、姉の恋人であったイージマが誕生日に贈ったもので、新聞記者時代に知り合ったデザイナーに特注させた物だったと聞いていたが、新進気鋭の若手デザイナーが作ったそれは、さながらロックバンドのボーカルに似合いそうな中々に奇抜なデザインでもあった。姉ほど浮世離れしていなかったナツミにはイージマのセンスは受け入れ難く、喜ぶ姉の姿は何だかとても奇異に見えた記憶がある。とはいえ、少しずれた姉ハルミにはお似合いだったのだろう。
二人があのまま順調に入籍していたら、どんな家庭を築いていたのか? 時折ナツミは考える事があった。
ナツミの記憶の中にあるイージマは、どことなく夫であるモチダと被る。大都会からやってきた余所者で、年頃や背格好、自信に溢れた振る舞いなどは特に似ている気がした。ただ、モチダと違ってイージマの自信には自らの行動を必要以上に誇示する部分があり、それが職業柄なのか生まれながらの性格なのかは、今となっては良く分からなかったが、とりあえずプレゼントのセンスが良くないのは間違いなく、そこは決定的に差があったと思う。
無論、イージマに対して悪意など欠片も無く、人としても決して嫌いなタイプではなかったが、モチダと比べるとやはり何か「劣っている」ような気がしていた。
「ちょっとナツミ、聞いてるの?」
その幸せな結婚を決断させた親友のやや険のある声が、ナツミを引き戻した。
「アンタっていつも話の途中でどっかに飛んじゃうのね。旦那もよく怒んないわねー」
「ごめんごめん」
苦笑しながらナツミはエミコに顔を向けた。心なしか最近のエミコは以前にまして攻撃的になった気がする。美容師の彼氏と別れた後、独身仲間が次々と結婚した辺りからそれが顕著になった。
根が社交家で行動派という事もあり、震災後だろうが恋愛と名のつくものには人一倍力を入れているエミコだが、その精力的活動とは裏腹に、あまり成果は上がっていないようだった。今日も今日とて最近知り合った男の愚痴を言いにナツミを訪ねてきたのだから。
「山に行きませんか?とか言い出すのよ。ハイキングってやつ? なんで山なのよ。登ったら降りなきゃいけないじゃない」
ナツミが洗濯物を干し終えて、割り当てられた住居に戻る間もエミコの話は止まらなかった。
「何が美しい景色とおいしい空気よ。アタシは空気よりおいしいお酒が飲みたいわよ。仙人じゃあるまいし」
「山が好きな人なんだねー」
適当に相槌を打ちながら、ふとナツミは山という言葉に気を留め、思い出したように北の方角を向いた。震災で駅中心部の建物が軒並み倒壊した為、ナツミが住む駅の南側の非難区域からも『クレーター』のある高台がよく見えた。
「そういえば山はうんざりって言ってたっけ……」
『クレーター』のある高台で、守人のように佇む隻腕の男の姿が、ナツミの頭を一瞬よぎった。
②
男は時間通りに高台の記念公園管理事務所に現れた。地味めの黒いロングコートに身を包んでいたが、頭にかぶった深緑色の徽章付きベレー帽と磨き上げられた編み上げの革ブーツのせいで、軍人である事は遠目にも分かった。背丈は中背のシオよりわずかに高い程度だったが、広くがっしりとした肩幅と厚みのある肉体が外套越しにも見て取れた。
「よお、まだ生きてたか」
男の大きな丸顔に備わった細い双眸は射るような鋭さをたたえていたが、その言葉には親しみが込められていた。
「しかしあれだな」
いつもの決まり文句で、シオを訪ねてきた軍装の男~~アキヤマは口を開いた。
「この辺はまだまだ復旧が遅れてるんだな」
肩口に担いでいた子供一人くらいなら簡単に入りそうな大きなバッグを無造作に床に置き、アキヤマは応接室の窓から見える外の景色に目をやった。
「ずいぶん殺伐としてる」
「いや、この辺りは前から全然変わってないんだ。向こう側の病院が地震の時に火事になっただけで」
ソファーに腰掛けたアキヤマの前に、シオはコーヒーを注いだ紙コップを置いた。
「昔から荒れているんだよ」
「じゃあ、あの崩れた教会みたいなのは?」
紙コップを口元に運びながら、アキヤマは首をひねって窓の向こうに見えるかつての大聖堂を顎で指した。
自分の分のコーヒーを金属製のカップに入れながら、
「あれも元からああいうデザインなんだよ」
と、シオは皮肉っぽい笑みを浮かべながら返し、それが過去の軍用機墜落事故による犠牲者への慰霊塔である事とその建立に至るまでの経緯を簡潔に説明すると、ふん、と鼻を鳴らし、コーヒーを啜りながらアキヤマは眉間にしわを寄せた。
「あれだな、慰霊碑ていうものをゲージツ家なんぞに造らせるのがそもそも間違いだな。連中は一瞬の中にしか生きてないからな。墓石に必要なのは不変性だ。頭の良いはずのお役人様には、そんな事も分からないのかね」
「さあな」
口元をほころばせながら、シオは適当な相槌をうった。昔と変わらないアキヤマの口の悪さが懐かしさを感じさせた。
国防軍東部方面隊第十二旅団第十三歩兵連隊の基地は、首都圏からわずかに外れた四方を山に囲まれた山間都市の郊外にあった。千人近い人間が働くその基地には本部管理中隊の他に三つの中隊が駐屯していて、かつてシオはそこの第一中隊第一小銃小隊に所属し、第二分隊員として二年余りの軍隊生活を送った。愛国精神に燃えて、ではなく、単純に生活に困って入隊したのだが、その時タコ部屋と呼ばれた営舎の四人部屋で寝食を共にした同じ分隊仲間の一人が、アキヤマだった。
軍事機密から噂話まであらゆる情報に精通していると恐れられた古参の分隊長エビス、赤字で所属団体が潰れた元プロレスラーのサカイ、ケツ持ちのギャングの女に手を出して逃げてきた元ホストの色男タカクラ、将来を誓い合った教え子に裏切られ自暴自棄になって世を捨てた元高校教師のフジ、拳銃より大きな武器を撃ちたくて転職した元警官のオキタ、犬を虐待する飼い主を怒りのあまり半殺しにして職を失った元トリマーのアキヤマ~~。
シオと共に教導師団から配属された同期以外は、よくもまあこれだけ揃えたと感心するほどの曲者ぞろいの分隊であり、二年の間にはその多彩な個性派集団故に数え切れないほどの衝突があった。だが、その衝突があったからこそなのか、あの連隊史のみならず国の歴史にも刻まれた「高地事件」を経験し死線を越えた仲間だからなのか、彼らは分隊が再編成され各人が転属したりシオのような除隊者が出た後も、互いに連絡を取り合い交遊を続けていた。
今日も伍長昇任試験の為に東部方面隊の教導師団で研修を受ける事になったアキヤマが、事前にシオに連絡を寄越して都合を聞き、予定より一日早く基地を出て寄り道してきたのである。
「おう、そうだ。頼まれてた物だけど、これでいいか?」
紙コップをテーブルに置き、アキヤマはバッグを開けて紙袋を取り出した。
「確認してくれや」
すまない、と断りを入れながらシオはテーブルに置かれた紙袋の口を開け、中を覗いた。
「オマエが選んだにしては良いセンスだな。助かったよ、ありがとう」
袋の中身を確認しながらシオは言った。
「PX(基地内売店)で売ってる物にセンスもクソもあるかよ。どれも一緒だろ。だいたい何でそんな物必要なんだよ?」
ベレー帽を脱ぎ、短く刈り込まれた頭を掻きながらアキヤマが尋ねたが、シオは微笑んだだけで答えず、紙袋の口閉じるとソファーの端に静かに置いた。
「まだ時間あるだろ? 少し歩かないか?」
街の中心部から少し離れた小高い丘の上の不自然に窪んだだだっ広い地面。そこを人々は『クレーター』と呼んだ。
かつて国防軍の大型輸送機墜落事故により高台に穿たれた『クレーター』は、事故後、辛うじて骨組みと僅かなコンクリートの外壁だけが残った教会の脇には事故で亡くなった犠牲者の慰霊碑が建てられたが、市から依頼を受けて慰霊碑とその周辺施設を設計した外国の高名な建築家の思惑は、死者への誠実なる鎮魂という謳い文句とは裏腹に完成すると派手な夜間のライトアップによって滑稽であまりに場違い過ぎる雰囲気を作り出し、そこはまるで悲劇の現場というよりも恋人たちのデートスポットに相応しかった。
当時の市長は市民やオンブズマンのみならず他都市の首長からも税金の無駄遣いだと不評を買い、急遽慰霊碑とは反対側に記念病院と記念公園を設立してバランスを保とうとしたが、最新設備を備えた病院にはそれに見合うだけの医師が集まらず、静寂と自然の豊かさをうたった公園は手入れが行き届かず廃墟のように静まり返る無用の長物と化し、ほどなく市長はその完成を市長として見る事無く選挙に敗れて交代した。今からもう十年近く昔の話である。
比較的穏やかな冬の日の午後。『クレーター』を周回する閑散とした遊歩道を歩きながら、シオとアキヤマはお互いの近況を話した。
いつの間にか兵長として良好な成績を作って選抜試験を通り伍長候補として本格的に軍人としての道を歩むアキヤマに対し、シオの方は不穏な空気が流れていた。勤務する記念公園管理事務所の閉鎖話が出ているせいだ。
もともと地方官僚の天下り先として設立された施設管理公社隷下の職場である。記念公園と大層な銘を打っているものの事務所の職員はシオを含めて四人だけ、運動公園のように体育館やグラウンドのようなスポーツ施設を設置しているわけでもなく、舞台やコンサートといった芸術活動を行える建物も無かった。有るのは今や市民のほとんど誰も足を運ばない悲劇の慰霊碑と、『クレーター』を囲む全長約三キロメートルの遊歩道だけだ。さらに現在は震災で負傷した所長が長期入院中で不在な上、シオ以外の職員は人手の足りない別の事業所へ出向しており、事務所を預かっているのはシオ一人だけであった。
それでも業務に差し障りは無かったし、だいたい業務自体が元から無いような職場なのである。ただでさえ速やかな都市の復旧を市だけでなく国を挙げて取り組んでいる時に、利益の出ぬどころか万年赤字の無駄な公園事務所など取り潰されても何ら不思議ではなかった。
実際一ヶ月に一度は公社から視察にやってくる幹部職員から、シオは異動の可能性を最近よく示唆されていた。
「クビになる事はないだろうけど、次はどこに流れていくのやら、という感じだよ」
自嘲気味に笑って紫煙を吐き出し、シオは『クレーター』が見渡せるベンチ横の灰皿に煙草を捨てた。
「食い扶持と寝床さえあれば贅沢は言わないけどさ」
震災で住んでいた安アパートが倒壊してしまった為、シオは管理事務所に寝泊りしていた。事務所には宿直用の狭い四畳半が備えられており、シャワー室と給湯室があったので生活するのに問題なかった。元々週末は交替で職員一人が宿直する事になっていたし、常駐していたところでそれを咎める者はいなかった。
「まあ、こんなご時世だ。なるようにしかならないだろうけど」
話が途切れ、沈黙が流れる。しばらくして、静寂をさえぎるようにアキヤマの腕時計のアラームが短く鳴った。
「時間、大丈夫か?」
それを合図に、シオも胸ポケットの携帯電話を取り出して時刻を確認した。
「ああ、そろそろ行くよ」
黙って煙草を吸い続けていたアキヤマは腕時計を見やり、大きく息を吐き出した。
「次に会う時は分隊指揮官殿だな」
鹿爪らしい表情を作って姿勢を正すと、おどけ気味にシオは左手で敬礼をした。
「アキヤマ分隊長殿!」
「よせよ、ガラでもねぇ」
アキヤマは苦笑しながら小さくかぶりを振ったが、満更でもない口ぶりだった。立場が人を作るとは言うが、アキヤマの場合は元から組織人としての素養があったのだろう。粗野を装いつつ、要領よく頭を働かせて抜け目無く動く事ができた。裏表が無く厭世的なシオとは性格の本質から違った。似ても似つかぬ、傍から見れば相容れぬはずの両者であったが、寝食と厳しい訓練を共にし戦地という特殊な環境において互いの命を文字通り預けあってきた経験が、すり合わせるように積み重ねてきた信頼が、一般論的な相性の良し悪しを超越した強固な関係を構築していた。
そしてそれは孤独で先行きも不安なシオにとって、無骨ながら心地よい安堵を与えてくれる唯一の寄る辺のようなものだった。
人気の無い遊歩道を、事務所へ引き返すべく二人は歩き出した。互いに無言だったが、計ったような同じ歩調が、二人の友情の証であるかのように見えた。
「体に気をつけて」
「お互いにな」
「わざわざすまなかった」
「何を言ってやがる」
別れ際、向かい合った二人の間に、再び短い沈黙が流れ、どちらからともなく互いの左手を差し出した。
「暖かくなったら、あいつの墓参りに行こうぜ」
「……そうだな」
一拍遅れて、シオは答えた。脳裏に、懐かしい、今はもう会うことの出来ない、ここの風景に良く似た異国の地に散った戦友の顔が浮かんだ。
公園の出入り口までアキヤマを見送った後、シオは「そういえば」と小さく呟いて顔だけ振り返り、視線を遊歩道とクレーターを隔てる柵の遠くへと飛ばした。その先、傾き始めた太陽の下に、まだらに煤けた記念病院だった建物が見えた。
「今日はあっちの墓参りは忘れてたな」
③
年の瀬も押し迫った十二月の最終週。かつて記念病院と呼ばれていた建物の前で、シオとナツミは久しぶりに顔を会わせた。数日前に行われた慰霊祭には二人とも参列していたが、シオは主催側の職員として忙しく、ナツミは途中で退席した為、お互い姿は見かけたがろくに挨拶も出来なかった。
「結婚おめでとう」
シオが開口一番に言った祝辞に、ナツミは少し面食らった。結婚した事はシオに伝えていなかったからだ。もっとも式すら挙げていないし、知らせた人の方が少なかったのだが。
「何で知ってるの? 誰かに聞いた?」
上目遣いにシオを見やるナツミの声に、怪しむような気配が混じった。
しかし、シオは聞こえていないかのような様子で身を返し、
「ちょっと時間ある? 渡したい物があって」
と遊歩道をゆっくり歩き出す。ナツミは口を尖らせ一つため息をつくと、その背中を追った。
傍から見れば怪しい事この上ない言葉と行動に見えたが、シオがナツミの問いかけに対しマトモに答えないのは昔からだ。そうかと思えば突然話をし出す事もある。その変わらないマイペースぶりに、ナツミの警戒心は逆に薄れた。同時に、シオに対して警戒心を持った自分自身に、微かな嫌悪感を感じた。もう十年近い付き合いになるのに。
「取ってくるから、ちょっと待ってて」
病院跡と管理事務所のちょうど中間に位置する東屋に差し掛かると、シオは東屋のベンチを指差しナツミが口を開く前に歩き去った。
「もう……」
小さくごちるとナツミは東屋に入りベンチに腰を下ろした。微かにキンモクセイの香りが鼻をつく。眼前に『クレーター』が広がり、真正面に厚い曇り空の下に建つ不恰好な記念塔が見えた。一瞬吹き抜けた寒風に、ナツミは小さく身を震わせたが、それは寒気のせいばかりではなかった。
「ヤな天気」
赤い毛糸のマフラーに顎を埋め、ナツミは視線を伏せた。
一年前の震災で、ナツミは姉のハルミを亡くした。地震によって記念病院地下から火災が発生し、ハルミはその犠牲になったのだ。姉だけでなく、入院中の患者の多くが亡くなったと聞いている。大きな病院ゆえに火災対策も万全であったはずなのだが、上手く作動しなかったと聞く。それに、患者数に対する慢性的な病院職員の圧倒的不足と、高台という郊外の立地が被害を広げてしまった。二年前、ジャーナリストとして戦地へ取材に出かけたまま行方知らずとなった婚約者イージマの後を追うかのように起こした自殺未遂の事故によって下半身の自由が利かなかった姉は、逃げ遅れて命を落としたのだった。
震災、そして肉親の死、たて続いた悲報にナツミの心は一時千千に乱れた。ナツミだけではなく多くの者が同じであったが、不幸である者が百人だろうと千人だろうと、一人一人の持つ悲しみの深さが軽くなるわけではない。悲しみは他者と同調する事で薄らぐ事はあっても、それは本質を誤魔化しているに過ぎないからだ。ただ、ナツミの心の中には悲しみと同時に姉から解放されたという気持ちが無かったわけでもない。
ナツミとハルミ、決して仲の悪い姉妹ではなかったが、性格はだいぶ違っていた。生まれつき体の弱かったハルミは初子である事もあって過保護に育てられ、おっとりとして依存心の強い気質だった。特に父親からの愛情を深く受けすぎたからなのか、異性への甘えた態度は幼少時から少なくないトラブルを呼んだこともあったが、それすらもいつの間にかうやむやの内に流してしまう、どこか超然とした雰囲気を持っていた。ハルミをしつけ間違えたと感じた母親によって比較的厳しく育てられたナツミには、そんな姉は軽い憧れであると同時に若干うっとおしい存在でもあった。そしてそれは年齢と共に姉妹の間にあらゆる面での差異が生じてくると、少しづつ、確実に、古い葡萄酒の底に溜まる澱のような感じで、ナツミの心の中に感情の濁りとして沈殿していった。
だからなのか、かつて姉が気に入っていたこの公園が、記念病院からほど近い『クレーター』を見渡せるこの東屋が、ナツミはあまり好きではなかった。いや、好きではなくなっていた。自分の体に付けられた醜い傷跡を、鏡で凝視させられるかのように感じる場所だったから。
患者と職員の多くを失い、記念病院は建て壊しが決定され、慰霊碑が建立された。「この場所は、もはや公園ではなく霊園のようだ」と慰霊祭に参列していた誰かが呟いた言葉が、ナツミには忘れられなかった。
だとしたら、シオは管理人というより墓守ね。ナツミよりも一才若いのに、シオはナツミの夫モチダよりもずっと老けた印象があった。白髪まじりの頭と、顔の右側に戦争によって刻まれた細かい傷跡が老人の皺のように見えた。人間が死に絶えた地球で墓穴を掘り続けるアンドロイドの映画を、ナツミはふと思い出した。
渡したい物って、まさか姉の遺品を見つけたんじゃ……。
補強は入っているとはいえ立ち入り禁止になっている危険な建物内をシオが探索したとは思えないが、瞬間ナツミの脳裏に姉の死に顔が浮かんだ。煙に巻かれたことによる中毒死だったため目立った外傷は無く、煤や汚れを綺麗に拭われ死に化粧を施されたハルミの白い顔は眠っているかのようだった。
目を瞑ったまま強くかぶりを振り、ナツミは映像を追い払った。そこにシオが戻ってきた。
「研修でこっちの方に寄った昔の仲間に買ってきてもらったんだけど。PXで売っている物だから、地味だけど丈夫だよ、たぶん」
飾り気の無い紙のバッグをシオはナツミに差し出し、ナツミの左側に少しを距離を置いて座った。
「包装とかそういうのは出来なくて、申し訳ないけど」
その言葉に一瞬バッグを受け取ったナツミはためらいながらも無言でシオの横顔をうかがったが、そこにはとぼけたような疲れたようないつもの雰囲気以外の表情は見つからなかった。
自分の思い過ごしかな。意を決するように軽く息を吐き出し、しかしナツミは恐る恐る紙袋の口を開けた。
そこには、緑色の小さな角ばったショルダー紐付きのポーチが入っていた。
「小物入れ?」
ポーチを取り出し、さらにごついボタンを外してそれを開けてみる。かなり堅い芯が入っていて、材質は厚くざらついた肌触りをしており、中は空っぽだった。
「撥水ナイロンだから、雨に濡れても平気だよ」
言われてよく見ると、確かに上部のサイドに外からの侵入を防ぐ小さなカバーが付いていた。
「野戦用に使う物だから、そんな色しか無いんだけどさ」
どこか言い訳めいたようにシオは呟き、煙草を一本咥えて火を点けた。
「あ、ありがとう」
ナツミは少し拍子抜けした気持ちだった。同時に、先ほどからシオに対して変な緊張感を抱いていた自分が恥ずかしくなり、笑いながら後ろ手で頭を掻いた。
「今日も寒いね」
「雪が降らない地方で良かったよ」
「仲間って兵隊さん?」
「軍隊ってのは決して倒産しない会社だね」
「シオはお正月のお休みはどうするの?」
「年越しって何で世界中で祝うのかな?」
とりとめの無い、噛み合わない会話。でもそこには懐かしさが漂っていた。周りが、景色も他者も何より自分自身すらも変わっていく中で、シオだけは10年前から一緒だった。その不変さが、ナツミにとってはある種の安心の指標のように感じていた。もしかしたら、優越感だったのかもしれないが。
「もう、シオはここの主だね」
冗談めかしてナツミは言った。『クレーター』といい電気の点かない外灯といい壊れた病院といい荒れた歩道といい、この場所は昔観た戦争映画に出てきた街のように思え、それゆえに元兵士であったシオの姿が映えるのかもしれないとナツミは思った。多くの人にとって憂鬱な場所でも、シオにとっては軍隊時代の懐かしさを感じさせる快適な居場所なのかも。それはそれで幸せなんだろう。ナツミには理解できないし、したいとも思わなかったが。
「所長さんになったらもう少し花壇増やしてね」
「それは来年度以降に役所に言って。たぶん都市整備課あたりがやってくれると思うよ」
どこか他人事のような口ぶりのシオに、恐らく初めて問いかけにマトモに答えた事に、ナツミは思わず「えっ?」と声が出た。
「ここは……、今年度いっぱいで管理事務所は閉鎖になるんだ。前から話は出ていたけれど、先日の慰霊祭の時に公社のお偉いさんから正式に伝えられた。まだ辞令は受けてないけど、出向している他の職員はそこで正式採用になって、オレもどっか他の職場に行くみたいだ」
「そう、なんだ……」
この人はここで朽ちていくのだ。ゆっくりと。寂れていく公園と共に、いつか一体化して。
そんな事を考えていた矢先のシオの話に、ナツミはわずかに動揺した。そこには自分のココロを見透かされていたような気まずさと、シオがいなくなってしまう不安のようなものが交じり合っていた。
それきり、話は途切れた。シオは煙草を吹かし、ナツミはクレーターに延びる東屋の薄い影を見つめていた。厚い雲越しに、二人の背後に太陽がゆっくりとした速度で沈み始めた。
「そろそろ日が暮れるよ。この辺り、まだ明かりが点かないから」
ベンチから腰を浮かし、シオは天井の蜘蛛の巣がかかった蛍光灯を見上げた。
「……そうだね。帰ってご飯の支度しなくちゃ」
いつの間にか握り締めていたプレゼントの紙袋をトートバッグの中にしまいながら、ナツミも立ち上がった。
「お祝い、ありがとう」
ナツミの謝意に、シオは口の片端を僅かに上げる。一見すれば皮肉っぽい微笑み。でも二人にとってはいつもの挨拶だった。
二段だけの東屋の低い階段を、ナツミは「えいっ」と声を出しながら飛び降りた。枯葉の潰れる音とトートバッグの中の物が擦れる金属音と共に、背後でシオが小さく笑う声が聞こえた気がした。
「さよなら」
「気をつけて」
ナツミは南西に、シオは南東に、ほとんど同時に歩き出す。
「ねえ」
急ぎ足で二、三歩進んだナツミが不意に歩を止めた。ゆっくりとした動作でシオの足が止まる。背を向けたまま、ナツミは呟いた。
「私ね、シオのこと好きだったんだ」
厚く重そうな雲がぼやけた太陽にかかり、また少し、冷たい風が東屋を吹きぬけ足元の枯葉を追いたてた。
「そう……」
舞っていく枯葉の重なり合う寂しげな音と重なるように、シオの声がナツミの背中に届く。散りかけたボタンの花弁が微かに揺れていた。
「オレも、たぶん同じだったと思う」
始まりがあって、終わりがある。始めるために終わらせる必要があり、終わらせるために始める必要もある。その必要さを、いつしか二人は理解できるようになっていた。ときに残酷であるからこそ、出来うる限りの誠意を持って答えようとする矛盾にも似た優しさを、シオとナツミは持てる人間になっていた。
「元気で……。お幸せに」
静かだが、はっきりとした口調でシオは言った。クレーターを一瞥し、ゆったりと、それでいて確固たる足取りで去っていく。ナツミはその足音を確かめるように耳を澄ませていた。
「元気で」という言葉が、二人の間にだけあった親しさへの決別のようにナツミは感じた。いまこの瞬間、完全に他人となったのだ。この先死ぬまでずっとこの街に暮らし続けたとしても、もう二度とここにやってくる事は無いだろう。そして、シオに会う事も無いだろう。そんな気がした。
ふっと息を吐き出しナツミはコートの前をかき合わせ歩き出したが、突風と共に舞ってきた砂埃を浴び、目を瞑って顔を伏せて立ち止まった。風がおさまりわずかに薄目を開くと、視線の先に、クレーターは消え、飽きるほど眺めてきた赤茶けた凸凹の大地ではなく、優しい風に揺れる緑の芝生が広がっていた。彼方に見える教会の大聖堂の白い壁が陽光を反射して輝き、鳴り響く鐘の音が届いてきた。白銀色のウエディングドレスに身を包んだ姉と純白のスーツを着たイージマさんが、ライスシャワーを浴びながら互いの手を携えて人の輪の中を歩いている。はやし立てる群衆の中に、父と母、従姉妹のアキコちゃん、セイコさんとタイチくん、キミちゃんとエミちゃん、多くの見知った人たちと、多くの見知らぬ人たちがいた。
視線が合い、ハルミが右手にブーケを抱えたままナツミの方に左腕を大きく振った。ティアラの下の小さな顔が、大きく口を開けてナツミの名を呼んでいる。遠く離れているはずなのに、その風景は鮮明に見えた。
鷹揚に小さく頷いてナツミが姉に微笑むと、ハルミはブーケをふわりと投げた。
白いブーケはふわふわと揺れながら天に上っていき、やがて白い雲の中に消えていった。
「はじまりのおわり、おわりのはじまり」
了