第1章:1. 砕け散る初夏の午後
五月の台北の空気は、息が詰まるほど蒸し暑かった。
とりわけ、このような午後のゲリラ豪雨の前はなおさらだ。
大安区の静かな路地に佇む「トワイライト・カフェ」は、控えめなレトロヨーロピアン調の内装だった。
重厚なウォールナットの扉が、街の喧騒と、焦燥感を覚えるほどの高熱を遮断している。
闕恆遠は入り口に立ち、指先で冷たい真鍮のドアノブに触れた。
扉を押し開けると、ドアの上で真鍮の風鈴が軽やかな音を響かせた。
彼は今日、軽やかな質感のライトグレーのリネンシャツに、体にフィットするダークカラーのスラックスという装いだ。
手首の時計の文字盤が、薄暗い照明の下で冷たい光を放っている。
闕家のひとり息子として、彼に宿る生まれながらの御曹司らしい気品は、ブランド品の誇示ではなく、恵まれた環境の中で培われた余裕と泰然とした態度から自然に醸し出されるものだった。
今日は、このカフェで玥映嵐と約束した交際三周年の記念日だ。
この瞬間のために、彼は実家が用意したいくつかのビジネスのレセプションさえ断っていた。
彼のもう片方の手には、控えめなダークブルーの紙袋が下げられている。
中に入っているのは、半年前にヨーロッパのオークションで玥映嵐のために競り落としたアンティークのダイヤモンドブレスレットだった。
それはヴィクトリア朝のデザインで、繊細なレースの金細工に純粋なメレダイヤが埋め込まれている。
玥映嵐がこうした歴史の重みを感じさせるジュエリーをずっと好んでいることを、彼は知っていた。
扉を押し開けると、風鈴の響きが少し突飛なほどクリアに響いた。
まるで静まり返った湖面に投げ込まれた小石のようだった。
店内の冷房は強く効いており、肩の上の熱気を一瞬で吹き飛ばしたが、なぜか彼のうなじに肌寒いほどの冷感走らせた。
カフェの中ではジャズが低く流れており、そのメロディは気だるく、そしてどこか重苦しかった。
彼の視線はいつものように、窓際の隠れた席へと向けられた。
そこは二人の特等席だった。
路地裏の生い茂るアカギの木が見え、夕暮れ時には差し込む余光が互いのコーヒーカップの縁を照らし出す場所だった。
だが、二人がいつも座っているその隠れ家のような一角に視線を落とした瞬間、彼の足ピタリと止まった。
いま、その席に座っている玥映嵐の表情は、彼がこれまで一度も見たことのないものだった。
深緑色のベルベットのテーブルクロスがかけられた丸テーブルのそばに、玥映嵐は一人ではなかった。
彼女の向かい側には、顔色が悪く、すさんだ表情をした男が座っていた。
それは最近、学校で妙に「有名」な舒子安だった。
その男はゆったりとした白いシャツを着ており、首元がわずかに開いて、病的なほど白い首筋の皮膚がのぞいていた。
舒子安はその時、うなだれるように頭を少し下げ、少しボサボサとした前髪が顔の大部分を覆っていた。
肩がわずかに震えており、まるで何か耐えがたい大きな苦しみや不条理を味わっているかのようだった。
闕恆遠は彼をよく知っていた。
大学三年次に転入してきた特待生だった。
彼はいつも色あせた、少し大きめの白いシャツを着ており、どこか世界に見捨てられたような壊れやすい雰囲気をまとっていた。
こうした雰囲気は、幼い頃から何不自由ない環境で育ったお嬢さまである玥映嵐にとって、抗いがたい魔力を持っていた。
それは「強く必要とされている」という、一種の虚栄心と庇護欲を刺激する魔力だった。
「子安」
「そんな風にしないで……」
「言ったでしょう?」
「あなたのそばにいるって言ったでしょ」
「体調が悪いんだから」
「変なことばかり考えないの」
「私が何とかするから」
玥映嵐の声には、闕恆遠がこれまで一度も聞いたことのない焦りと憐れみが混じっていた。
その口ぶりは、まるで壊れやすい磁器を慈しむかのようだった。
声は小さかったが、震えるほどの優しさを帯びていた。
「でも」
「本当に君を愛しているんだ……」
「嵐……」
「君があの高慢な御曹司のもとへ帰っていくなんて、耐えられないよ」
「自分がすごくちっぽけで」
「惨めに見えるんだ……」
舒子安はうなだれたまま、スラリとした指先で木製のテーブルの端をぎゅっと掴んだ。
力を入れすぎたせいで、爪のあたりがわずかに白くなっている。
「君みたいな人は」
「お城の中で」
「あの御曹司に甘やかされて暮らすべきなんだ……」
「お医者さんにかかるお金すく計算しなきゃいけないような僕を見て」
「ここでじわじわとすり減っていくべきじゃない」
そう言い終えると、舒子安の肩が激しく震えた。
まるで大きな悲しみに打ち砕かれたかのようだった。
彼は顔を上げた。
その細い瞳にはなんと涙が浮かんでいた。そのか弱い姿は、幼い頃から大切に育てられ、豊かな同情心を持つ玥映嵐のようなお嬢さまにとって、この上なく強烈な毒薬だった。
「そんなことない!」
「子安」
「あなたはそんな人じゃない……」
玥映嵐の表情が完全に凍りついた。
その直後に起きた光景が、闕恆遠がこれまでの三年間で築き上げてきた世界観を完全に粉々に砕き散らした。
彼女はなんと立ち上がり、テーブルを半分またぐようにして手を伸ばすと、舒子安の横顔をやさしくなでた。
その瞬間、闕恆遠はカウンターの脇の陰に立ち、手提げ袋がかすかにカサリと音を立てた。
彼は見つめていた。
三年間大切に愛し続けてきた女の子を。
かつて共に最後まで歩むと誓い合った幼馴染を。
彼女は今、その男の病的な懇願に心を奪われたかのように、ゆっくりと頭を垂れていた。
そして、その男の唇に、軽やかでありながらもこの上なくはっきりとわかるキスを落とした。
その瞬間、カフェの中のジャズはまるで静止し、代わりに高周波の耳鳴りに取って代わられたようだった。
闕恆遠は少し離れた陰の中に立ち、その表情は異常なほど穏やかだった。
その平穏は、気にしていないからではない。
人間の魂があまりにも強烈な衝撃を受けたとき、脳が自動的に作動させる一種の自己防衛機制だった。
彼は自分が激高し、理性を失った暴徒のように、あの病的な男を席から引きずり起こすものだと思っていた。
だが、彼はそうしなかった。
詰問もせず、大声で叫ぶこともせず、映画のように怒りにまかせてカップを投げつけることすらなかった。
彼はただ、極度の冷たさを感じていた。
その冷たさは骨の髄から滲み出し、これまでの美しい思い出のすべてを、一寸一寸凍りつかせ、そして打ち砕いていった。
彼は、キスをした後に玥映嵐の目尻から涙が一筋滑り落ちるのを見つめていた。
それは裏切りの罪悪感と、救済者としてのナルシシズムが入り混じった涙であり、彼に激しい嫌悪感を抱かせるものだった。
御曹司としての教養と気高さが、たとえこのような状況であっても、いかなる失礼な振る舞いをも許さなかった。
彼は落ち着いた様子でポケットからスマートフォンを取り出した。
その動作はゆっくりでありながら優雅で、まるでどうでもいい街の景色を写真に収めるかのように、レンズを寄り添う二人の影に向けた。
カシャッ。
そのシャッター音は静まり返った店内でやけに耳障りに響いたが、玥映嵐の二人はどこか自分たちの世界に浸っているのか、気づく様子はなかった。
闕恆遠の指が冷たい画面の上を滑る。
彼はかつてピン留めされ、アイコンが二人のツーショットになっていたFacebookの画面を開いた。
そして、何の未練もなく、たった今撮影した、皮肉に満ちた写真を選び出した。
写真の中の光と影は相変わらず美しかったが、それは最も残酷な墓標と化していた。
彼は投稿欄に、静かに短い四文字を打ち込んだ。
「シングル満喫中。」
その七文字は、まるで手術用のメスのように、過去二十数年の人生とのすべてのつながりを正確に切り断った。
アップロードのバーが完了すると、彼は胸の奥で渦巻いていた熱が瞬時に冷え、それに取って代わるように、ほぼ真空のような虚無感が広がるのを感じた。
彼は、その後にポップアップで表示された「いいね!」やコメントを見ようとはしなかった。
彼にとって、そんなものはもはや何の意味も失っていたからだ。
彼はスマートフォンをポケットにしまい、身を翻してカフェの重厚なウォールナットの扉を押し開けた。
扉の上の風鈴がふたたび軽やかな音を響かせ、まるで三年の長きにわたった愛情の終わりを告げる弔鐘のように響いた。
カフェから外へ出ると、空はすっかり暮れ、午後中ずっとたまっていた蒸し暑さがついに狂暴なゲリラ豪雨へと変わっていた。
大粒の雨が激しく叩きつけられ、熱を持ったアスファルトと触れ合うたびに耳障りな音を立てる。
闕恆遠は傘も差さず、冷たい雨水が高級なリネンシャツにしみ込むのをそのままにしていた。
胸元に張り付く湿った冷たさが、かえって彼をこの上なく醒めさせてくれた。
彼は道端でタクシーを拾った。
雨水が髪の毛の先から長い睫毛へと伝い落ちていく。
通りすがりの人々は慌ただしく雨を避け、誰もこの雨の中に佇む御曹司が、たった今自らの手で初恋を葬り去ったことなど気づいていなかった。
闕家の邸宅に戻ると、屋敷の中は深海のように静まり返っていた。
彼は執事の問いかけをかわし、そのまま二階の自室へとまっすぐ足を向けた。
部屋にはまだ、玥映嵐が愛用していた香水の匂いが残っていた。
かつては心を落ち着かせてくれた淡いスズランの香りだったが、今はまるで毒の瘴気のようで、息をするたびに吐き気を催させた。
彼はベッドの縁に腰掛け、「甘い言葉」の数々が刻まれたスマートフォンをベッドの上へ放り投げた。
スマートフォンの画面が暗闇の中で突如として激しく明滅し、静かな部屋の中でバイブレーションの音がやけに耳障りに響いた。
画面には「悅清禾」の三文字が点滅していた。
それは玥映嵐の影のように行動を共にする親友であり、混乱の中でも常に理性を保ちつつ、身内びいきの激しい女性だった。
闕恆遠はその名前をしばらくじっと見つめてから、ようやく電話に出たが、自分から口を開くことはしなかった。
「闕恆遠!」
「一体何の冗談のつもり?」
悅清禾の声が電波を通じて伝わってきた。
かすかな震えと怒りが混じり合っており、向こう側では雨の騒音が背景に混じっているようだった。
「さっきのFacebookの投稿はどういうこと?」
「どういうことよ、『シングル満喫中』って?」
「嵐嵐はどこにいるの?」
「今日、あなたと約束してたはずでしょ……」
「早くその投稿を消してよ」
「こんな冗談、全然笑えないから!」
「君は、」
「僕がこんなことで冗談を言うと思うかい?」
闕恆遠は窓辺に立ち、雨に打たれて乱れた庭を眺めながら、まるで明日の天気でも語るかのように淡々とした口調で言った。
「恆遠……」
「いったいどうしたのよ?」
「何か誤解でもあるんじゃない?」
嵐嵐は……」
「自分で彼女に聞いてみなよ」
闕恆遠は彼女の言葉を遮った。
その瞳の奥に残っていた最後の波紋さえも、完全に静まり返った。
「彼女に聞いてみるといい」
「僕たちが約束した三周年の記念日に」
「あの二人だけのカフェで」
「彼女が誰を慰めるのに夢中だったのかを」
「誰にキスをしていたのかを」
電話の向こうの悅清禾は一瞬と言っていいほど言葉を失い、ただ荒い息遣いだけが聞こえていた。
「それから」
「ついでに彼女に伝えておいてくれ」
「今この瞬間から、この番号には二度とかけてこないでほしい」
闕恆遠の声は、まるで薄刃のナイフのように冷たかった。
「僕を探そうともしないでくれ」
「彼女に伝えてくれ」
「これが僕の最後の優しさだ」
「問い詰めたりはしない」
「争うつもりもない」
「ただ、彼女に完全に僕の人生から消え去ってほしいだけだ」
悅清禾の返事を待つこともなく、彼は電話を切った。
この通話が、最後の触媒となった。
まずはスマートフォンだった。
彼は無表情のまま必要なビジネスの連絡先だけをバックアップし、「玥映嵐」にまつわるすべての写真、メッセージ、さらには音声データにいたるまでを選択し、完全削除のボタンを押した。
画面のプログレスバーがゆっくりと進む。
1パーセント消えるごとに、彼の目は一層冷たさを増していった。
最後には、十年間使い続けてきたSNSのアカウントそのものを退会処理した。
LINE、Facebook、Instagram……。
彼女をブロックしただけではない。
自身の常用アカウントごとこの世から消し去ったのだ。
続いて、彼は引き出しから普段使いの予備のプライベート番号のSIMカードを取り出し、新しいチップを挿入した。
数々の甘い言葉が刻まれていた古いSIMカードは、爪切りで細かく切り刻まれ、シュレッダーへと投げ込まれた。
彼はウォークインクローゼットへと歩を進め、専用の金庫を開けた。
金庫の中に保管されていた玥映嵐に関するすべての書類、ツーショット写真、さらには映画の半券にいたるまで、彼はすべてを処分用の段ボール箱に掻き入れた。
その瞳に涙はなく、ただ底知れぬ冷たさだけが宿っていた。
あのカフェから持ち帰ったダークブルーの紙袋はといえば、冷たい床の上にそのまま放り出されていた。
紙袋の中で、高価なアンティークのダイヤモンドブレスレットが、薄暗い光の中で自嘲するかのような輝きを放っていた。
ヴィクトリア朝の金工細工は、胸が締め付けられるほどに繊細だった。
彼はかつて、このブレスレットが玥映嵐の華奢な手首に留まる姿を思い描いていた。
この贈り物のために、わざわざ自らヨーロッパへ飛んだことさえあった。
だが今となっては、それはすべて彼のひとり相撲であり、滑稽な笑い話にすぎなかった。
薄暗い部屋の中で、彼は長い間ひとり座っていた。
この関係は小学校の頃から始まっていた。
二人は幼馴染で、大学に至るまで、ごく自然に婚約し、結婚するものだとばかり信じ込んでいた。
玥映嵐は特別な存在なのだと、ずっとそう感じていた。
たとえ彼女に少しわがままなところがあったとしても、彼はすべてを受け入れるつもりだった。
だが、幼い頃から共に育ったあの女の子が、ただか弱さを演じるだけの男に心を奪われるとは、夢にも思っていなかった。
彼は冷ややかに笑った。
復讐などするつもりはない。
彼にとって、完全なる消失こそが最高の反撃だったからだ。
その夜、闕恆遠は普段めったにかけることのない電話番号を回した。
姉の闕語希だった。
「姉さん」
「一番早い東京行きの片道航空券を手配してほしい」
彼の声が、だだっ広い部屋の中に響き渡る。
「それから」
「台湾での連絡先はすべて断つつもりだ」
「その後の始末は」
「頼むよ」
受話器的向こうで、闕語希がしばらく沈黙した後、冷ややかな笑い声を漏らした。
「どうやら、あの玥家の娘がとうとうお前の逆鱗に触れるほどの大バカをやでらかしたみたいだね」
「気兼ねなく行ってきなさい」
「恆遠」
「お前がいらないと言うなら」
「玥家が台北でこれ以上いい思いをする必要もない」
「私の可愛い弟をいじめた代償がどれほど高いものか」
「思い知らせてあげるよ」
「勝手にしてくれ」
闕恆遠は電話を切り、静かに目を閉じた。
同じ頃、台北の別の場所にある高級マンションの一室。
悅清禾はシルクのルームウェアに身を包み、スマートフォンをしっかりと握りしめたまま、血の気を引かせていた。
先ほどその投稿を目にしたとき、彼女はてっきり闕恆遠のアカウントがハッキングされたのだと思った。
だが、写真に写り込んだぼやけていながらも確かな後ろ姿や、玥映嵐が身にまとっている彼女自身が選んだワンピースが、これが現実という名の災難であることを突きつけていた。
「この大バカ者!」
「あの子はいったい何をやってるのよ!」
悅清禾は怒りのあまり地団駄を踏み、すぐに玥映嵐の番号へと発信した。
電話が鳴り響き、しばらくしてからようやく電話に出た。
向こうから聞こえてきたのは、玥映嵐のどこかぼんやりとした声だった。
「清禾?どうしたの?」
「よくそんな平然と聞いていられるわね!」
「今すぐ恆遠のFacebookを見なさいよ!」
「あなた一体何をやっているの?」
「どうして舒子安なんかとキスをしていたわけ?」
「恆遠に見られたってこと、分かってるの!?」
悅清禾は受話器に向かってヒステリックに怒鳴り散らし、今すぐ彼女の頬を叩いてやりたい衝動に駆られた。
受話器的の向こう側が、死んだように静まり返った。
その直後、何かが床に落ちる音が響き、そして玥映嵐の泣き声混じりの悲鳴が上がった。
「どういうこと……」
「恆遠が、見たの?」
「そんなはずないわ」
「彼は来てないわよ」
「用事があるって言ってたもの……」
「いいから投稿を確認しなさいよ!」
「恆遠は『シングルになった』って言ってるのよ!」
「あいつの性格、あなたもよく知ってるでしょ?」
「あの子が本気になったら」
「二度と彼の姿を見ることはできないんだからね!」
「彼が優しくしてくれたのは、あなたを大切に思っていたからよ」
「でも、あなたは彼のプライドを踏みにじったのよ」
「泣き言を言えば元に戻ってもらえるとでも思っているわけ?」
悅清禾はどぎまぎさせられる友人への怒りを隠さず、そう吐き捨てた。
ほどなくして、受話器的の向こうから激しい足音と、切羽詰まった荒い息遣いが聞こえてきた。
玥映嵐はよろめきながらカフェを飛び出し、豪雨が彼女のプリンセスヘアを瞬く間にずぶ濡れにした。
かつての優雅なスタイリングは、見る影もなくボロボロになっていた。
彼女は狂ったように闕恆遠の番号をダイヤルし続けたが、返ってくるのは冷たい機械音声だけだった。
「おかけになった番号は現在使われておりません……」
使われていない?
玥映嵐はその場で足の力が抜け、路上の水たまりの中に崩れ落ちるようにひざまづいた。
彼女には信じられなかった。
日頃から自分のわがままを何でも聞き入れてくれ、強い言葉ひとつかけたことのない闕恆遠が、ほんの一時間足らずの間に、この世界における自身の連絡先を完全に消し去ってしまったなんて。
彼女は慌てて闕家の固定電話にかけ直し、二人の共通の友人にも連絡を取ったが、返ってきた答えはすべて「若様はいかなる方ともお会いになりません」というものだった。
彼女は泣き叫んだ。
声を枯らし、文字通り気が狂ったように泣き濡れた。
舒子安もその時、後を追うように飛び出してきていた。
彼は手を伸ばして玥映嵐を起こそうとし、口々にこう呟いていた。
「嵐」
「そんなに自分を責めないでよ」
「彼がいなくても、僕がいるじゃないか……」
「触らないで!」
玥映嵐は舒子安を激しく突き飛ばした。
その瞳には、これまでにないほどの強い嫌悪と後悔の色が浮かんでいた。
「全部あんたのせいよ……」
「あんたがずっと心臓の調子が悪いなんて言うから」
「あんたが辛いって縋ってきたから……」
「どうして私は……」
「あっちに行ってよ!」
玥映嵐は狂ったように頭を振り、よろめきながら道路の方へ走り出した。
「彼を探しに行かなくちゃ」
「お家に行って待つの」
「彼は私を一番可愛がってくれたんだから」
「私の言い訳を絶対聞いてくれるはず……」
彼女は正気を失ったように地下鉄の駅へと向かい、どうにかして闕家の邸宅へと急いだ。
だが、玥映嵐が闕家の邸宅にたどり着いたとき、彼女を待ち受けていたのは冷酷な現実だった。
普段なら彼女のために開け放たれているはずの重厚な鉄の門は、固く閉ざされていた。
黒いスーツに身を包んだ二人の警備員が大きな傘を差し、まるで石像のように門の前に立ちふさがっていた。
「玥お嬢様」
「お引き取りください」
警備員の声には何の感情もこもっていなかった。
「若様よりお言付かりております」
「本日より」
「玥一族と犬の立ち入りは禁じられていると」
「これ以上お留まりになるのであれば」
「警察に通報するほかありません」
「何を言ってるの?」
「私は映嵐よ!」
玥映嵐は鉄の門を狂ったように叩き、その爪が鉄の格子を引っ掻いて耳障りな音を立てた。
「恆遠を出して!」
「中にいるんでしょ?」
「恆遠!」
「私が悪かったわ!」
「出てきて私の話を聞いてよ!」
警備員たちは顔を見合わせ、冷ややかに言い放った。
「若様はもうここにはいらっしゃいません」
「どこへ行かれたのかは」
「お嬢様が一生かかっても知ることはないでしょう」
その一言が、玥映嵐の最後の幻想を木端微塵に打ち砕いた。
彼女は力の抜けた足を引きずるようにして鉄の門の前に崩れ落ち、冷たい雨水が襟元から流れ込んできたが、その冷たさは彼女の凍てついた心に比べれば何でもなかった。
桃園国際空港のビジネスクラスラウンジ。
闕恆遠は一人で片隅に座り、氷を入れたウイスキーグラスを揺らしていた。
周囲の乗客たちは小声で言葉を交わしており、この冷徹な表情をした若い男に注意を払う者はいなかった。
彼は窓の外、雨のカーテンにぼやけた滑走路の灯りを見つめていた。
台北、二十年以上の記憶が詰まったこの場所は、今の彼にとってただの廃墟にすぎなかった。
飛行機が雲を突き抜けて急上昇した瞬間、彼はこれまでにないほどの自由を感じていた。
たとえその自由の中に、引き裂かれるような痛みが混じっていたとしても。
再び目を開けたときには、すでに三時間以上が経過し、東京の羽田空港に到着していた。
迎えの黒い高級車がターミナルビルの外で待機していた。
運転手はきちんとした制服を身にまとい、恭しく彼の荷物を受け取ると、都心へ向けて車を走らせた。
道路の両側では異国の色彩を帯びたネオンがまたたいている。
闕恆遠は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
それはまるで他人のように見慣れないものだった。
車はやがて、「千御グランドホテル」の玄関前に停車した。
ここは「千家」が経営権を握る千御グランドホテルだ。
豪華さとプライバシーの徹底で知られる最高級ホテルであり、最上階のスイートルームに泊まるのは、各国の要人やトップクラスの富豪たちばかりだった。
ホテルのロビーには、黒く大きなウェーブのかかったロングヘアを揺らし、極めて洗練された仕立てのスーツに身を包んだ女性が、優雅に脚を組んでソファに腰掛けていた。
彼女の手にはブラックコーヒーのカップが握られ、その瞳には年齢に似合わない冷徹さと知性が宿っている。
彼女こそが千御グランドホテルのお嬢さまであり、この旗艦店を実際に切り盛りする千慕羽だった。
そして、その傍らには、冷ややかな雰囲気を纏い、すっきりと高いポニーテールを結った女性が座り、手元の地元のファッション雑誌をめくっていた。
彼女は伊凝雪。
同じく名門の出身で、現在は東京で芸術を学んでいる。
二人はどうやら、重要な人物の到着を待ち構えているようだった。
「慕羽」
「あの闕家の御曹司がさ」
「真夜中に急にワンフロアを貸し切るなんて」
「いったいどんなショックを受けたわけ?」
伊凝雪は顔も上げず、氷のように冷たい声で尋ねた。
「さあね」
「台北のほうで何かあったって聞いたけど」
千慕羽は優雅にコーヒーを一口含み、口元に意味深な笑みを浮かべた。
「でもさ」
「私たちにとっては悪い話じゃないわ」
「その噂の闕恆遠って人」
「一度会ってみたかったのよね」
その時、ホテルの回転扉が開き、闕恆遠が足を踏み入れた。
彼はあの少しシワの寄ったリネンシャツをまとい、疲労と冷徹さをその身に纏ったままロビーへと歩みを進める。
広々とした空間に、彼の落ち着いていながらも孤独な足音が響き渡っていた。
その瞬間、千慕羽と伊凝雪は揃って顔を上げた。
千慕羽は手元のブラックコーヒーを優雅に置き、ゆっくりと立ち上がった。
すらりとした長い脚が、タイトスカート越しにひときわ目を引く。
「闕様」
「いらっしゃいませ」
「東京へようこそ」
「千慕羽と申します」
彼女の声はまろやかで、すべてを掌握しているかのような自信に満ちていた。
その瞳が闕恆遠の冷ややかな目をとらえたとき、ほんのわずかな驚きが掠めた。
そして、その背後に控えていた伊凝雪は、闕恆遠を冷ややかに一瞥しただけで言葉は発しなかったが、その涼やかな眼差しは、普段よりも長く彼の姿にとどまり続けた。
彼女たちは数え切れないほどの権勢ある若きエリートを目にしてきたが、これほどまでに「壊れやすさ」と「気高さ」を完璧に融合させた男を見たことがなかった。
闕恆遠はかすかにうなずくと、余計な社交辞令すら挟むことなく、かすれた声で短く言った。
「部屋の準備はできているか?」
「ええ、もちろん」
「最上階の全景スイートルームを」
「お客様だけのためにご用意しております」
千慕羽は優雅にどうぞと手で示した。
「東京の景色が」
「台北の湿っぽさを少しでも忘れさせてくれればいいのですが」
闕恆遠はエレベーターへと歩みを進めた。
金属の光沢を放つ密閉された空間の中で、彼は鏡に映る自分を見つめ、低く呟いた。
「この街では、何かいいことがあればいいんだがな」




