第9話 事実
宰相府の大会議室は、冬の朝のように冷えていた。
──いや、実際には秋の終わりだ。冷えているのは部屋じゃなくて、私の手のひら。
証人席の椅子は硬い。背筋を伸ばして座っていると、書記局で十年間座り続けた木の椅子を思い出す。あれよりは上等だけれど、座り心地は似たようなもの。
膝の上に、使い込まれた帳面がある。十年分の業務記録。毎日の処理内容、書類番号、作成した文書の控え。
王都に戻って一週間。出席要請を受け取ったあの夜、鞄の底から引っ張り出した。前世の経理部時代からの癖で、自分の仕事は自分で記録する。それだけのこと。
(これが役に立つ日が来るなんて。……ありがとう、前世の私)
会議室を見回す。
正面に宰相ルドルフ・フォン・ヴァルトシュタイン閣下。白髪交じりの壮年で、目だけが鋭い。隣に副宰相。反対側に各局の局長級が並んでいる。外務局長もいる。外交問題に波及しているから、当然か。
書記局の代表席に、ヴィクトル・フォン・ヘルツ。
十年間、私の上司だった男。今日も柔和な表情を作っている。でも──顎の筋肉が、微かに強張っている。あの癖は知っている。焦っている時の顔だ。十年も隣にいれば、わかる。
その後ろに、メリッサ・フォン・オルテア。主任書記官。いつもの華やかな微笑みはなくて、唇がきゅっと結ばれていた。
そして──報告者席に。
レオンハルト。
暗い紺の正装。ベンチで見た外套とは違う。軍服に近い、監査局の公式服。胸元に局章。背筋はまっすぐで、表情は──ない。温泉地で隣に座っていた人とは、別人みたいだった。
「グレイ局長」と、宰相が呼んだ。
グレイ。それがこの人の姓。星空の夜に聞けなかった名前。
目は合わせなかった。合わせたら、何かが崩れそうだった。
◇
「それでは、帝国監査局による書記局監査報告を始めます」
レオンハルトが立ち上がった。手元に報告書の束。
声が変わっていた。温泉地で聞いた低い声と同じ音なのに、温度が違う。これは──仕事の声だ。
「書記局の機能不全について、発端から報告します」
淡々と、数字が並べられていく。エステル・フォン・リヒター書記官の恩暇取得以降、外交書簡の処理遅延が発生。隣国大使館からの正式苦情。帳簿の月次集計未了。文書管理体系の運用停止。
「原因は、特定の書記官一名への業務の極端な集中です。同書記官の十年間の処理件数は、同等級の書記官の平均の三・二倍。時間外業務は常態化し、休日出勤記録は年間の九割を超えています」
会議室がざわついた。局長級の誰かが、小さく声を呑んだのが聞こえた。
「この業務偏在は、管理者——書記局次長の業務配分に起因するものと判断します」
ヴィクトルの顔が動いた。
「閣下、一言よろしいでしょうか」
宰相が頷く。ヴィクトルが立ち上がった。表情は穏やか。声も落ち着いている。──さすがだと思った。この人の政治力は本物だ。
「リヒター嬢は確かに勤勉な書記官でした。しかし、功績は私が指導した結果です。業務の効率化も、帳簿の体系整備も、私の方針の下で——」
「では、照合結果をお示しします」
レオンハルトが遮った。静かに。でも、ヴィクトルの言葉を断ち切るには十分な声量で。
報告書の束から、一枚の比較表を取り出す。
「ヘルツ次長が過去三年間に宰相府へ提出した功績報告書と、リヒター書記官の個人業務記録を照合しました」
(──来た)
私は膝の上の帳面を握りしめた。
「功績報告書に記載された『書記局次長の成果』のうち、八割以上が——実際にはリヒター書記官の業務であったことが確認されました。日付、処理番号、書類の通し番号が一致します」
会議室が、静まり返った。
ヴィクトルが口を開いた。閉じた。もう一度開いた。
「それは——リヒター嬢の記録が正確だという保証は——」
「法務官殿」
レオンハルトがヨハンに目を向けた。
ヨハン・ブレヒトが立ち上がる。分厚い眼鏡の奥の目は、あの日と同じで、一切の私情がなかった。
「リヒター書記官の個人業務記録と、書記局の公式受付台帳、および法務部管轄の副本台帳との三点照合を行いました。──文書の照合結果は明白です。個人記録の信頼性に疑義はありません」
三重保管。
私が十年かけて構築した文書管理体系。原本・副本・台帳を全て別の場所に保管する仕組み。改ざんを防ぐためじゃなく、ただ正確に管理したかっただけ。前世の経理部で叩き込まれた基本。
(まさかこんな形で証拠になるなんて、思ってなかったけど)
ヴィクトルの顔から、柔和な表情が剥がれ落ちた。白い。紙みたいに白い。
「次に、翻訳業務について報告します」
レオンハルトの声は変わらなかった。
メリッサの名前が出た瞬間、後ろの席で椅子がきしむ音がした。
「オルテア主任書記官が提出した外交書簡の清書と、リヒター書記官の下書き原稿を照合した結果、文体上の特徴が高い割合で一致しました。特に——」
「違います!」
メリッサが立ち上がった。声が裏返っている。華やかな顔が紅潮して、唇が震えていた。
「私が手直ししたんです! 下書きを元にして、私が——」
「手直しの痕跡は確認できませんでした。原稿と清書の文面は、語順の癖まで一致しています」
メリッサの口が閉じた。
宰相が、長い沈黙の後に口を開いた。
「──ヘルツ次長。次長職を解任する。詳細は追って通達する」
短い宣告。ヴィクトルは何も言わなかった。言えなかった。
「オルテア主任。始末書の提出と降格を命ずる」
メリッサの肩が、小さく震えた。
私は証人席で、黙っていた。一言も嘲笑しなかった。する気もなかった。
ただ——手の中の帳面が、じんわりと温かかった。十年間、毎日書き続けた記録。自分の仕事を、自分で残す。それだけのことが、今日、全部を証明した。
◇
「──最後に、報告書の補記事項を読み上げます」
レオンハルトの声が、ほんの少しだけ変わった。
気のせいかもしれない。会議室の空気が変わった直後だから、耳が敏感になっているだけかもしれない。でも──あの低い声が、半音だけ下がった気がした。
「なお、当該書記官は恩暇期間中、何もしない時間を過ごすことの意味を、調査者に教えてくれました」
会議室に、困惑が広がった。
宰相が眉を上げた。
「グレイ局長。これは何かね。監査報告書に記載すべき内容とは思えないが」
レオンハルトが宰相を見た。表情は変わらない。背筋はまっすぐ。
「事実を記載しました」
それだけ。
宰相がしばらくレオンハルトを見つめ、それから──小さく、本当に小さく、口元を動かした。笑ったのか、呆れたのか。わからなかった。
「……よかろう。記録として受理する」
私は証人席で、唇を噛んでいた。噛まないと、何か変な声が出そうだったから。
◇
会議が終わった。
宰相が私の元に歩み寄ってきた。
「リヒター嬢。──君の能力は明白だ」
閣下の声は、会議中の厳しさとは違う、穏やかなものだった。
「書記局の文書管理体系を君が構築したことは、今回の監査で確認された。新設する文書管理室の室長に就任する気はないか」
室長。
(……え)
「過去の未払い昇給分の追給と、正当な評価に基づく待遇を約束する。返答は急がない。考えてくれ」
頭を下げた。声が出なかった。出そうとしたけれど、喉が詰まっていて。
「……ありがとうございます、閣下」
それだけ、なんとか絞り出した。
◇
官舎の部屋に帰って、報告書の写しを開いた。
会議で配布されたもの。厚い紙束。数字と日付と照合結果が、びっしりと並んでいる。
最後のページをめくる。
補記事項。
『なお、当該書記官は恩暇期間中、何もしない時間を過ごすことの意味を、調査者に教えてくれました』
活字だった。印刷された、公式な文書の一部。公印が押してある。宰相府に正式に受理された記録。
──この一文を、あの人は書いた。
帝国監査局長の公文書に。宰相が読む報告書に。各局の局長が目を通す公式記録に。
調査報告書に書く必要のない、たった一文。
温泉地のベンチ。饅頭を分けた朝。夕焼けを見た午後。祭りの夜。星空の下で名前を交わした、あの時間。
あの時間を、この人は——公文書に、残した。
涙が出た。
温泉地で夕焼けを見た日以来だった。あの時と同じだ。声が出ない。ただ頬を伝って、顎の先から落ちて、紙の上に染みを作る。
(──調査のためだけに、こんな一文は書かない)
わかっている。わかっているのに、信じるのが怖い。また「道具」だったらどうしよう。また「仕事ができるから」だったらどうしよう。前世から引きずっている、この臆病な自分が。
でも。
この一文は、仕事じゃない。
監査局長が公文書の枠を破って書いた、仕事じゃない一文。
あの無愛想な人が、唯一、言葉で残してくれたもの。
報告書を胸に押し当てた。紙の匂い。インクの匂い。──あの上着の匂いと、少しだけ似ていた。
しばらくそうしていたら、扉を叩く音がした。
慌てて涙を拭いて、開ける。宿直の書記官。
「リヒター嬢、もう一通お届け物です。帝国監査局から」
薄い封書。封蝋に、監査局の紋章。
開ける。中身は一枚の紙。短い文面。
『監査の後日確認のため、近日中にお伺いします。 グレイ』
(……後日確認)
公的な名目。監査局長として、当然の業務連絡。
──なのに、紙を持つ手が震えていた。
窓の外では、王都の空が夕焼けに染まり始めていた。リンデンバートで見た夕焼けと、同じ色。




