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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第8話 道具

 足音が、ベンチの向こうから近づいてくる。


 速い。──仕事の足音だ。


 休暇十四日目の朝だった。いつものベンチ。いつもの場所。隣にはレオンハルトさんがいて、膝の上に書類を広げて──いや、今日は書類を出していなかった。


 名前を知った夜から、二日が経っている。


 あれ以来、何かが変わったかというと、変わっていない。朝のベンチで隣に座り、昼は市場を歩き、夕方は温泉に浸かる。ただ──「レオンハルトさん」と呼べるようになった。それだけ。


 それだけのことが、嬉しかった。名前を呼ぶたびに、胸の奥の蝋燭がちらりと揺れる。


 (この時間が、ずっと続けばいいのに)


 口には出さなかった。出したら、何かが壊れそうだったから。


 足音は、まだ近づいていた。



 砂利を踏む音が止まった。ベンチの前。


 見知らぬ男が立っていた。三十代半ば。温和そうな顔立ちだが、旅装は整っている。王都の役人が着る類の上着。靴は上等だが埃だらけで、長い距離を馬車で来たのだとわかる。


 男は私ではなく、隣のレオンハルトさんを見ていた。


 「局長、至急お耳に入れたいことが──」


 空気が、凍った。


 局長。


 レオンハルトさんの顔が強張ったのを、横目で見た。顎の筋肉がぴくりと動いて、暗い瞳が鋭くなった。


 「──ルッツ。場所を選べ」


 低い声。いつもの短い言葉。でも温度が違う。ベンチで隣に座っていた人の声じゃない。上に立つ人間の声。命令の声。


 男──ルッツと呼ばれた人が、そこで初めて私に気づいた。目が丸くなって、口が開いて、閉じて。


 「し、失礼しました。あの、こちらは──」


 「下がっていろ。宿で待て」


 ルッツが背を向けて走り去る。砂利を踏む足音が遠ざかっていく。


 ベンチの上に、沈黙が落ちた。


 風が吹いた。木の葉がさらさらと鳴る。遠くの温泉の湯けむりが白く立ち上っている。いつもと同じ景色。何も変わっていない。


 ──何もかも、変わった。


 私は立ち上がった。


 レオンハルトさんがこちらを見た。暗い瞳。あの星空の夜と同じ顔。でも今は、読めない。何を考えているのか、何を隠しているのか。


 「局長というのは」


 声が平坦だった。自分の声じゃないみたいだ。前世の会社で、上司に理不尽を言われた時と同じ。感情を切り離して、事実だけを確認する声。


 「何の、局長ですか」


 沈黙。


 風。木の葉。湯けむり。


 「……帝国監査局だ」


 帝国監査局。


 王宮の各部署を監査する独立機関。知っている。書記局にいた十年間で、名前だけは何度も聞いた。


 (──「人の仕事を調べている」。あの言葉。冗談で「監査官みたいなもの」と言った時、この人の唇が一瞬動いた。あれは、笑ったんじゃない。歪めたんだ)


 胸の底を、冷たいものが流れた。氷水みたいに。じわじわと、広がっていく。


 「あなたが調べていたのは──書記局ですか」


 「……ああ」


 「その調査対象に、私は含まれていますか」


 長い沈黙。


 レオンハルトさんの指が、膝の上で一度だけ握り締められて、開いた。


 「……含まれて、いた」


 過去形。


 ──それに気づいたのは、頭のどこか冷静な部分だけだった。


 残りの全部が、凍りついていた。


 含まれていた。調査対象だった。私は。書記局のリヒター書記官は。


 ベンチで隣に座って、饅頭を分けて、仕事の話を聞いて、上着をかけて、祭りで手を引いて、星を見て、名前を交わした。


 あの全部が。


 道具。


 前世でもそうだった。使える人間だから必要とされた。仕事ができるから声をかけられた。経理の知識があるから重宝された。そして使い終わったら──


 「そうですか」


 自分の声が、遠くから聞こえた。


 「──結局、私は仕事の道具としてしか、見られないんですね」


 言ってから、ああ、と思った。この言葉は、レオンハルトさんだけに向けたものじゃない。ヘルツ次長にも。メリッサにも。前世の上司にも。二十八年と二十五年、ずっと「道具」だった自分に。


 背を向けた。


 歩き出した。


 ──後ろから、足音は聞こえなかった。


 追いかけてこない。当然だ。監査局長が、調査対象に何を言うというのか。「違う」とでも? 何が違うの。最初に私に近づいたのは調査のため。それは、この人自身が認めた。


 公園の出口が見えた。石段を降りる。足が震えているのは、石段が急だからだ。他に理由はない。


 振り返らなかった。



 宿に帰ると、マルタが厨房から顔を出した。


 「お嬢さん、今日は早いね。お昼には──」


 「マルタさん。荷物をまとめます。明日の朝の馬車で発ちますので」


 マルタの目が一瞬だけ細くなった。何かを察したような顔。でも、何も聞かなかった。


 「……わかったよ。朝ごはん、早めに出しとくからね」


 部屋に戻って、荷物を詰め始めた。着替え。本。路銀。帳面。


 ベッドの上に、白い小熊のぬいぐるみが座っていた。


 丸い目。小さな桶。祭りの夜の射的の景品。三発三中。


 (──あの射的の腕は、監査官の腕じゃない。もっと別の、もっと……)


 そこまで考えて、やめた。もう関係ない。あの人が何者でも。


 ぬいぐるみを手に取る。ふわふわしている。こんなに柔らかいものを、あの無表情で差し出してきた人。「いらないか?」って。


 鞄にしまおうとして──手が止まった。


 (……でも)


 居眠りした日のことを思い出す。目を覚ましたら肩にかかっていた、暗い紺色の上着。インクの匂い。マルタが教えてくれた。「あの青年さんが、そっとかけて、反対側に座り直してたよ」。


 あれは。


 あの温もりは。


 ──調査のために、上着をかける人がいるだろうか。


 涙は出なかった。出したかったのに、出なかった。泣けないほど、頭の中がぐちゃぐちゃだった。怒っているのか悲しいのか、わからない。道具だったのか、そうじゃなかったのか。あの星空の夜の「エステル」という声は、調査だったのか。


 ぬいぐるみを、鞄の底にしまった。捨てる気にはなれなかった。



 翌朝。


 マルタの朝食を食べて、宿を出た。振り返ると、マルタが戸口に立って手を振っていた。


 「またおいで、お嬢さん。うちの温泉はいつでも待ってるからね」


 「──ありがとうございました」


 頭を下げた。泣きそうになったのは、マルタの声が温かかったから。


 乗合馬車の停留所に向かう道で、公園の前を通った。


 ベンチが見えた。


 ──誰もいなかった。


 当然だ。あの人が毎朝あのベンチにいたのは、調査の書類を読むためだったんだから。もう用が済んだなら、いる理由がない。


 (……違うかもしれない。でも、今はそう思わせて)


 馬車に乗った。硬い座席。五日間の道のり。来た時と同じ馬車。でも、来た時とは全部違う。


 窓の外を、リンデンバートの赤い屋根が遠ざかっていく。



 五日後、王都。


 官舎の部屋は、出発した時のまま──いや、埃が薄く積もっている。窓を開けると、秋の終わりの冷たい風が入ってきた。


 鞄を置いて、机の引き出しを開ける。使い込まれた帳面。十年分の業務記録。


 (……ただいま、か)


 誰も「おかえり」とは言わない。前世と同じ。仕事に戻るだけ。恩暇はまだ残っているけれど、もう温泉地にはいられない。


 扉を叩く音がした。


 開けると、宿直の書記官が立っていた。見知らぬ顔。テオではない。


 「リヒター嬢。──宰相府から、お届け物です」


 差し出された封書。厚い羊皮紙。封蝋に、宰相府の紋章。


 受け取って、封を切る。


 『帝国監査局による書記局監査報告会議 証人出席要請


  リヒター書記官殿


  貴殿の出席を要請する。日時は追って通知する。


  本件は宰相府直轄案件であり、出席は義務とする。


      宰相府法務局 印』


 公印。宰相府の公印。


 これは──回避できない。


 文書を持つ指先が、微かに震えた。


 監査報告会議。帝国監査局による。書記局の。


 (……あの人が、やるんだ。あの人の仕事として)


 レオンハルトさんの顔が浮かんだ。ベンチで書類を読んでいた横顔。低い声。暗い瞳。「含まれていた」と言った時の、握り締められた指。


 文書を机の上に置く。


 鞄の底から、白い小熊のぬいぐるみが覗いている。


 ──全てが嘘なら、涙も出ないはずだ。なのに喉の奥がこんなに痛いのは、嘘じゃない部分があったからで。


 でも今は、それを信じる余裕がなかった。

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