第7話 名前
最小幸福には期限がある。
──それを、私は二度目の人生でようやく知った。
十二日目。恩暇の残りを指折り数える朝が、いつの間にか習慣になっていた。六十日あるとはいえ、永遠ではない。
ベッドの中で天井を見つめる。染みの位置まで覚えてしまった宿の天井。左上に楕円、右下に三日月。最初の夜は「壁に染みがあって最高」と思ったのに、今はこの染みが愛おしい。
(……帰りたくないな)
声には出さなかった。出したら、本当に帰れなくなりそうだから。
◇
朝のベンチには、もういつもの人がいた。
暗い紺の外套。膝の上の書類。眉間の──今日は、皺が浅い。ここに来た頃より、少しだけ。
「おはようございます」
「ああ」
隣に座る。もう何も言わなくても、右端があの人の席で、左端が私の席。
風が吹いた。山の空気は日ごとに冷たくなっている。秋が深まっている。温泉の湯けむりが、朝日の中で金色に光っていた。
「今日、丘に登りませんか。マルタさんが、上からの景色がいいって」
あの人が書類から目を上げた。
「……丘」
「この道をまっすぐ行って、石段を登った先です。温泉街が一望できるとか」
一拍。書類を閉じて、革鞄にしまう。
「行くか」
(この人が書類をしまうの、何気にけっこうレアなんだけど。気づいてるかな、本人)
◇
丘の上には、古い東屋があった。
屋根の半分が蔦に覆われて、石のベンチが二つ。そこからの眺めは、マルタの言う通りだった。眼下にリンデンバートの温泉街が広がり、赤い屋根が秋の山に抱かれるように並んでいる。遠くの山並みが青くかすんで、空との境が曖昧に溶けている。
「……きれい」
思わず声が出た。
隣のベンチにあの人が座る。外套の裾が石に触れて、かさりと鳴った。
しばらく、黙って景色を眺めた。風だけが吹いている。前世の展望台とは違う。柵もないし、売店もないし、記念写真を撮る人もいない。ただ、山と空と、小さな温泉街。
「あなたは」
口を開いたのは、自分でも予想しなかったタイミングだった。
「休暇を楽しんでいますか?」
ここに来てから何度も聞きたかった。でも聞けなかった。だってこの人、ずっと書類を読んでいて、休暇なんて楽しそうに見えなかった。私が饅頭を渡した時も、祭りで屋台を回った時も、楽しんでいるのかいないのか、あの無表情からは読めなくて。
あの人が、遠くの山を見ていた。
長い沈黙。
「……今は、そうだな」
短い答え。いつもと同じ。
──でも、「今は」という言葉に、少しだけ力がこもった。
(前は楽しくなかったけど今は楽しい、ってことかな。まあ、毎日書類ばかり読んでいたら楽しくないだろうし)
「それならよかったです」
私は素直にそう答えた。温泉街を見下ろしながら、深く息を吸う。秋の、ひんやりした山の空気。温泉の硫黄の匂い。木の葉が色づき始めている。
あと何日、この景色を見られるだろう。
◇
王宮、宰相府──。
ヴィクトル・フォン・ヘルツは、法務官ヨハン・ブレヒトの執務室に乗り込んでいた。
「功労恩暇の条文について、手続き上の瑕疵を確認したい。再審査を要求する」
ヨハンは分厚い眼鏡の奥から、感情のない目でヴィクトルを見た。
「根拠は」
「十年間無欠勤の勤務記録について、書記局が公式に確認したものではない。書記局次長としての私の決裁なく、局の勤務記録が外部に提出された手続きに瑕疵がある」
論理自体は筋が通っていた。法務官は再審査請求を拒否する理由がない。
「──わかりました。再審査に応じます」
ヨハンは宮廷規則集と勤務記録簿を取り寄せた。条文を一字一句確認し、そして──エステル・フォン・リヒターの十年間の出勤記録を、改めて精査した。
結果は、ヴィクトルが望んだものではなかった。
「ヘルツ次長。条文に瑕疵はありません。しかし──」
ヨハンがペンを置いた。
「──この勤務記録には、別の問題があります」
十年間の処理件数。一人の書記官が一日に処理した書類の枚数。土日を含む出勤記録。時間外業務の常態化。
「リヒター書記官の業務量は、同等級の書記官の三倍を超えています。これは管理者の業務配分に重大な偏りがあったことを示しており──宰相府に報告する義務があります」
ヴィクトルの顔から血の気が引いた。
「待て。私が聞いたのは条文の瑕疵であって──」
「再審査とは、関連する全ての記録を精査することです。ヘルツ次長がご自身で要求されたことです」
ヨハンの声は淡々としていた。法の番人。それ以上でもそれ以下でもない。
報告書は、その日のうちに宰相府に届けられた。
宰相ルドルフ・フォン・ヴァルトシュタインは、報告書を読み終えると、長い溜息をついた。
「一人の下級書記官に、十年間──これだけの業務を」
指先で報告書の縁を叩く。外交書簡の遅延。帳簿の不整合。そして今、この異常な勤務記録。
「……監査局に調査を依頼するか」
誰に向けたのでもない、独り言だった。
◇
夜。
宿の裏庭に出ると、空いっぱいの星だった。
王都では見えない星が、ここでは降るように光っている。前世の天の川に似ていて、でもずっと近い。手を伸ばしたら触れそうなくらい。
「……すごい」
裏庭の端に、木の柵がある。そこにもたれて空を見上げていたら、足音がした。
振り返らなくてもわかった。この足音は覚えた。
あの人が、隣に来て、同じように柵にもたれた。外套の端が、私の肩に触れるか触れないかの距離。
星を見上げたまま、しばらく黙っていた。虫の声が響いている。温泉の湯気が、闇の中でぼんやり白く漂っている。
「……明日、王都に帰らなきゃ」
嘘だ。まだ数日ある。でも、口をついて出た。心の準備をしたかったのかもしれない。この時間に、終わりがあることを。
あの人が、隣で息を吸った。
何か言いかけた──気がした。唇が動いて、言葉が喉まで上がってきて、そこで止まった。
沈黙。
星だけが、ちかちかと瞬いている。
あの人は何も言わなかった。私も待たなかった。──待ったら、聞きたくないことまで聞いてしまいそうだったから。
代わりに、別のことを聞いた。
「名前──聞いてもいいですか」
ここに来てから、ずっと避けていたこと。名前を知ったら「ただの人」ではいられなくなる。肩書きがついて、身分がついて、この温泉地の魔法が解けてしまう気がして。
でも。
名前も知らないまま別れるのは、もっと嫌だった。
長い沈黙。
星が一つ流れた。尾を引いて消えた。
「……レオンハルト」
低い声。いつもの短い答え。でも、そこに姓はなかった。名前だけ。
「レオンハルトさん」
呼んでみた。声に出すと、急に、その人がそこにいることが確かになった。
「私はエステルです」
あの人が──レオンハルトさんが、少しだけ顔を動かした。星明かりの中で、横顔の輪郭がほんの一瞬、こちらを向いた。
「……エステル」
復唱された。
低い声が、私の名前を乗せて、夜の空気に溶けた。
それだけ。
それだけのことなのに──胸の奥で、何かが温かく灯った。蝋燭みたいな、小さな火。手で囲わないと消えてしまいそうな、頼りない光。
「……いい名前だ」
聞き間違いかと思った。この人がそんなことを言うなんて。
でも聞き返す前に、レオンハルトさんは空を見上げていた。何事もなかったような横顔。星の光が、暗い瞳に映り込んでいた。
(……なんだろう。心臓が、うるさい)
人混みの緊張じゃない。祭りの太鼓のせいでもない。ただ名前を呼んだだけなのに。呼ばれただけなのに。
星が、きれいだった。
この夜のことを、私はたぶん、ずっと忘れないだろう。




